日米和親条約の内容は?開港した港や日米修好通商条約との違い

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1853年7月8日に浦賀沖に来航したアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊。いわゆる黒船来航のことですが、これが250年もの長きに渡って続いてきた鎖国政策の破綻の始まりだったのです。

この翌年に徳川幕府とアメリカ合衆国との間で締結された条約が日米和親条約で、アメリカの船が停泊できる港の開港や、燃料や食料の補給などが盛り込まれており、おたがい仲良くしましょうと言う事がメインとなる条約です。

本来は日米和親条約のあとに結ばれることになった日米修好通商条約を結ぶことがペリーの目的だったのですが、最初の来航では日本の港を開港させて鎖国政策を破棄させることに変更されました。

長く続いた鎖国政策に終止符を打った日米和親条約とはどのような経緯で結ばれた条約だったのでしょうか?歴史を遡って調べてみましょう。

当時の歴史的背景

ペリーが浦賀に来航した1853年は、第13代・徳川家定の治世で、老中の阿部正弘が政務を取り仕切っていました。幕府内では家定の後継問題で南紀派(紀州藩・徳川慶福のちの家茂)と一橋派(徳川慶喜)が対立しており、それがそのまま幕府の主導権争いとなっています。

この頃の日本の対外政策は鎖国は当然ですが、1840年のアヘン戦争で清国がイギリスに惨敗して以降は、1825年に出した異国船打払令(外国船は有無を言わずに追い払う)から1842年に薪水給与令(遭難した船には燃料や食料の給与を認める)に方針を転換しました。

 

ペリーの黒船来航

このように外圧が高まり、国内が政局で荒れている時にアメリカ第13代大統領フィルモアの開国・通商を求める親書を携えたペリーが4隻の船で浦賀沖にやって来ました。

これに対する幕府の対応は、1年後に回答すると言う、いわゆる先送りをアメリカ側に求めたため、ペリーは一旦日本を離れます。

翌1954年ペリーは約束通り来航し、東京湾(当時は江戸湾)へ入港します。この時ペリーが率いてきた艦艇数は前年の倍以上の9隻で、その数をもって幕府を完全に圧倒していました。

アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー、日本側全権は林復斎(はやしふくさい・大学頭、小姓組番頭)で、武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区)に応接所を造り、嘉永7年2月6日(1854年3月4日)から交渉を開始。

約1ヶ月後の3月3日(3月31日)に全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印しました。

 

日米和親条約の内容

1854年に締結された日米和親条約の内容は全12箇条ですが、その中で重要な部分は限られています。

 

第2条

下田の即時開港と箱館(函館)の1年後の開港が盛り込まれ、アメリカの艦艇は薪や水,食料,石炭,そのほか必要な物資の供給を受けることが可能となりました。

 

第5条

下田と箱館に居留する米国人は、定められた範囲内であれば(下田においては7里以内、箱館は別途定める)行動の自由が認められ、オランダ人や中国人よりもはるかに厚遇されることが決まりました。

 

第9条

不平等条約と言われる最大の要因である第9条では、米国に片務的最恵国待遇を与えるという項目があります。

最恵国待遇とは日本がアメリカ以外の国とアメリカよりも有利な条件で条約を結んだとき、その有利な条件がアメリカにも適用されるという意味です。

これに片務的という項目が付くと「アメリカにはこの最恵国待遇が付与されるが、日本には付与されない」と言うことになります。すなわちアメリカには美味しい話がたくさんあるのに日本には全くないというアメリカに非常に有利な条約として締結されたのです。

このあと、この不平等条約は明治新政府になっても簡単には解消されず、約50年もの間、日本を苦しめる事になります。

日米和親条約で開港した港

条約締結に向けての交渉が行われているときにアメリカ側からは一気に5港の開港が要求として出されました。もちろんそんなに多くは開港出来ないため、日本側はそれを拒否しました。

結果、下田と箱館が開港されることになるのですが、この2港に決まったのにはアメリカと日本それぞれの思惑がありました。

 

箱館開港について

箱館開港にこだわったのはアメリカで、これは南下政策によって日本への進出を考えていたロシアを牽制するため、北海道で最も大きな港であった箱館の開港を強く要望したのです。

 

下田開港について

下田については、浦賀の開港を要求された幕府側が、あまりにも江戸に近い浦賀の開港を拒み、代替案として浮上したのが下田だったのです。

通商,貿易に対しては頑なに拒否を続ける日本側に寄港可能な港を開港させる事に照準を絞ったアメリカの思惑通りの結果になったと言えるでしょう。

 

日米修好通商条約との違い

嘉永7年3月3日(1854年3月31日)日米和親条約を締結したペリーは、同年6月17日に和親条約の細則を定めた下田条約(全13箇条)を締結、6月25日に艦隊を率いて去りました。

ここから4年後の安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカの間に次の条約である日米修好通商条約が結ばれます。

 

日米修好通商条約の簡単な内容

この条約は初代総領事タウンゼント・ハリスが幕府に対して強硬に推し進め日本に開国,通商を要求したもので、アメリカに領事裁判権を認め、公使の江戸駐在、横浜・長崎・新潟・兵庫の開港など求めるなど、完全に鎖国政策が崩壊する内容でした。

 

日米修好通商条約の不平等性

日米修好通商条約は日米和親条約よりもより不平等性の強い条約で、この条約の改正が明治新政府外務省の最大の案件となっていきます

鎖国政策を続けていた日本では海外に対する知識が乏しく、どのような条約を結べば良いのかがわかっておらず、結果的に不平等で日本には利益のあまりない条約を結ぶことになってしまいます。

アメリカや列強国の言いなりに条約を結んだ幕府に対して、攘夷派は弱腰外交と攻勢を強め、結果的に日本国を二分する対立へと進んでいきます。