藤原道長は平安時代中期の公卿です。
父・藤原兼家は摂政を務め権力を握り、父の亡き後は藤原道長の兄、藤原道隆、藤原道兼が摂関となりました。
2人の兄が亡くなった後、道長は左大臣として政権を掌握し、また自らの娘たちを入内させることで摂政となり朝廷内で強力な権力を持ちます。
道長の娘の立后の日に詠まれた歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」は道長の有名な歌ですが栄華の象徴として詠われたものでした。
そんな藤原道長の生涯、摂政、家系図、歌について解説していきます。
藤原道長の生い立ち
摂政関白太政大臣を務める父・藤原兼家の五男として慶保3年(966)に京都にて誕生します。
永延元年(987)藤原道長は左大臣・源雅信の娘・源倫子を正室とし、翌年、永延2年(988)には長女の藤原定子が誕生しました。
その後、側室には源高明の娘・源明子を迎えます。
兄に藤原道隆と藤原道兼を持ち、父・藤原兼家の亡き後はこの2人が父・藤原兼家の代わりに関白を務めました。
父・藤原兼家が亡くなると長男・藤原道隆が摂関につきます。しかし酒の飲みすぎによる糖尿病で亡くなったとされその後、弟・藤原道兼が摂関を継ぎます。
しかし藤原道兼も摂関になってから長くは続かず、伝染病にかかり亡くなってしまいました。
藤原伊周との対立
藤原道隆、藤原道兼の亡き後、次に摂関を務めるのは五男・藤原道長と思われましたが、長男・藤原道隆の息子・藤原伊周が摂関になろうと企んでいました。
藤原伊周が政権を握ると社会が乱れていまうと考えていた藤原道長は藤原伊周と対立をおこします。
藤原道長の姉、一条天皇の母后・東三条院は弟である藤原道長が摂関になることを強く推し続け、そのかいあって藤原道長は右大臣に任命されます。
この時、藤原道長はわずか30代で藤原氏長者となりました。
長徳の変
藤原道長と藤原伊周の対立が続く中、長徳2年(996)に藤原伊周と藤原伊周の弟・隆家が女性関係が原因で花山法皇を弓で襲うといった事件を起こします。
この事件の噂はすぐに広がり、この事件の際、藤原伊周は禁じられている呪術である大元帥法を行ったとして大宰権帥に左遷されました。
これを機に藤原道長は発言権のある左大臣と昇進し、また天皇に渡される書類の検閲を行う内覧の地位にとどまりました。
権力を持った藤原道長
長女・藤原彰子を入内させる
朝廷での権力を持った藤原道長は一族繁栄のため、自分の娘たちを入内させます。
長保元年(999)11月、まず正室との間にできた長女である藤原彰子を一条天皇のもとに女御として入内させました。
もともと一条天皇には中宮定子を后としていましたが藤原道長は中宮定子を皇后宮と号する事とし、藤原彰子を中宮とさせました。
これで一条天皇には皇后宮・藤原定子、中宮・藤原彰子の2人の后を持つこととなります。
孫の誕生
寛弘5年(1008)9月、藤原彰子と一条天皇の間に皇子・敦成親王が誕生しました。
翌年には敦良親王が誕生し、藤原道長は大変喜んだそうです。
寛弘8年(1011)6月、病床に臥した一条天皇は冷泉天皇の息子である東宮居貞親王に天皇の位を譲り渡します。
次女・藤原妍子を入内
長和元年(1012)、次に藤原道長は正室との間にできた次女・藤原妍子を入内させます。当時、東宮の位にいた三条天皇の皇后とさせました。
この際、藤原道長に関白就任を勧められますが、藤原道長はこれを断り内覧の地位に留まります。
摂政となった藤原道長
長和5年(1016)三条天皇は失明寸前の眼病にかかり藤原彰子の息子・敦成親王に天皇の位を譲り渡し、敦成親王は後一条天皇となります。三条天皇は天皇の位を譲ったため上皇となりました。
そして藤原道長は摂政の宣下を受け、権威を奮っていくこととなります。
翌年、寛仁元年(1017)藤原道長は摂政を嫡男の藤原頼通に譲り、太政大臣となり後継体制を固めていきます。
三女・藤原寛子を入内
三条上皇が寛仁元年(1017)5月に亡くなると、太政大臣となった藤原道長は三条上皇と藤原済時の娘・藤原娍子の間に生まれた敦明親王に藤原道長と側室との間にできた三女・藤原寛子を妃とさせます。
三女・藤原威子を入内
後一条天皇が11歳を迎えた寛仁2年(1018)、藤原道長は正室との間にできた三女・藤原威子を後一条天皇の后として入内させました。
藤原道長の最期
藤原道長は寛仁3年(1019)病に冒され剃髪をし出家を決意しました。
出家後は法成寺に移り住みますが、道長の娘の藤原寛子、藤原嬉子、藤原顕信、藤原妍子らに先立たれ、また自らも病状の悪化に苦しみ安らかな晩年ではなかったとされています。
その後、万寿4年(1028)道長は癌、または糖尿病からの感染症によって62歳で亡くなりました。
摂政とは
藤原道長が長和5年(1016)に宣下された摂政とはどのような役割であったのでしょうか。
摂政とは幼い天皇、または病気などにかかり政務が行えない場合に代わって政務を行う代行者のことを指します。
藤原道長が摂政に任命されたのは後一条天皇がまだ8歳で政務を行うには幼すぎたため代行者として道長が摂政となりました。
藤原道長の詠んだ歌
藤原道長には娘・藤原威子の立后の日に開かれた宴の場で即興でつくられたとされる歌が残ります。
この歌は、この世は自分のためにあるようで、満月のように欠けたものは何もないといった意味が込められ、道長の傲慢さと政権を握る道長の自信が表れている歌となっています。
この歌を歌った藤原威子の立后の日の様子は道長の日記「御堂関白記」に記述されていますが、この歌を歌ったことは書かれていません。
しかし平安時代の公卿、藤原実資が残した「小右記」にこの歌について記述されており、このように「この世をば」の歌が後世に伝えられるようになりました。
藤原道長の娘たち
藤原道長は長徳の変以降、左大臣に進むことになり、あわせて内覧を務めます。
政務の発言権をもつ左大臣と文章の検閲を行う内覧を務めていた道長は藤原家の中でも最高権力者となりました。
左大臣と内覧を務めていただけではなく、一家立三后を成し遂げたことによって圧倒的な権力を手に入れます。
一家立三后
一家立三后とは、藤原道長の娘、孫3人を生きている間に皇后にしたことをいいます。
在位中の天皇の正妻を皇后、上皇の正妻を皇太后、前々天皇の妻を太皇太后と呼び、後一条天皇が在位中の際、長女・藤原彰子は太皇太皇、次女・藤原妍子は皇太后、三女・藤原威子は皇后でした。まさに一家立三后です。
三代にわたって天皇の皇后を藤原家が連続して輩出したことは異例のことであり、藤原実資は「小右記」に「一家立三后、未曾有なり」と記しました。
家系図
奈良時代、平安時代と常に政治の前線にいた藤原家は天皇家との婚姻関係を持ち、絆を深め権力を拡大してきました。そんな藤原家の栄華は、平安時代中期、藤原道長の時期にあったとされています。
藤原氏の起源、中臣鎌足
藤原氏の起源を遡ると、家系図には藤原家の起源として中臣鎌足が書かれていることがあります。
飛鳥時代に活躍した中臣鎌足が中大兄皇子から藤原の姓をもらい受けたのが始まりとされ家系図に記されるようになりました。
その後、中臣鎌足の子供、不比等の子孫のみが藤原の姓を名乗ることを許され、これによって不比等が実質的に藤原家の家祖となります。
4つの家系に
不比等の息子は4人いました。
長男・藤原武智麻呂は南家、次男・藤原房前 は北家、三男・藤原宇合は式家、四男・藤原麻呂は京家と4人の息子たちはそれぞれの家系に分けられます。
北家に生まれた藤原道長
この4つの家系のうち藤原北家と呼ばれる家系が摂関や関白などを担ってきました。
北家5代目の藤原良房は摂政となり、その養子の藤原義経は関白を務めます。次に藤原伊伊に摂政が渡り、その後、父・藤原兼家、長男・藤原道隆、次男・藤原道兼、そして藤原道長が摂政となりました。
さいごに
藤原道長には2人の優秀な兄がいました。
そのため出世の見込みはないとされていましたが、2人の兄が亡くなり、また伊周と後継者争いに勝ち、権力のある内覧、左大臣に任命されます。
その後、自分の娘や孫たちを天皇の皇后にし摂政となることで大きな権力を握ることができました。
藤原道長が摂政になり絶対的権力を持てたのは道長の持つ運の良さと、4人の娘たちのがいたからこそチャンスをものにすることができたのではないでしょうか。