聖徳太子とは?予言や実在していたか、お札などについてその歴史まとめ!

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歴史の教科書で必ず目にする聖徳太子(しょうとくたいし)は、昭和世代には旧1万円札の顔として馴染みのある偉人の一人です。

聖徳太子が成したことと言えば、遣隋使・冠位十二階と憲法十七条などが真っ先に浮かびますが、有能な執政の顔以外に預言者としての顔も持ち合わせていたようです。

ただし、聖徳太子の人物像があまりにも浮世離れしていて、近年では本当に実在したのか疑問視されており、お札の顔も実は偽物なのではと歴史ファンをざわつかせています。

今回は、聖徳太子の人生を振り返りながら噂されている真相に迫って、まとめて解説していきたいと思います

聖徳太子の誕生と逸話

聖徳太子は死後に名付けられた称号であり、聖徳太子の本来の名前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と言います。

父・橘豊日皇子・用明天皇(たちばなのとよひみこ)(ようめいてんのう)の第二皇子として生まれました。

聖徳太子の出生にはキリスト誕生と被るような逸話があり、受胎告知と同じような現象が聖徳太子の母・間人皇女(はしひとのひめみこ)に起こり、厩の前で生まれたとされています。

また聖徳太子自身も生まれてすぐに話すことができた、仏陀の骨を握りしめて生まれた、2歳で念仏を唱えた、11歳の頃には一度に36人の話を聞き、10人の請願者の話を一度に聞いて適格にアドバイスしたなど数々の逸話が遺されています。

 

執政として手腕を振るう

推古天皇1(593年)聖徳太子は叔母である推古天皇(すいこてんのう)の皇太子となります。

この頃、大臣(おおみこ)の蘇我馬子(そがのうまこ)は相当な権力を振るっていて、推古天皇は勢いのある蘇我氏と上手く政治をやる為に、聖徳太子に摂政として政治を行わせることとしました。

聖徳太子は20歳で摂政となると、内政では推古 11 (603年) 冠位十二階、翌 12年(604年)十七条憲法を定め、豪族勢力を押え中央集権国家体制として皇室を盤石な物にする準備を整えたのです。

また、外交では新羅問題を抱えていた事と、先進文化の輸入の為などで中国の隋と国交を開始、小野妹子(おののいもこ)を遣隋使として派遣します。

仏教においても仏典の注釈『三経義疏』を自ら著し、法隆寺や四天王寺などを建立して仏教の発展と興隆に力を注ぎました。

予言

実は聖徳太子は予言者でもあったようです。

根拠は「日本書紀」の聖徳太子についての記述に「兼知未然」と書かれていて「未然=未来」とされ、具体的な内容までは書かれていないものの聖徳太子には予知能力があったとされているのす。

日本書紀には書かれていませんが、平家物語や太平記などの中に未来記というものが存在し聖徳太子の予言の内容が書かれているようです。また、寺院などに口伝で伝えられてもいたようです。

かなり衝撃的な内容ですが、噂されている有名な予言を紹介します。

 

自分の死を予言

「私はまもなく死ぬし、子孫は一人も残らない」と、自らの死後、一族が入鹿軍に囲まれ集団自決をして果てたことを予言していました。

 

1200年後の予言

「私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかつてない壮麗な都になり戦乱を十回浴びても、それを越えて栄え、千年の間都として栄える。しかし一千年の時が満ちれば、黒龍(黒船)が来るため、都は東に移される」

794年桓武天皇(かんむてんのう)により「平安京」が京に定められ、その後千年の長きに渡って首都(帝の居住地)でしたが、黒龍(黒船)襲来を機に明治維新が起こり、以後首都(天皇の居住地)は東京となりました。

 

現世についての予言

「それから二百年過ぎた頃、クハンダが来るため、その東の都は親と七人の子供のように分かれるだろう」

クハンダとは仏教用語で「末世に現れる悪鬼」の事で、全てを黒くしてしまうと言われていることから、クハンダの正体は「隕石」「核攻撃」「原発関連事故」などが想像され、黒=黒煙から噴火なども想定されています。

いずれにしても壊滅的な事が起き、国がバラバラになってしまうと予言されているのです。

聖徳太子は実在していた?

近年、歴史の教科書の聖徳太子に関わる表記が変わってきていることをご存知でしょうか。

理由は聖徳太子が実在しなかったとされる学説が唱えられ、教科書の記載にまで影響を及ぼすほどとなっているのです。

旧1万円札を含む過去の数々のお札の肖像画も、実は後世の人物が捏造したものであると言われています。

理由は、烏帽子、衣、釈などが当時に無かったとされ、ヒゲについても後から書き加えられたであろうとされています。

また、聖徳太子と言う称号は死んだ後に与えられたものであり厩戸皇子は実在していても、聖徳太子という称号が厩戸皇子と同一であるとは言えないと言う事も言われているようです。

 

お札

昭和世代には旧1万円札の肖像画として親しまれた聖徳太子ですが、1万円札以外にも複数のお札の肖像画として登場し、過去7回もお札の肖像画に使用され、お札に登場した偉人の中で最も多く登場した偉人なのです。

聖徳太子がお札として登場したのは、昭和5年の百円紙幣からで表が聖徳太子と夢殿、裏が法隆寺となっています。

その後は、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と聖徳太子の肖像画と夢殿、鳳凰、日本銀行などの組み合わせで発行され、「C一万円券」は発行開始日 1958年(昭和33年)12月1日から停止日 1986年(昭和61年)1月4日まで日本の高度成長期を代表する紙幣だったのです。

 

さいごに

その正体がかなり謎に包まれている聖徳太子ですが、近年の進んだ研究から新しい事実もわかってきているようです。

今後の研究報告に目が離せませんね。