鎖国とは?鎖国した理由や期間、オランダとの貿易について解説!

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鎖国とは一般的に寛永16年(1639年)の南蛮船の入港禁止から嘉永7年(1854年)の日米和親条約締結までに江戸幕府によって行われてきたキリスト教国人の来航、東南アジア方面への出入国の禁止、貿易の管理や統制、制限が中心となった対外政策です。

これらの対外政策は鎖国と呼ばれており、鎖国によって日本は日米和親条約までの間、世界の中で孤立状態となりました。

今回は鎖国を行った理由や期間、オランダやスペインとの貿易について解説します。

鎖国が行われた期間

鎖国が行われたのは一般的に寛永16年(1639年)からとされ、鎖国が終了したのは日米修好通商条約が締結された安政5年(1858年)とされています。

約200年もの期間、日本は鎖国を行っていました。

 

鎖国を行った理由

一般的に鎖国の始まりは寛永16年(1639年)の南蛮船の入港禁止からとされています。

キリスト教国人の来航や東南アジア方面への出入国の禁止、また貿易の管理や統制、制限が行われた理由や経緯についてご紹介します。

豊臣秀吉の時代、キリスト教の弾圧の開始

鎖国が行われるまで、日本ではキリスト教の宣教師が日本で普及活動を行っていました。

キリスト教の宣教師が初めて日本に来航したのは天文18年(1589年)のことです。

宣教師のフランシスコ・ザビエルが日本に来航し、たちまち日本中にキリスト教は普及しました。

フランシスコ・ザビエルの来航後も多くの宣教師が貿易船を通じて日本に渡り、普及活動を行ったとされています。

 

バテレン追放令

そんなキリスト教の普及に対し豊臣秀吉は危機感を覚え、天正15年(1587年)にキリスト教宣教の制限を設けた条例を出しました。

しかし普及活動が減少されることはなかったため、バテレン追放令が出されます。

その後も、キリスト教の弾圧活動は行われ続けましたが、この頃南蛮貿易が行われていたため、利益を守りつつ活動が行われていました。

 

徳川家康の時代、キリスト教の普及活動を黙認

秀吉亡き後、江戸幕府将軍となった徳川家康もまたキリスト教の普及に危機感を覚えていましたが、南蛮貿易で得られる利益を優先し、普及活動を厳しく弾圧することはありませんでした。

しかし、慶長13年(1609年)に起きたマードレ・デ・デウス号事件と呼ばれるポルトガル貿易船の爆沈事件が起きたことを機に、徳川家康は南蛮貿易は続行するものの、キリスト教を禁止するようになります。

これによって江戸や京都から宣教師が追放され長崎に集められることとなり、さらに活動は全国に広がりを見せ、宣教師たちは自国へと返されることとなりました。

 

徳川秀忠の時代、貿易の管理

江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の時代にはさらにキリスト教は厳しく禁止されるようになりました。

またキリスト教の禁止のみならず、領内で外国船と貿易を行うことの禁止、中国以外の国との貿易は長崎と平戸に限定するなど、貿易の管理を行い始めます。

徳川家光の時代、絵踏みと出島

江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代にはさらにキリスト教の禁止は厳しくなり、長崎ではマリアが刻まれた踏み絵を、キリシタンに踏ませる「絵踏み」が実施されました。

寛永8年(1631年)には老中の奉書がなければ出国が許されない奉書船制度が開始され、2年後には日本人が外国へと出国することが禁じられます。

これによって日本人は海外渡航が禁じられることとなりました。

また寛永11年(1634年)には日本人との接触、キリスト教の普及を避けるために、キリスト教国人を収容するための出島が長崎に建設され完成次第、出島にキリスト教国人が収容されるようになりました。

 

オランダとの貿易

こうして鎖国状態となった日本でしたが、世界と全く交流がなかったというわけではありませんでした。

当時、貿易を行っていたのはオランダです。

オランダもキリスト教信者が多くいる国ではありましたが、キリスト教の普及を禁じながら出島で貿易を続けていました。

また長崎ではオランダの他に中国、朝鮮などとも貿易を行っていたとされています。

 

ロシアとの通商交渉

長く続いた鎖国でしたが、寛政4年(1792年)ロシアから送られてきた使徒アダム・ラクスマンが日本に来航したことによって日本は開国に動き出すこととなります。

アダム・ラクスマンはロシアの使徒として日本に対し通商交渉を行いました。

しかし、ロシアとの通商をするためには開国が必要であったため、江戸幕府は1度この交渉を拒否します。

文化元年(1804年)再び日本にロシアの使徒が来航します。

この時来航したロシア人のニコライ・レザノフは出島へと向かうと、再び通商交渉を行いました。

しかし、またもや幕府は拒否したため、ロシア側は樺太の久春古丹や利尻島、択捉島の番屋を襲撃するといった行動を見せました。

そのため幕府は東北の警備の強化を強いられることとなります。

 

異国船打払令

文政8年(1825年)幕府は異国船打払令を発令します。

この異国船打払令とは日本沿岸に接近していた中国、オランダ船の以外の船を砲撃するといったものです。

この異国船打払令が出されるまで、貿易を許されていないイギリス船などが相次いで日本に接近していたためでした。

しかし異国船打払令が発布された10年後の天保8年(1837年)にモリソン号事件が起きます。

この事件は商船モリソン号が漂流していた日本人を日本に送り届けるため浦賀に来航したものの、異国船打払令に基づき、日本から攻撃を受けたといった事件で、この事件を機に異国船打払令は批判を受けるようになりました。

マシュー・ペリーの来航

約200年も続いた鎖国は嘉永6年(1853年)マシュー・ペリーが来航したことを機に終わりを迎えることとなります。

アメリカは、北太平洋で捕鯨をする際、補給用の港として日本を確保することが必要でした。

そのため日本に来航し、マシュー・ペリーは開国を迫りましたが、日本は簡単には承諾したかったため、日本が開国しないのであれば、武力を用いて日本を開国させる。といった内容の書状を幕府に提出し、1度帰国しました。

これを受け幕府は、翌年に黒船で来航したマシュー・ペリーに対し下田と函館を開港するといった条件を盛り込んだ「日米和親条約」を締結し、これによって長く続いた鎖国は終わりを迎えることとなりました。

 

鎖国の終わり

その後、安政5年(1858年)にタウンゼント・ハリスと大老・井伊直弼が長崎や新潟、兵庫などを開港するといった条件を盛り込んだ「日米修好通商条約」を結び、これいよって日本は完全に鎖国を終えることとなりました。