徳川慶喜の生涯とは?歴史的評価や大政奉還、身長などについて解説!

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徳川幕府15代、そして最後の将軍である徳川慶喜は日本史上最後の征夷大将軍でもあります。

政権を天皇に返還する大政奉還によって徳川幕府の幕を閉じ、新しい時代の扉を開いた人物として高く評価されても良いはずなのですが、彼の評価は大きく二分しています。

腰抜け,優柔不断との評価もあれば、先見の明があり素早い決断力のある人物と評する人もいます。

幕末に幕府の最高権力者となった第15代将軍徳川慶喜の真実の人間像とはどのようなものだったのでしょうか?

慶喜の簡単な生い立ちや生涯まとめ

天保8年9月29日(1837年10月28日)第9代水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれた幼名・七郎麻呂(しちろうまろ)。幼少期から頭脳明晰だったため、斉昭は世嗣慶篤(よしあつ)の控えとして他家へ養子に出さず手元に置いたと言われています。

10歳の時に第12代将軍・徳川家慶(いえよし)から一橋家の世嗣になるよう要請があり、一橋慶喜となりました。家慶は13代将軍職を慶喜に継がせたかったようですが、老中・阿部正弘に反対され断念、家慶の実子・徳川家定が13代将軍に就任します。

しかし家定は生来の病弱で、すぐに第14代の後継者問題が起こります。慶喜はやはりここでも名前が上がりますが、紀州藩の徳川慶福を推す彦根藩主井伊直弼ら譜代大名と大奥の連合(南紀派)との争いに敗れてしまいます。

幕府の実権を握っていた井伊直弼桜田門外で暗殺されると慶喜はにわかに表舞台へと返り咲き、将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務め、第14代家茂の死後、念願の第15代将軍職へ就くことになります。

慶喜が歴史に名を残したのは徳川幕府最後の将軍になったからだけではありません。彼の生涯を見て行くなかで避けて通れない事件が二つあります。

一つは大政奉還、もう一つは戊辰戦争です。

 

慶喜から見た大政奉還

大政奉還とは徳川幕府が政治の実権を天皇に返還するという、言わば徳川から天皇家への平和的政権交代です。

一般には坂本龍馬が考えたこの案を、土佐藩参政・後藤象二郎が慶喜へと奏上し、これを採用した慶喜が行ったとされています。

 

慶喜から見た戊辰戦争

戊辰戦争とは慶喜を朝敵とし、幕府及びそれに与する諸藩を倒して新政府の樹立を目指す薩摩,長州を中心とする武力クーデターのことです。

この戊辰戦争は初戦となる鳥羽・伏見の戦いこそ慶喜は幕府軍を率いて参戦しますが、形勢が不利とわかると大阪城に退却し、今後の幕軍の方針が定まらないうちに海路江戸へ逃亡するという、一軍の将として恥ずべき行動を取ってしまいます。

しかし、慶喜側から見たら恥ずべき行動だったのでしょうか?

近年の歴史研究によると、大政奉還に賛成したことや、敵対していた薩摩や長州が錦旗を掲げた官軍となると戦いを避け、自身は江戸で謹慎するという行為に出たことは、慶喜が天皇に敵対する事を避けるためだったのではないかとされています。慶喜は朝廷に重きを置いていたのかもしれませんね。

慶喜の歴史的評価 

幼少期には頭脳明晰で神童と呼ばれた慶喜は、第15代徳川将軍としてどのように評価されているのでしょうか?

慶喜の定まっている評価と言えば、敵前逃亡した根性なしと自己保身の二点です。この評価とは本当に正しいのでしょうか?

前項でも述べた通り、慶喜が鳥羽・伏見の戦いから逃げ出し大阪城から江戸へあっという間に逃げ去ったのは事実です。

しかし、その理由についてはいまだに定説はありません。それは慶喜の行動に一貫性がなく、感情のままに行動したからと今までは考えられてきたからです。

しかし現在では、朝敵の汚名を着るのを恐れ、官軍となった薩長土を初めとする討幕軍と戦うのを回避しようとしたため、敵前逃亡のような形になり、その後は江戸城から寛永寺,水戸,駿府と謹慎する場所を移動しながら常に恭順の姿勢を崩さず、明治新政府誕生まで変えていません。

これは自己保身ではなく、官軍,幕軍が総力で戦えば人的,経済的被害は甚大となり、日本が壊滅的打撃を受けることを恐れたためだと考えられています。

どちらの考えにも決定的な証拠がないため、どちらが真実かはわかりませんが、この二面性の顔を持っている事が徳川慶喜の魅力になっていることも否定できません。

 

慶喜の妻について    

正室・一条美賀は権中納言今出川公久の娘で左大臣一条忠香の養女として慶喜に嫁ぎました。

結婚後約三年は一緒に暮らし、一女をもうけますが早世しており、その後は子宝には恵まれませんでした。

その後慶喜は将軍後見職として京都,大阪に単身赴任しており、将軍職を継いだのも京都だったため江戸城には入っておらず、当然正室の美賀も江戸城には入っていません。

結局、慶喜が江戸に帰ってきたのは将軍職を天皇に返還したあとで、その上そのまま寛永寺にとじこもったので美賀は将軍御台所でありながら江戸城に住むことはありませんでした。

慶喜には正室以外に側室が三人(一色須賀,新村信,中根幸)、妾が一人(芳)いたと言われており、新村信との間には五男五女、中根幸との間には五男六女が産まれて側室とは相当に仲睦まじかったことが想像できます。

 

慶喜の身長について                                              

幕末期の日本人男性の平均身長が155~156㎝と言われており、今よりも約10㎝ほど低かったのですが、慶喜の身長は当時の平均身長よりもさらき5㎝も低い150㎝だったと言われています。

幕末の有名な人物の身長を比べてみると土方歳三は167㎝、勝海舟が156㎝、坂本龍馬は173㎝、西郷隆盛が179㎝とされています。

地方の雑草の逞しさか、倒幕派の面々は高身長で体格がよく、将軍や幕閣の面々は背が低く、ひ弱な印象を受けます。身長で戦争するわけではありませんが、体格的には断然倒幕派が有利だったようです。

幼少期から聡明にして文武に長け、徳川家の期待を常に一身に背負い続けた徳川慶喜。3度目の正直で将軍職に就いたときには、徳川幕府はすでに沈みかかった泥舟状態でした。

それでもなお幕府の体面を考えながら日本の行く末を案じ続けた慶喜は、徳川幕府を終わらせ新しい扉を開き明治という時代を呼び込みました。

将軍職を返上してから静岡,東京で余生を送った慶喜は写真や囲碁、狩猟などの趣味に没頭した生活を送り、政治には全く無関心だったそうです。

その姿こそが本当の徳川慶喜だったのかもしれません。