徳川秀忠とは?家系図・子供・墓、母や正室の江について解説!

徳川秀忠は徳川家康の五男で江戸幕府の第2代征夷大将軍です。

有名な武家諸法度・禁中並公家諸法度などを定め幕政確立に努めあげました。

そんな徳川秀忠の生涯、正室江、母・西郷局について、また家系図や徳川秀忠の子供、徳川秀忠の眠る墓について解説していきます。

徳川秀忠の生い立ち

徳川秀忠は徳川家康の三男として側室・西郷局の間に天正7年(1579)に遠江国浜松の地に誕生します。

母・西郷局はお愛の方と通称されることのある人物で、実家、三河西郷氏は室町初期には三河守護代を務めたこともある名家出身の女性でした。

徳川秀忠の幼少期は乳母・大姥局によって育てられます。

徳川秀忠が生まれて間もない、生後5か月の頃に長男・徳川信康が切腹し、次男・徳川秀康は豊臣秀吉の養子となったのち結城氏を継いだため、三河国の名家出身である西郷局を母に持った徳川秀忠は実質的な徳川家康の嫡男として処遇されることとなりました。

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人質として上洛

天正18年(1590)1月7日、豊臣秀吉の行った小田原征伐には豊臣秀吉の人質として上洛します。この時、徳川秀忠は10歳であったとされています。

人質として上洛した後、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁、元服し、この時に秀忠の名を名乗りました。

またこの際、織田信雄の娘で豊臣秀吉の養女・小姫を正室として迎えます。

しかし、この小姫との婚姻は織田信雄と豊臣秀吉が仲違いをしたため、離縁となってしまいました。また、翌天正19年(1591)に小姫は7歳で病死しました。

この子姫との婚姻は婚姻成立直後に織田信雄が改易されたこと、子姫の早世によって婚姻が成立しなかったのではと推測されることもあります。

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江との再婚

文禄4年(1595)豊臣秀吉の養女である江と再婚し、正室として迎えました。

江は天正元年(1573)に誕生した浅井長政の娘で、茶々、初を姉にもち浅井三姉妹として母・市とともに戦国時代の女性の代名詞として多く語られます。

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父・浅井長政の自害

天正元年(1573)9月1日父・浅井長政が織田信長と対立を起こすと小谷城が攻め落とされ、浅井長政らは自害し浅井氏は滅亡に追い込まれます。

しかし江は母・市や姉・茶々、初とともに救い出され織田信長の保護の下で、織田信次に預けられました。

 

本能寺の変

天正10年(1582)に起きた本能寺の変においては明智光秀の謀反の末、織田信長は討ち死にとなり、母・市は柴田勝家と再婚し、三姉妹も柴田勝家の居城である越前国北ノ庄城に移り住みます。

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母・市の自害

越前に移った母・市と三姉妹でしたが天正11年(1583)には賤ヶ岳の戦いが勃発し北ノ庄城が落城、母・市は柴田勝家共々自害に追い込まれました。

その後、三姉妹は豊臣秀吉、又は織田信雄に保護されたとされます。

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二度再婚

江は徳川秀忠と再婚するまでに、佐治一成、豊臣秀勝と婚姻関係にありましたが、佐治一成とは離縁、豊臣秀勝は病死となったため徳川秀忠と3度目の再婚に至りました。

 

徳川秀忠と江とのエピソード

江は、2度の落城、2度の結婚を経験した女性で、徳川秀忠よりも6つ年上でした。

徳川秀忠は生涯において側室を持っておらず、江が6歳も年上で、織田信長の姪であり豊臣秀吉の養女という立場であったことから、かなりの恐妻家であったとされています。

のちに、江は徳川秀忠よりも先に亡くなりますが、江が亡くなった後でも徳川秀忠は継室を迎えることはありませんでした。

このことから夫婦仲はかなり良好であったとされます。

征夷大将軍となる

慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いでは天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから関ケ原本線には間に合わなかったとされています。

関ケ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は慶長8年(1603)に征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。

慶長8年(1603)には徳川秀忠は次期征夷大将軍に任命され、この2年後、慶長10年(1605)に江戸幕府第2代征夷大将軍となります。

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武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定

徳川家と豊臣家の間で行われた合戦・大阪夏の陣では父・徳川家康とともに参戦、豊臣家滅亡後、武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に努めました。

 

父・徳川家康の死後

父・徳川家康が亡くなると将軍親政を開始し、大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、鎖国政策の一環として外国船寄港を平戸、長崎に限定しました。

また娘の一人・和姫を後水尾天皇に入内させるなど政治活動においてリーダーシップを発揮させます。

 

徳川秀忠の晩年

徳川秀忠は元和9年(1623)将軍職を嫡男・家光に譲りわたします。

寛永7年(1630)には孫の女一宮が天皇に即位し天皇の外戚となりました。

翌年には体調を崩していたとされ、寛永9年(1632)に徳川秀忠は亡くなります。

 

徳川秀忠の墓

徳川秀忠の墓は東京都港区の一角にあった台徳院霊廟でしたが、戦災で焼失し、その後台徳院霊廟は増上寺本堂近くに移転改築されました。

その移転改装の際、発掘調査が行われましたが徳川秀忠の遺体は棺の蓋や地中の小石等の重みにより圧縮され変形がひどく、骨も分散されていたため詳細な調査はできませんでした。

しかし毛髪の調査の結果、徳川秀忠の血液型はO型で、身長は157.6cmであったとされています。

発掘調査後、土葬されていた徳川秀忠の遺体は火葬され正室・江とともに埋葬されました。

家系図

徳川家の家系図を見ると、徳川家と織田家、豊臣家が遠い親戚にあたることが分かります。

 

織田家

徳川秀忠の正室となった江の母親は、浅井長政の妻・市です。

江の母・市は織田信長の妹であったため徳川秀忠にとって市は義母、その兄・織田信長は義理の伯父に当たります。

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豊臣家

また正室・江の姉・茶々は豊臣秀吉の側室となり、その後継者となる豊臣秀頼を授かりました。

江と徳川秀忠の間に誕生した千姫は豊臣秀頼の正室として嫁ぎ、このことから豊臣家と徳川家には遠い親戚関係があることがわかります。

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徳川秀忠の子供たち

徳川家康は11人の息子と5人の娘を授かりました。

そのうち徳川秀忠は五男として誕生し、江戸幕府第2代征夷大将軍と活躍します。

活躍したのは秀忠だけではなく九男の徳川義直、十男の徳川頼宣、末子の徳川頼房は「徳川御三家」の初代藩主として徳川将軍家を支える役割を果たしました。

では徳川秀忠の子供たちはどのような活躍をみせたのでしょうか。

 

徳川秀忠の娘

江との間に誕生した長女・千姫は豊臣秀頼の正室ののち本多忠刻の正室となります。

また次女・珠姫は前田利家の息子・前田利常の正室に、三女・勝姫は松平忠直に嫁ぎました。

その他にも四女・初姫は母・江の姉・初の養女となり京極忠高の正室となり、五女・和姫を後水尾天皇に入内させるなど徳川秀忠は自身の娘たちを多くの大名に嫁がせたようです。

 

徳川秀忠の息子

徳川秀忠の長男・徳川家光は江戸幕府第3代征夷大将軍となり参勤制、職制などの幕藩体制を完備させ、キリシタンの禁圧に力を注ぎます。

次男・徳川忠長は駿府国を領地とするも徳川家光と関係が悪化し、謹慎を受け、その後自害となりました。

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さいごに

徳川秀忠は家康の子として誕生し、第2代征夷大将軍として武家諸法度・禁中並公家諸法度などを定めた人物でした。

正室・江が亡くなった後も側室を持たなかったということですから、夫婦の仲はかなり良く、その政治的手腕も堅実なものだったと推測できる人物です。