タウンゼント・ハリス提督とは?日米修好通商条約やペリーとの違いについて解説!

タウンゼント・ハリスとは、幕末の時代、はるか遠くの国アメリカから日本へやってきたアメリカ合衆国の外交官になります。アメリカからのお客さまと言えば、ペリーが有名ですが、ペリーとハリスは、まったく別の人物になります。

彼の役目は、アメリカと日本の間で日米修好通商条約を締結させることにありました。しかし、日本は鎖国の時代であり、海外との条約締結には消極的な態度だったため、交渉はなかなか進みません。

そんなハリスの生涯について、日米修好通商条約やペリーとの違いについて解説していこうと思います。

生涯について

タウンゼント・ハリスは、1804年10月、ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒルにて、ジョナサン・ハリスの六男として誕生しています。貧しい家庭で育った影響からか、独学でフランス語、スペイン語等を学ぶと、教育活動に重点を置き、ニューヨーク市の教育局長となります。

1849年、サンフランシスコにて、貨物船の権利を買い、貿易業を始めたことをきっかけにニュージーランドをはじめ、インド、マニラ、清等を航海します。その後、アメリカに戻り、日本との交渉を図る役目を受け、日本へとやってきます。

 

ハリスの通訳官、ヘンリー・ヒュースケン

ここで、ちょっと余談を。下田に滞在することができても、当然ハリスは日本語が理解できないので、条約の詳細を伝えることもできず、交渉もはかどりません。

そんな中、実は、ハリスを助けた人がいました。その人は、今も、南麻布の光林寺に眠っているのですが、ヘンリー・ヒュースケンという人物です。ヘンリーはハリスの通訳官としてその役目を勤め、条約交渉に大きく貢献しました。

1861年1月、ヘンリーは善福寺へ帰る途中、芝薪河岸の中の橋において攘夷派らの人々に襲われ、28歳という若さで亡くなってしまいます。

 

下田の玉泉寺で生活をしていた

さて、下田でのハリスの生活の拠点は、幕府が停泊を許した玉泉寺になります。そのお寺には、ハリスの執務室なる部屋がそのまま残されており、わたし達も見ることができます。

 

日米修好通商条約の締結

将軍との謁見を求めて、度々断られていたハリスでしたが、アメリカからやってきた軍艦に威圧された幕府は、流石にこれ以上引き延ばすのは不可能と判断し、ついにハリスは第13代将軍・徳川家定との謁見を果たします。

その時、家定は脳性麻痺の影響か、足をバタバタさせるというような奇妙な行動を起こしたという記録が残っていますが、その後、ハリスは無事に日米修好通商条約の締結に成功しました。

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ハリスの家茂に対する印象

その後、ハリスは第14代将軍・徳川家茂に謁見を果たして、リンカーン大統領の親書を渡すなどの役目を終え、急いで帰国の途につきます。

その時、ハリスが残した書物の中に、将軍家茂のことが書かれており、将軍の衣装が豪華とは程遠く何の装飾もなかった、わたしの衣装の方が豪華だったと素直に述べています。

幕末、金銭に余裕のなかった朝廷の生活を垣間見た正直な感想なのか、日本人がもつ倹約という精神を理解できていないための記述なのかは不明ですが、その言葉でその当時の日本をうかがい知ることができ、日本とアメリカの力の差が想像できるのではないでしょうか。

1862年、ハリスは、病気を理由に日本を去ります。帰国後は、職に就かず、1876年、フロリダ州へと移住し、そこで静養しますが、1878年2月25日、74歳で亡くなります。

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ハリスとペリーの違い

タウンゼント・ハリスとペリー提督には、ある共通点があります。アメリカ人であること、また、日本とアメリカの交渉ごとのために来日したことになります。

それぞれが結んだ条約は、ハリスが日米修好通商条約、ペリーが日米和親条約になります。

どちらも、日本側には不利な条約となっており、特に、ハリスが締結させて日米修好通商条約は、その当時の日本人が不平等条約であると言い、ハリスのことを良く思わない人も少なくありませんでした。

ペリーは分かりやすく言えば、黒船に乗って日本に開国を迫った人物になります。ペリーが浦賀に来航したのは、1853年。その翌年の1854年には、日米和親条約を締結させています。仕事が早いタイプの人でしょうか。

反対に、ハリスは、1856年7月に下田へ到着し、1858年、日米修好通商条約を締結させた後、駐日大使として日本に滞在した人物になります。

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ハリスの逸話

牛乳好きとお吉

牛乳好きとして知られたタウンゼント・ハリスは、体調を壊した時も、牛乳を求め、侍女に買ってくるよう依頼したほどです。ちなみに、その侍女は幕府がハリスの身の回りの世話をするために雇ったお吉であると言われています。

記録によると、お吉は農家から分けてもらった牛乳を竹筒に入れて持ち帰りますが、その時、8合8分の牛乳を買うために使ったお金は、1両3分88文になります。その時代、そのお金で米俵3俵分が買えたそうです。牛乳がいかに高額な買い物だったか、分かるのではないでしょうか。

 

敬虔なハリスは混浴嫌い

ハリスから見た日本人は、喜望峰以東の最も優れた民族との解釈で、世界のいかなる土地においても、労働者社会の中では、下田よりも良い暮らしができる場所はほかにはないだろうと日記につづっています。

しかし、混浴のお風呂だけは理解に苦しんだそうで、混浴を品のない習慣であると貶しています。というのも、ハリスは敬虔な聖公会教徒。ハリスは生涯童貞だったと言われており、宗教上の理由から混浴はどうしても受け付けることができなかったのでしょう。

 

散歩好きだった?

散策するのが好きだったハリスは、ハリスの小径と名付けられた道をよく歩いていたそうです。その道の先には、戦時中に特殊潜航艇が格納されていた洞窟がありますが、その場所は、吉田松陰がアメリカから帰国した際、アメリカ艦隊から降り立った場所でもあるそう。なんとも不思議な縁ですね。

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