徳川家光について!側室や墓、性格やエピソードなどを解説!

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徳川家光は徳川秀忠の第2子で、江戸幕府第3代将軍です。

法制、職制、兵制、参勤制などを定め、幕藩体制を完備させ、キリシタンの禁圧などに力を注ぎました。

そんな徳川家光の生涯を年表とともに、徳川家光の側室、また性格や墓について解説していきます。

徳川家光の生い立ち

徳川家光は慶長9年(1604)7月に父・徳川秀忠と母・江との間に次男として誕生しました。

徳川家光には兄がいましたが、既に早世していたため、徳川秀忠の長男として処遇されるようになり、祖父・徳川家康と同じ幼名・竹千代を与えられたとされます。

誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(後の春日の局)が乳母となり、慶長11年(1606)には弟・徳川国松(後の忠長)が誕生しました。

当時の徳川家光は病弱体質で吃音をもっており、容姿も良くなかったとされています。

 

元服

元和6年(1620)、祖父・徳川家康の死去によって延期されていた元服が行われ、徳川家光と名乗るようになります。

 

江戸幕府第3代将軍となる

元和9年(1623年)父・徳川秀忠が隠居したため、徳川家光が20歳のときに将軍職が譲られ徳川家光は江戸幕府第3代将軍となりました。

もともとは、父・徳川秀忠は弟・徳川忠長を溺愛しており、徳川家光と弟・徳川忠長の間には継承問題があったとされています。

しかし、これを危惧した徳川家光の乳母・福(後の春日の局)が、隠居していた徳川家康に訴えかけたため徳川家光の世継決定が確定しました。

元和9年(1623)には鷹司家の娘・鷹司孝子を正室に迎えます。

 

参勤交代や鎖国

寛永9年(1632)1月、父・徳川秀忠が亡くなるとこれまで行ってきた二元政治は解消され、徳川家光の親政が開始されます。

同年5月には肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を行い、翌年には福岡藩における栗山大膳事件において自ら裁定を下し、黒田忠之の藩側の主張を認めました。

また幕政においては現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立させるため、老中、若年寄、奉行、大目付の制を定め、寛永12年(1635)の武家諸法度の改訂では大名に参勤交代を義務づけます。

 

 

外交政策

外交政策においては、長崎貿易における利益独占・国際紛争を避けるため、キリシタンの排除を目的とした政策が行われます。

寛永12年(1635)日本人の東南アジア方面との往来の禁止によって宣教師の密航の手段であった朱印船貿易が廃止され、九州各地いた中国人は長崎のみに集住させられ、翌年寛永13年(1636)にはポルトガル人が長崎の出島に隔離されました。

 

鎖国体制の成立

寛永14年(1637)、天草四郎によっておこされたキリシタンの反乱と呼ばれる島原の乱を鎮圧した後は、ポルトガルとの外交を断ち、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じます。

寛永18年(1641)には平戸にあったオランダ商館は出島に移転され、これによって貿易を管理、統制、制限した対外政策である鎖国体制が成立しました。

 

徳川家綱の誕生

寛永18年(1641)側室・宝樹院との間に嫡男の竹千代(のちの徳川家綱)が誕生します。

 

徳川家光の晩年

徳川家光は朝廷と幕府による紫衣事件以来、冷え込んでいた朝廷との朝幕関係の立て直しに努めますが、寛永19年(1642)に起こった寛永の大飢饉で、幕府の経営には大きな影響を受けます。

また正保元年(1644)には中国の明の滅亡によって満州族の清が進出するなどし、幕府体制の立て直しを迫られました。

そして慶安3年(1650)病弱体質であった徳川家光は48歳で生涯を閉じます。

その後、江戸幕府第4代将軍は嫡男・徳川家綱が任命されました。

 

徳川家光の墓、大猷院

徳川家光は日光山輪王にある大猷院に眠っています。

祖父・徳川家康の墓所を凌ぐ物を造ってはならないと遺言に残し、金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りがなされました。

境内には315基の灯籠や、世界遺産に登録された22件の国宝、重要文化財が建てられています。

徳川家光の性格

徳川家光は幼少期から病弱体質でしたが、武芸を好み、たびたび御前試合、武芸上覧などを催していたとされます。特に剣術を好んだとされ、剣術家である柳生宗矩に師事していました。

また祖父・徳川家康や父・徳川秀忠のように能の愛好家で知られ、風流踊を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせるなど、やや屈折した性格の持ち主であったとされます。

 

徳川家光の側室

徳川家光と正室・鷹司孝子の間には、世継ぎとなる子供が誕生していません。

正室・鷹司孝子は公家出身の娘であり、当時、公家と朝廷の関係は険悪なものであったとされています。

よって徳川家光と正室・鷹司孝子はあまり良くなかったと推測されます。

 

8人の側室

正室・鷹司孝子と世継ぎに恵まれなかった徳川家光ですが、側室の宝樹院が長女千代姫を産んだのを皮切りに、自証院、宝樹院、順性院、永光院、桂昌院、定光院、芳心院、まさと8人の側室を持ちました。

この側室のうち桂昌院は、通称、玉と呼ばれます。

このお玉の方は身分の低い出身でしたが、第5代将軍・徳川綱吉の生母となり桂昌院として権力を持つようになりました。

このようなエピソードから「玉の輿」の語源とされることがあります。

 

小姓と恋愛関係というエピソード

徳川家光は、正室を持ち、また多くの側室も持ちました。

しかし、女性だけではなく徳川家光の身の周りの世話をする小姓と呼ばれる男性とも恋愛関係を持っていたとされます。

徳川家光に寵愛を受けた小姓の中には大名へと出世する人物もいました。

その中でも酒井重澄、堀田正盛があげられ、この2人は徳川家光を巡って対立したエピソードなどが残されます。

 

さいごに

徳川家光の生涯や、政治活動について解説してきました。

正室・鷹司孝子との政略結婚によって朝廷との関係修復に努めましたが、小姓たちとは恋愛関係を持ち数々の美少年と浮名も流し、晩年は多くの側室を持ちます。

しかし徳川家光は幕府権力の基礎を固めた優れた政治手腕の持ち主だったようですね。