大化改新とは?年号・場所・時代、大化改新の詔について解説!

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大化改新(たいかのかいしん)とは645年6月12日、当時に絶大な権勢を誇った蘇我氏の当主・蘇我入鹿を皇極天皇の皇居で中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺し、蘇我氏を滅亡させた乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)から始まった政治的改革の事です。

聖徳太子の死後、豪族・蘇我氏の権力は天皇家を上回るほど大きくなり、天皇家の即位、退位に介入あるいは決定するほどになっていました。

このような時代に唐から帰国した留学生や僧侶は天皇への権力集中と諸豪族を再編成し、国家体制を整備して中央集権国家の建設を考えました。

この考えに邪魔となる蘇我氏を打倒し、646年に改新の詔を発布して開始された一連の政治改革である大化の改新を、年号・場所・時代などを含めて詳しく解説したいと思います。

大化改新までの経緯

飛鳥時代に推古天皇のもとで聖徳太子が蘇我馬子とともに行った冠位十二階、十七条憲法など、天皇を中心とする中央集権国家体制は聖徳太子の死後、蘇我氏独裁を招く結果となり、馬子、蝦夷、入鹿と蘇我氏は天皇家の即位、退位にまで介入し、政治権力の専横を続けました。

それがピークに達したのは蘇我入鹿が実権を掌握した時で、自分の意のままになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を天皇にしようと企て、有力後継者と見られていた入鹿の従兄弟にあたる山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲撃し自殺に追い込み、政治を私物化しようとします。

時の政府は現在の奈良県明日香村にあり、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)を皇居にしていました。

反蘇我氏であった中臣鎌足はこの頃、蘇我氏の目を逃れ摂津国三島の別邸におり、密かに蘇我氏打倒を謀るべくまずは軽皇子(孝徳天皇)に接近しますが、その器量なしと判断し皇極天皇の息子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に接近します。

 

遂に決起、乙巳の変(いっしのへん)

ある日の蹴鞠(けまり)の会で鞠を蹴った中大兄皇子の靴が飛んでしまいます。

その蹴鞠の会には蘇我入鹿も出席しており、入鹿に良く思われていない中大兄皇子の靴を誰も拾いに行こうとしません。

そのときその靴を拾い中大兄皇子に差し出したのが中臣鎌足だと言われています。中大兄皇子は膝を着いてお礼を言ったので中臣鎌足は中大兄皇子を信頼し盟友となります。

あまりにも出来すぎてドラマチックな出会いなので後世の創作だと言われていますが、打倒蘇我入鹿で一致した二人は着々と準備を重ね、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)らを味方に引き入れ、645年6月12日飛鳥板蓋宮内で蘇我入鹿を殺害し、翌日には蘇我蝦夷が自害、蘇我氏宗家は滅亡しました。

この蘇我入鹿暗殺から蝦夷自害までの一連の騒動を乙巳の変といいます。

 

大化改新の年号

以前の中学校や高校の日本史の授業では645年大化の改新と教えていましたし、教科書にもそう記述されていました。

しかし、最近の研究や史料の発見によって大化の改新の蘇我入鹿暗殺や蝦夷の自害のいわゆる蘇我氏滅亡の政変を乙巳の変と独立した事象としてとらえ、翌年に大化と元号を定めたため、646年を大化の改新としました。

このため昔は暗記のために使われた語呂合わせ「虫殺し(645)の大化の改新」とは言わなくなったのです。

大化改新の詔

大化元年(645年)の乙巳の変により政治権力を奪取した中大兄皇子と中臣鎌足は、人事の刷新をはかり、天皇には軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子は皇太子に、左大臣には豪族の重鎮・阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂、新設した内臣に中臣鎌足が就任、政治顧問的な役割を持つ国博士に高向玄理(たかむこ のくろまろ)と旻(みん)を就かせました。また都も飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へと移し、人身の一新を図りました。

翌年の大化2年(646年)1月には改新の詔を発布、大きくわけて4つの方針を定めます。

①公地公民の制

これまで天皇や王族、豪族が私的に支配してきた人民や土地をすべて廃止し、天皇への統一的支配体制への転換をはかるという改革。

実際にはこの先も豪族による私的所有は続き、政策自体が有名無実化しました。

②班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

戸籍や計帳(基本台帳)に基づいて資格のある貴族や人民に田を授けてその収穫から租を徴収し、国家財政に当てる制度。

 

③租庸調制(そようちょうせい)

律令制のもとでの租税制度で現代の税金にあたるものです。

は田から徴収される税で国衙(こくが・地方行政を司る役所)の正倉(しょうそう・穀物や財物を入れる倉庫)に集められて地方財源として使われました。

は正丁(せいてい・21歳~60歳の男性)・次丁(じてい・61歳以上の男性)へ課された労役。実際は布・米・塩など代納物として京へ納入したもので、衛士(兵士)や采女(宮廷女官)の給与、公共事業の財源に使われました。

調は正丁・次丁・中男(17歳~20歳の男性)に課税され、繊維製品または地方特産物、貨幣などで京へ納入され、中央政府の官人(かんにん・役人)の給与などに充てられました。

 

④国郡里制(こくぐんりせい)

正式には701年の大宝律令で制定されますが、簡単には日本の行政区画を機内(現在の奈良県、京都府、大阪府)と七道(東海、東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海)にわけてその下に66の国を制定、その他に壱岐(いき)、対馬(つしま)東国、坂東、陸奥、出羽を置きました。

地方は国、郡、里の行政組織に編成されて国と郡には官衙(かんが)という役所がおかれ、庶民統制と税の徴収が行われました。

 

さいごに

蘇我氏を滅ぼし、新たな大化の時代を作ろうとした中大兄皇子と中臣鎌足でしたが改革はなかなか進まず、左大臣阿倍内麻呂が649年に死去すると、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑いがかけられる内部抗争がおこり(右大臣蘇我倉山田石川麻呂は無実でした)、蘇我倉山田石川麻呂は自害、政権は崩壊の危機にたたされます。

結果、650年に元号を白雉(はくち)とあらためて大化の時代はあっけなく終焉を迎えます。

大化の改新という政治改革はわずか5年足らずで幕を閉じることになったのです。