徳川家定とは?うつけ説や篤姫との夫婦仲、死因などを解説!

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歴代の徳川将軍の中で教科書などに名前が出ることなく、ほとんどの人の記憶にない将軍の一人、第13代将軍徳川家定。

ところが2008年NHK大河ドラマ『篤姫』で俳優堺雅人さんが演じて注目を集め、一気に知名度が上がりました。

「うつけ」と呼ばれていたとされる徳川家定とはどんな人物なのでしょうか?篤姫との夫婦仲や死因などについても解説していこうと思います。

徳川家定の生い立ち

第7代徳川家継に実子がなく、徳川家康からの直系の血筋が絶えたため、紀州徳川家から将軍職を継いだ第8代徳川吉宗の直系の血筋の将軍です。

家定は12代将軍家慶の四男として1824年5月6日に生まれましたが、生来の病弱の上に人前に出るのを極端に嫌ったそうです。これは幼少期に患った疱瘡(天然痘)が原因で目の下にアザが残ったのを気にしたためと言われています。

また家慶の子供は14男13女いたのですが成人したのは家定一人で、当然将軍世嗣となったのですが、その資質と健康状態を不安視するものも多く、特に父親である12代家慶は一橋家の徳川慶喜(15代将軍)を世嗣にしようとしたほどです。

結局は老中・阿部正弘らがこれに反対したため、無事将軍職に就任しました。

実の父親に見限られそうになるなど、小さな時から全く期待されていなかった様です。

 

徳川家定と大奥の関係

家定の正室は鷹司任子(たかつかさあつこ、天親院)で関白鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の二十三女。

家定が世子時代、家祥(いえさき,いえさち)と名乗っている時に嫁いできたのですが、天然痘のため26歳で死去、家定は翌年に継室として関白一条忠良の十四女、一条 秀子(いちじょうひでこ、澄心院)を迎えますが、翌年火傷の後遺症が原因といわれる発病でこちらも26歳で死去しています。

次の継室となったのが篤姫(あつひめ、天璋院)で、大河ドラマ『篤姫』では女優の宮崎あおいさん、同じく大河ドラマ『西郷どん』では北川景子さんが演じている女性です。

残念ながら病弱だった家定は正室,継室,側室の全ての女性との間に子供ができず、自分の世嗣問題が大きな政治問題となります。

14代将軍の座を紀州徳川の徳川慶福(のちの14代家茂)と一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)が争ったとき、慶喜を推したのは一橋派と言われた薩摩藩島津斉彬・越前藩松平慶永・水戸藩徳川斉昭、老中阿部正弘らで、徳川慶福を推したのが南紀派と呼ばれた譜代大名と篤姫率いる大奥の連合チームでした。

結果的には徳川慶福が14代を継ぎ南紀派が勝利しました。

家定と篤姫の2年ほどの夫婦生活は特段仲が良いわけではなかったとも言われていて、諸説は色々とあるようです。最終的に篤姫は実家である薩摩藩の意向よりも、夫により近い血筋の紀州慶福を推し、徳川将軍家の血筋を守っています。

 

篤姫との夫婦仲は?島津斉彬が篤姫を斡旋

篤姫は家定が33歳の時に輿入れし、その家定は35歳で亡くなりました。

前項でも書きましたが夫婦生活はわずかに2年、病弱で晩年は特にからだが弱っていた家定は篤姫のもとを訪れることはほとんどなく、夫婦仲の良し悪しを判断する逸話はほとんど残っていません。

ただ、篤姫は徳川に嫁いだあとは幕府崩壊後も薩摩に戻ることなく江戸で暮らし、薩摩からの金銭援助も一切受け付けず、徳川家を守ることを考えた行動を何度も行っています。

篤姫は一生涯、家定の妻であることを誇りにしていたのかもしれません。

この篤姫を将軍御台所に嫁がせようと画策したのが薩摩藩11代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)だと言われています。

斉彬は将軍家に対して影響力を強めるために、従妹に当たる篤姫を家定の継室に送り込むことで、自分が推す一橋慶喜を将軍にしようとしたと言われています。

しかし、最近では将軍家から御台所への輿入れしを要望したのが家定が将軍家になる遥か前で、病弱な家定が将軍家になるかどうかも不明な時期でした。

そのため、島津斉彬の輿入れ画策説は現在では否定的に考えられています。

 

徳川家定の死因は?

家定の死因については諸説あるのですが、その一つに毒殺説があります。

将軍世嗣問題を解決後、一橋派の諸氏を処断した翌日に家定が亡くなったため、この説が一気にちまたに流れました。

奥医師・岡櫟仙院(おか れきせんいん)の関与が疑われたりしていますが、真偽のほどはわかっていません。現在では脚気の悪化、もしくは当時はやっていたコレラではないかとも言われています。

どちらにせよ、岡櫟仙院は家定の死去の責任を取らされて奥医師を解任され、隠居、謹慎と厳しい処分を科されています。

実際に将軍を毒殺したとあれば岡櫟仙院は当然極刑は免れないので、それがされていないということであれば、やはり毒殺説はあくまでも噂だったのでしょう。

徳川家定はうつけだった?

歴史に関する話ではよく出てくる「うつけ」という言葉。からっぽという意味を示し、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさすようです。

徳川家定は「うつけ」と呼ばれる類の将軍だったという評価をよく聞きますが、実際はどうだったのでしょうか。

 

脳性麻痺を患い、変な行動をしていた?

日米修好通商条約を結んだアメリカ外交官・ハリスが家定に謁見した際、以下のような記述を残しています。

自分の頭を、その左肩をこえて後方にぐいっとそらしはじめ、同時に右足を踏み鳴らした。(中略)それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で話し始めた。

このように、かなり奇妙な行動があったのは本当だったようで、家定は今でいう脳性麻痺を患っていたのではないかと言われています。

 

一橋派からは完全に「うつけ」扱い?

さて、家定の次の将軍として一橋慶喜を推していた福井藩主・松平春嶽は家定を「凡庸の中で最も下等である」「天下は維持できない」とこきおろしています。

また、松平春嶽の右腕である天才・橋本左内「とても一人前の人物とは言えない」と、これまた辛辣に家定に対する評価を下しています。

当時、次の将軍嫡子問題で一橋派という立場を取っていた上記の人物たちから、家定は「うつけ」という扱いをされていたようです。

 

井伊直弼は家定を評価?

ここまで、家定はうつけであるという根拠を示してきましたが、一方で、一概には家定がうつけで暗愚な人物だとは言い切れない記録も残っています。

というのも、大老・井伊直弼は家定を「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」と評価しており、実際の家定は愚鈍ではなかったということを示しています。

また、アメリカの条約締結に関して生母と密談をしたり、井伊直弼と他の老中の言い争いを諌めたり、将軍嫡子に関する書状について篤姫を通して近衛忠熙とやり取りをしたりと、将軍としてやるべきことをしっかり行なっている一面もあります。

 

松平春嶽ら、一橋派が家定に嫌われて、将軍嫡子問題で敗北?

家定がうつけであるかどうかについて評価が分かれるのは、当時、将軍嫡子問題で一橋派と紀伊派が争っていたことも大きく影響があると考えられます。

一橋派であった松平春嶽、橋本左内は家定をうつけであると評価し、紀伊派であった井伊直弼は家定の賢明な一面も見ており、うつけとは評価しませんでした。

最終的に将軍嫡子問題に関して、家定は「一橋を好かぬ。紀伊が好き」と言い、一橋派の慶喜ではなく、紀伊派の徳川慶福が次の第14代将軍となったのです。

 

徳川家定のエピソード

家定はカステラや饅頭など現代で言うスイーツ作りが趣味だったとされており、自分が作ったそれらのスイーツを家臣達にも食べさせたと言われています。このため第16代越前福井藩主松平春嶽に「イモ公方」と呼ばれ、相当痛烈に批判されていたようです。

ですが一部では家定自身が調理したのは、猜疑心が強かった家定が毒殺を恐れて自分で調理をしていたのではないかとも言われています。

また、将軍世嗣に紀州の徳川慶福を選んだのは家定が一橋慶喜(徳川慶喜)を嫌っていたと言う説があり、なぜ一橋慶喜が嫌いだったのか、その理由が単に一橋慶喜が自分よりイケメンだったからと家臣が語ったと伝えられています。

真偽はともかく、一橋慶喜を嫌っていて松平春嶽には悪口を言われ、島津斉彬に世嗣問題へ介入されそうになった恨みを考えればどう考えても家定が一橋慶喜を世嗣には選ばないでしょう

 

まとめ

在位わずかに5年、ほとんど功績を残さないままこの世を去ることになった家定ですが、彼のたった1つの功績と言えるのは篤姫と結婚したことでしょう。

篤姫による除名嘆願や江戸総攻撃の回避運動などが幕府崩壊後に生命の危機にあった慶喜や徳川宗家の人々の助命に繋がったのは間違いのない事実です。

本人の功績とは言えないまでも家定が歴史に名前を残す唯一の事例と言えるでしょう。