徳川綱吉は江戸幕府5代目将軍で犬や猫などを対象にした極端な動物愛護令「生類憐みの令」を出した人物として有名です。
徳川綱吉の政治は、悪法で民衆を苦しめたと評価されていますが、一方で非常に英邁な君主といった評価もされています。
そんな徳川綱吉の生涯や政治的評価、生類憐みの令、低かったとされる綱吉の身長、死因について解説していきます。
徳川綱吉の生い立ち
徳川綱吉は3代将軍・徳川家光の四男として正保3年(1646)1月に江戸城に生まれました。幼名は徳松とされています。
承応2年(1653)8月、父・徳川家光が亡くなり、兄・徳川家綱が4代将軍となります。その際、徳川徳松は元服し、徳川綱吉と名乗りました。
江戸幕府5代目将軍に
延宝8年(1680)5月、兄・徳川家綱が40歳にして亡くなります。
兄・徳川家綱には跡継ぎとなる男子がおらず、また養子になれたであろう三兄の徳川綱重も既に亡くなっていたため、徳川綱吉は内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受け、江戸幕府5代将軍となりました。
将軍権威の向上に努めた政治
兄・徳川家綱が4代将軍を務めた頃、「左様せい様」と陰口されるなど、将軍威厳が下落に向かっていました。
しかし江戸幕府5代将軍となった徳川綱吉は、越後高田藩のお家騒動の裁判のやり直しや、諸藩の政治の監視、幕府内の会計の監査をするため勘定吟味役を設置するなど、積極的な政治を行い将軍威厳の向上に努めました。
文治政治
徳川綱吉は将軍威厳の向上に努めた政治活動をすることだけではなく、徳を重んずる文治政治も積極的に推進します。
儒学者の林信篤を招き経書の討論をし、幕臣に、四書や易経を講義する、またのちに幕府直轄の学問所となる湯島聖堂を設置しました。
徳川綱吉のこうした儒学を重んじる姿は父・徳川家光に影響を受けたとされています。
悪政をはたらく
貞享元年(1684)、大名の堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるといった事件がおきます。
この事件から徳川綱吉は老中に不信感を抱き、大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用し、老中を避けるようになりました。
また徳川綱吉の母・桂昌院には儒学の影響から前例にない高位を朝廷から与え、母・桂昌院と深い関係を持つ本庄家・牧野家には特別な待遇をしたとされています。
「生類憐みの令」を発令
徳川綱吉が発令した有名な「生類憐みの令」は1つの法令ではなく、徳川綱吉が次々と出した、生類を憐れむ趣旨とした法令の総称を指します。
生類を憐れんだ政策が始まった時期は明確にはされていませんが、貞享2年(1685)2月からだとされています。
その際「将軍御成りの際に道筋に犬猫が出ても苦しからず」という法令がなされ、この法令が「生類憐みの令」の初見とされました。
「生類憐みの令」の内容
「生類憐みの令」の内容として、当時横行していた捨て子や病人の保護があります。
また鳥や貝など料理に使用することを禁止、病馬を捨てることを禁止、犬や猫などの動物の虐待を禁止するなど動物の保護に関した内容が多く発令されます。
「犬公方」
徳川綱吉は「犬公方」と呼ばれることがありますが、「生類憐みの令」の中でも犬の保護に関する内容が最も多かったことが原因です。
この法令は24年間も続き、動物の保護対象も犬や猫、鳥、貝、虫など極端なものとなり一般庶民や町人の生活に大きな影響を与え「天下の悪評」と評価される事となります。
貨幣改鋳
元禄8年(1695)以来、荻原重秀により財政難の改善のため実施された貨幣改鋳では、小判の金の含有量を減らし質を落とすことによって小判を大量に製造することができました。
この結果、幕府の財政は一時、立て直しに成功しますが、深刻なインフレーションを起こし経済の混乱に繋がります。
「生類憐みの令」の発令やこのような経済の混乱を招いた徳川綱吉の政治は否定的な評価がなされることとなりました。
徳川綱吉の死去
宝永6年(1709)1月10日、徳川綱吉は麻疹の感染により64歳にして人生の幕を閉じたとされています。
徳川綱吉の死因は当時、流行していた麻疹とされていますが、その他にも窒息死、殺害が死因の1つとして推測されることがあります。
窒息死
麻疹に侵されていた徳川綱吉は正月に餅を食した際、餅を喉に詰まらせ窒息死に至ったという説です。
殺害
世継ぎに恵まれなかった徳川綱吉は側用人であった柳沢吉保の息子を養子として迎えようとしますが正室の鷹司信子はこれに反対します。
鷹司信子は徳川綱吉を説得しようと江戸城大奥の宇治の間に迎え、徳川綱吉を説得しますが徳川綱吉は応じません。
鷹司信子はとうとう徳川綱吉を殺害し、自らも自害した、といった逸話が残されます。
徳川綱吉の死後
徳川綱吉の死後、甥・徳川家宣が6代将軍となると、「生類憐みの令」はすぐに廃止されることとなりました。
徳川綱吉の否定的な政治評価
徳川綱吉が行ってきた政策は、悪政で民衆を苦しめたと否定的な評価がなされます。
否定的な評価の原因はいくつかあげられていますが、そのうちの2つの事例を紹介します。
「生類憐みの令」
徳川綱吉の発令した「生類憐みの令」は24年間続き、135回もの法令が出されたとされ、そのうち72件が処罰されたと記録に残ります。
もともと、動物の殺生を慎むといった訓令的な発令でしたが鳥、魚、貝、虫などの極端な動物愛護に及び、庶民の生活に混乱をきたし悪政と呼ばれる一因となりました。
自然災害
「生類憐みの令」の他にも、悪政と呼ばれる原因の1つに晩年期に頻発した自然災害などがあげられます。
今では自然災害を政治の評価を左右するものとして考えられませんが、当時は洪水や、火災、地震、噴火などの災害を天罰と捉え、天罰は主君の徳がないために起こるといった考えが一般的でした。
このような考えから、徳川綱吉将軍時の晩年気には災害が頻繁にあったため、悪政と呼ばれるようになります。
肯定的な評価
このような否定的な評価がされる一方で徳川綱吉との交流のあったドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは自ら執筆した「日本誌」に非常に英邁な君主であるという印象を受けたと、記述しました。
また、「生類憐みの令」は戦が当たり前だった時代において命を慈しみ、憐れむ感情を持つ社会へと変えた法令であるとして再評価されつつあります。
徳川綱吉の身長
徳川綱吉の身長は124㎝だったとされています。
江戸時代の男性は発掘された人骨をもとに平均身長155㎝から158㎝、女性は平均143㎝から146㎝と推測されるので、徳川綱吉がいかに低身長であったか分かるのではないでしょうか。
このことから徳川綱吉は軟骨無形成症だったと推測されますが、歴史的根拠は残されていません。
さいごに
徳川綱吉は「生類憐みの令」の発令によって悪政と評価をうけます。
しかし、「生類憐みの令」発令以降、江戸での辻斬りは急激に減ったとされ、戦が当たり前の時代において、命を奪う行為は大罪に当たるといった意識が武士から庶民へと浸透するきっかけとなったようです。
徳川綱吉の政治は否定的な評価がされる一方で、肯定的な評価もされています。
ご自身で徳川綱吉の政治について再評価してみるのはいかがでしょうか。