蘇我入鹿とは?暗殺や家系図、聖徳太子と同一人物という説を解説!

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蘇我入鹿の曾祖父にあたる蘇我稲目(そがのいなめ)が宣化天皇(せんかてんのう)の時代に大臣となり、自身の娘を天皇に次々と嫁がせて外戚政治を行い、勢力を拡大していた時代。

この頃、蘇我氏以外に力を持った豪族物部氏と激しく対立し、蘇我稲目の息子・蘇我馬子(そがのうまこ)は皇位継承で対立した物部守屋を滅ぼし、蘇我氏の独裁権を確立し娘婿となる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に据えて政治改革を推し進めます。

馬子の息子・蘇我蝦夷(そがのえみし)の代になるとその権勢に並ぶべきものがなくなり、いよいよ蘇我氏の専横が激しくなります。

天皇の即位は意のままになるものを当て、息子の入鹿に紫冠(冠位十二階外の最高位の冠)を授け、自分こそが大王(おおきみ)と言わんばかりでした。

この蘇我氏全盛の時代に蘇我蝦夷の息子として登場したのが蘇我入鹿(そがのいるか)です。

蘇我氏を滅亡の道へと歩ませた蘇我入鹿とはどのような人物だったのか、暗殺や家系図、聖徳太子と同一人物だという説を、時代の流れを追って探りたいと思います。

蘇我入鹿とは

生年ははっきりとわかっておらず、600年~610年の生まれではないかと推測されています。

皇極天皇が即位するとき、父の蝦夷が大臣であるにも関わらず、すでに国政を掌握しており、翌年、大臣の座も父・蝦夷から譲られます。

入鹿の時代になると三代続いた蘇我氏の専横に対する不満や批判も大きくなっており、天皇中心の政治制度に戻そうとする動きも強くなって、入鹿が古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を天皇に擁立しようとしますが、反蘇我氏勢力が山背大兄王(やましろのおおえのおう・聖徳太子の子)の擁立を図ります。

山背大兄王は蘇我一族(母が蝦夷の姉)であったにも関わらず、入鹿は意のままにならない山背大兄王を攻め、自害に追い込みます。(これ以上蘇我氏の血族が在位するのは良くないとして討ったとも言われている)

表向きには対抗勢力がなくなった入鹿は皇室行事をも独断で行うなど、揺るぎない独裁体制を築き上げたかに見えましたが、645年古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿で殺害され、翌日には父の蝦夷も自邸に火を放って自害し、蘇我氏宗家は呆気なく滅亡してしまいます。

そして大化改新へと繋がっていくのです。まさしく「奢れる者は久しからず」の例え通りの没落でした。

 

蘇我入鹿暗殺、中臣鎌足の決起

では蘇我入鹿暗殺の経緯を、詳細に追っていきましょう。

神祇(朝廷の祭祀)を仕事とする家柄の中臣鎌足は、蘇我氏の専横を快く思っておらず、なんとか蘇我氏を除いて国家体制を建て直したいと考えていました。

そんな中で蘇我蝦夷、入鹿親子が蘇我氏の個人的な陵墓の造営に一般の民を動員し、そのうえ蝦夷が病気を理由に任官していた大臣の座と紫冠を勝手に息子の入鹿に譲り、入鹿を大臣にしてしまいます。

ここまで来ると中臣鎌足も我慢の限界を越えて打倒蘇我氏を画策し始めます。

まずは実力者で天皇家の血筋である軽皇子に接近しますが、覇気がなく反蘇我氏の旗頭としては役不足と判断し軽皇子を諦め、次に法興寺で行われた蹴鞠の会で見掛けた中大兄皇子の人柄に触れクーデターの中心人物にと考えます。

二人は南淵請安の私塾へ通う道すがら蘇我氏打倒の秘策を練り続け、蘇我氏の長老・蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れるのに成功、いよいよ実行の機会を伺いました。

蘇我入鹿暗殺、蘇我氏滅亡

645年朝鮮半島からの使者が来日し、天皇への拝謁の儀式(三国の調)が行われることになります。

当然この儀式には蘇我入鹿が出席するため、二人はこれを入鹿排除のチャンスとみて綿密に計画を練ります。

実行犯は中大兄皇子と中臣鎌足、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田の四人。

機会を伺って中大兄皇子が飛び出し、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田が斬りつけ蘇我入鹿を殺害、遺体は庭に放置されました。

蘇我氏に味方しようとした勢力を説得して回った中大兄皇子派の人々はその切り崩しに成功し、蘇我氏支持派は霧散してしまいます。翌日、勝ち目がないと判断した蘇我蝦夷は自邸に火を放ち自害、四代続いた蘇我氏の天下は崩壊しました。

 

蘇我入鹿は聖徳太子と同一人物?

歴史小説家・関裕二(せきゆうじ)が著書の中で唱えた説です。

その根拠については『聖徳太子は蘇我入鹿である』に譲るとして、蘇我入鹿は生年不詳ですが、聖徳太子はその祖父蘇我馬子とともに国政を動かし、冠位十二階や十七条憲法を定めて天皇中心の中央集権国家の基礎を築いた人物です。

史料によれば聖徳太子と蘇我入鹿には約30年の時代差があり、この差の謎が証明されない限り二人が同一人物と言うことが定説になることはありません。

 

入鹿暗殺後の蘇我氏

入鹿が暗殺され、蝦夷も自害した蘇我氏は宗家という支柱は失ったものの、入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子派の重鎮として右大臣に就任、石川麻呂の弟・蘇我赤兄も大臣に就き、新体制下でも重きをなしました。

しかし、石川麻呂は謀反の疑いがかけられ追い詰められた末に自害、蘇我赤兄は後に起こった壬申の乱で流罪となり、蘇我氏は政治の中枢からは大きく後退します。

この二人が失脚したあと、政治の中枢に就くような人物は蘇我氏からは現れることなく、平安時代になると完全に歴史の表舞台から蘇我氏の名は消えてしまいます。

 

蘇我氏の子孫や家系図

さて、蘇我氏の子孫や家系図が気になるところですね。

実は蘇我氏の血統は、藤原不比等に嫁いだ蘇我娼子という人物から現代にも伝わっているようです。

また、蘇我稲目の娘・蘇我堅塩媛も蘇我氏の血を残したとあります。その家系図としては蘇我堅塩媛→桜井皇子→吉備姫王→皇極天皇→天智天皇…と続き、以後、歴代天皇に連なる子孫となっています。

 

さいごに

飛鳥時代の歴史はまだまだ謎な部分が多く、歴史の重要人物である聖徳太子の存在や蘇我入鹿の生年すら立証されていません。

蘇我氏の専横が実は大陸からの唐の侵攻に備えた体制作りのためであった説が唱えられるなど、近年では蘇我氏の政治自体の見直しも進められています。

歴史は過去のものであっても常に新しい発見によって変わっていきます。

もしかしたら10年後には蘇我入鹿は建国の父の評価を得ているかもしれません。