戊辰戦争とは?場所や会津との関係など詳細をわかりやすく解説!

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戊辰戦争とは、薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中心とした「新政府軍」と、徳川幕府や会津を始めとする奥羽越列藩同盟を含む「旧幕府軍」との間に起こった日本の内戦の事です。

「戊辰戦争」という名称は慶応4年・明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。

彰義隊で有名な上野戦争や、白虎隊で有名な会津戦争などもこの戊辰戦争に含まれており、まさに大規模な内戦でした。

最終的には「新政府軍」側が勝利し、国際的に正当な日本政府として認められる事になった戊辰戦争ですが、有名な会津での戦いや、それぞれの戦いの場所など、その全容をわかりやすく解説していきます。

戊辰戦争へ至った経緯

戊辰戦争へ至った大まかな経緯としては、第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還をして朝廷に政権を返還したにも関わらず、実際は旧幕府側がその権力を変わらず保持していたため、それに納得がいかない新政府軍が旧幕府軍を倒そうとしたというものです。

この戊辰戦争へ至った全体の流れを、詳細に見ていこうと思います。

 

大政奉還したものの、幕府の権力は維持

薩摩藩の島津久光らによる公武合体政策の成功の見通しが立たなくなると、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を目指すようになりました。

そして朝廷から討幕の密勅が下されましたが、慶応3年(1867年)10月14日に徳川慶喜が大政奉還をあっさりと認め、征夷大将軍職の辞任も申し出たため、討幕の密勅は事実上、取り消されました。

朝廷は諸条件を付ながらも、徳川慶喜に引き続き政務を委任し、将軍職もしばらくは従来通りとしました。

 

王政復古の大号令で慶喜の権力を骨抜きに

この徳川慶喜による政権掌握を良しとしない薩摩・越前・尾張・土佐・安芸藩の5藩が反抗し、王政復古の大号令にて幕府廃止と新体制樹立を宣言しました。この新体制下、徳川慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納が決定されたのです。(辞官納地)

新政府内での職と今までの領地を没収されるということは、慶喜の権力が完全に消えることを意味しますね。

しかし頭の切れた徳川慶喜は、これらの辞官納地を有名無実化しようと知略を発揮し、実際にそれが成功しつつありました。

 

西郷隆盛の挑発行為により開戦へ

この新政府に不利な流れを断ち切るべく、西郷隆盛は武力によって幕府軍を倒そうと考えます。

そのため、薩摩藩士に命じて江戸で強盗や放火などの挑発行為を行わせ、旧幕府軍を挑発し、旧幕府軍が薩摩を攻撃するように仕向けました。これらの行為に激怒した旧幕府軍は、江戸の薩摩藩邸を襲撃します。

西郷の思惑通り、旧幕府側が先に薩摩藩へ戦争をけしかけたという既成事実を取れたため、その後は新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争へ発展していくのです。

戊辰戦争では鳥羽伏見を緒戦とし、日本の各地で内戦が起こりました。以降、それぞれの場所と戦いの概要について、時系列でわかりやすく解説していきます。

 

鳥羽伏見の戦い

慶応4年1月2日(1868年1月26日)、戊辰戦争の緒戦である鳥羽伏見の戦いが開戦しました。場所は京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)で行われ、鳥羽伏見の戦いはこれらの地名が由来となっている戦いです。

薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍約5,000人と、旧幕府軍15,000人との戦いは、旧幕府軍側が最新型小銃など装備で上回っていましたが苦戦、後退が続きました。

最終的に1月6日夜、徳川慶喜が大坂城から江戸へ退却したため、旧幕府軍は戦の目的を失い、各藩は戦いを停止、一部は江戸方面へと撤退することとなります。

甲陽鎮部隊(旧新選組)の戦い

新政府は東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍しました。

一方の旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を拠点にしようとしました。

しかし信州にあった新政府軍が甲陽鎮撫隊より先に甲府城を接収したため、甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたものの、敗北しました。

 

江戸城無血開城と関東の戦い

慶応4年(1868年)4月11日、西郷隆盛と勝海舟との間で交わされた交渉が結実し、江戸城無血開城が行われました。

その後、この決定に従わない旧幕臣の一部と新政府軍との間で、市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で戦になりましたが、装備に勝る新政府側が勝利しました。

 

宇都宮での戦い

その後、旧幕府方勢力は徳川家の聖地である日光廟にて戦うべく江戸を脱出、4月12日に総勢2,000人を引き連れ日光に向け出発、宇都宮城の挟撃に出ます。

4月19日には宇都宮で戦闘が発生し、翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領したものの、奪還され日光での決戦に備え退却しました。

 

上野戦争

徳川慶喜が謹慎していた上野・寛永寺には、彰義隊がおり、彼らも新政府への抵抗を行っていました。

新政府軍は西郷隆盛から大村益次郎に司令官を替え、上野近辺で戦が多発しました。5月15日(同7月4日)、新政府軍は佐賀藩が製造した新兵器・アームストロング砲を投入、彰義隊を破り勝利しました。(上野戦争

 

会津戦争

奥羽や北陸地方を舞台に、新政府軍と奥羽越列藩同盟の中心となった会津藩との間に起きた戦の事です。白虎隊の悲劇を生んだ事でよく知られていますね。

 

会津藩主・松平容保は新政府と敵対

会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、ここで新撰組を配下に置くなど、尊皇攘夷派の取り締まりを推進した人物です。また、徳川慶喜が大政奉還することに反対して、鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍と敵対しており、敗れた後は謹慎して新政府に従う意向を示しています。

 

「奥羽越列藩同盟」で新政府に抵抗。会津戦争勃発

しかし新政府は、仙台藩や庄内藩に会津藩の討伐を命令し、会津藩に対してはあくまで厳しい姿勢を示しました。

会津藩に同情していた仙台藩や庄内藩はその新政府の決定に抵抗し、会津藩や仙台藩、北陸の諸藩などによって結ばれた「奥羽越列藩同盟」をもって、新政府軍と戦うことになります。この奥羽・北陸の諸藩と新政府軍との戦いの総称を会津戦争と言います。

会津戦争では、新政府軍の前に諸藩が次々と降参していきますが、会津藩は落城までに3ヶ月の間死闘を繰り広げ、会津戦争の中で最も激しい抵抗を見せました。

 

白虎隊の悲劇

白虎隊とは、新政府軍との戦いの際に構成された15~17歳から成る決死隊です。

新政府軍に追い込まれて飯盛山まで後退し、若松城が新政府軍に焼かれているのを見て、白虎隊の少年たちが自決したという悲劇で有名です。

 

箱館戦争(五稜郭の戦い)

箱館戦争とは、榎本武揚らの旧幕臣が臨時政府を作って、新政府軍に抵抗した戦いです。その名の通り、戦いの場所は箱館の五稜郭で、旧幕府軍はここを拠点として戦いました。

旧幕府側だった土方歳三の活躍によって一時は新政府軍を抑え込みましたが、五稜郭が総攻撃を受けて土方が戦死すると、もはや旧幕府軍に抵抗する力は残っていませんでした。

この箱館戦争が戊辰戦争における最後の戦いとなり、鳥羽伏見の戦いから続いた旧幕府側の抵抗は終わりを迎えました。

 

さいごに

旧幕府軍と新政府軍との間に起こった戊辰戦争は、日本全国各地で繰り広げられた大規模な内戦だったのですね。この戦争により、300年続いた幕府の体制は終わりを迎えことになりました。

しかし日本国内における内戦はこれで最後かと思いきや、実はこのあと、西郷隆盛率いる士族たちと明治政府との間に、国内最後の内戦である「西南戦争」が起こります。

今までの政治体制がひっくり返るということもあって、この頃はまさに激動と言える時代だったのですね。