中臣鎌足(藤原鎌足)とは?子孫や家系図、中大兄皇子との関係について解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

中臣(なかとみ)姓で忽然と飛鳥時代に登場し、日本の歴史の中で最大の氏族となった藤原(ふじわら)姓で歴史から去った人物・中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)。

彼が掴んだ天智天皇(中大兄皇子)からの信頼はその後の藤原氏の繁栄の基礎となり、子孫である藤原氏の家系図を紐解くと藤原四家(南家、北家、京家、式家)、そののちの五摂家(近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家)は公家社会では絶大な勢力を誇り、日本史上摂政の位に就いたのは藤原氏血族だけで、関白も豊臣秀次以外は全て藤原氏血族で占められています。

藤原氏繁栄の基礎を築いた中臣鎌足こと藤原鎌足は何故、歴史の表舞台に登場することになったのか、大化の改新少し前から歴史を紐解いてみたいと思います。

中臣鎌足の出生から青年期

中臣鎌足は日本の歴史上最初の女性天皇・推古天皇の時代であった614年に神祇官(朝廷の祭祀を行う官庁)の長官・神祇伯(じんぎはく)中臣御食子(なかとみのみけこ)の嫡男として生まれました。

生誕の地は奈良県橿原市または明日香村で生まれた説と父が茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の神官に赴任していた時に鹿嶋市で生まれた説が存在します。

鎌足は幼少期から非凡な才能を開花させ「六韜(りくとう・中国の兵法書)」を暗唱し、蘇我入鹿とともに南淵請安(みなぶちのしょうあん)の塾の双璧と評されていました。

 

中臣鎌足・青年期から決起へ

30歳の時に中臣氏の代々の役職・神祇官への就任を打診されますが、これを辞退して一時期、摂津の三島に退き政治から遠ざかります。

これは神祇官の位が蘇我氏の大臣(大臣・律令では天皇に次ぐ位とされる)と比べると遥かに下の位になるため、それを避けたという説があり、既にこの頃から打倒蘇我氏を考えていたとも言われています。

専横を募らせる蘇我氏を打倒するための秘策を胸に飛鳥に戻った鎌足は、まずは皇位継承権を持ち、蘇我氏打倒の大義となれる人物を探しました。

最初は皇極天皇(こうぎょくてんのう)の弟である軽皇子(かるおうじ)に接近しますが、人物的にも能力的にも物足りず、次の人物を探したときに皇極天皇の息子である中大兄皇子と蹴鞠の会で面識を得ます。蘇我氏に対して同じ志を持つ二人はすぐに打ち解けあい、密かに蘇我氏討伐の秘策を練り上げていきます。

 

中大兄皇子との関係

中大兄皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)と皇極天皇(こうぎょくてんのう)の間に生まれた舒明天皇の次男にして天皇家のサラブレッドです。

兄は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)でこちらは母が蘇我馬子の娘であり、蘇我氏が全面的にバックアップして天皇への階段を登っていました。

蘇我入鹿は古人大兄皇子を天皇にするために最大のライバルと見られていた聖徳太子の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を謀殺し、政治を私物化していきます。

自分の理想とする国家を作るために権力を握りたい二人の男・中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿の専横が募る中、蹴鞠の会で中大兄皇子が飛ばした靴を中臣鎌足が拾ったことがきっかけで親交を深めます。

 

中臣鎌足・乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿暗殺

蘇我氏打倒の策を練った中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏一族でありながら入鹿をよく思っていなかった蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を味方に引き込み、反蘇我氏の勢力を拡大し、645年7月10日に行われた三国の調の儀式(新羅、百済、高句麗からの貢ぎ物を受けとる儀式)の席上で蘇我入鹿を暗殺。

翌日、蘇我蝦夷の討伐のため法興寺に軍勢を集結させると、蝦夷は自邸に火を放ち自害、蘇我宗家は滅びました。

そして翌日、軽皇子が即位して孝徳天皇となり中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣に就任、新政権の外交と軍事を担当しました。

 

中臣鎌足・晩年からその後

645年10月、蘇我入鹿に推されていた古人大兄皇子を謀反の疑いで討伐、潜在的な対抗勢力を葬り、翌646年、天皇中心の律令国家を目指す指針である改新の詔が出され、中大兄皇子と中臣鎌足は新政府の両輪となって次々と政策を打ち出します。これが大化改新です。

この後、政治的路線の違いから中臣鎌足は左大臣の阿倍内麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立しますが、中大兄皇子は一貫して中臣鎌足を支持し、蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂は失脚、また孝徳天皇と中大兄皇子が対立したときは中臣鎌足は中大兄皇子の側近として事態を収拾し、中大兄皇子と中臣鎌足は鎌足が死去するまで知り合ったときと変わらずお互いを支持し続けました。

中臣鎌足が病の床に臥せっているとき、見舞いに訪れた天智天皇(中大兄皇子)は鎌足に対し、これまでの功績を称え官位の最高位である大織冠を授け、内大臣に任じ、「藤原」の姓を贈りました。

この翌日、中臣鎌足は55年の波乱の人生の幕を閉じました。

 

中臣鎌足の子孫や家系図

藤原鎌足亡きあと、藤原及び中臣一族は壬申の乱で近江朝(大友皇子派)に与したとして一時期政権の中枢から退けられました。しかし鎌足の次男・藤原不比等が藤原氏の権勢を一から立て直し、再び表舞台に登場させます。

また平安時代には左大臣、摂政として円融、花山、一条、三条、後一条の五人の天皇に使えた藤原道長が摂関政治期最大の寺院・法成寺(焼失したため現存していない)を建立、その息子・藤原頼通は摂関政治の全盛期を作り出しその象徴である平等院を建立、華やかな皇族、貴族文化を後世に伝え、藤原氏の家系図は隆盛を見せます。

平安時代以降、摂関政治は衰退し院政や武士の台頭により藤原氏の権勢は衰退しますが、公卿としての権威が衰えることはなく、公家社会で最高の家格であり続けました。

 

さいごに

乙巳の変、大化の改新と律令国家への道筋をつけた中臣鎌足は孝徳天皇、推古天皇、天智天皇と続く時代に中大兄皇子から絶大な信頼が寄せられ藤原氏隆盛の基礎を作りました。

中堅公卿であった中臣鎌足は死の寸前には打倒した蘇我氏と変わらない地位と名誉を入れるところまでになり、中大兄皇子に見送られるようにこの世を去ります。

蹴鞠の会で靴を拾って手渡したときから、一度も中大兄皇子を裏切ることなく支え続け、また中大兄皇子も中臣鎌足に全幅の信頼をおき、大化の改新という改革を推し進めました。

権力を握った二人の人物が長きに渡ってこのような関係を続けるのは非常にレアなケースで通常は権力闘争や暗殺、裏切り、内乱などが起こるのですが、中臣鎌足が死去するまでこの二人の関係は揺るぐことはありませんでした。

大化の改新を成し遂げた二人は、お互いの人格や能力を信じきっており、誰にもわからない強い絆で結ばれていたのでしょう。