上野戦争とは?西郷隆盛や大村益次郎、彰義隊について解説!

上野戦争とは、上野寛永寺に立てこもった彰義隊と、大村益次郎率いる官軍が衝突した戦いになります。

わずか1日で鎮圧された彰義隊は、その後、どうなったのでしょうか。その時、西郷隆盛はどこで何を行っていたのでしょうか。

 上野戦争の全容について、詳細に解説していきます。

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上野戦争が起こった背景

明治元年4月、勝海舟と西郷隆盛の活躍、第15代将軍徳川慶喜の英断によって、江戸城は無血開城を果たします

しかし、旧幕府勢力が一気に衰えていたわけではありません。

無血開城を不服とする旧幕府藩士たちは彰義隊と名乗り、徳川家の菩提寺がある上野寛永寺に集まり、抗戦します。これが上野戦争です。

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益満休之助の役割

上野戦争のきっかけとなったのが鳥羽・伏見の戦いだということはよく知られておりますが、その鳥羽・伏見の戦いのきっかけをつくった人物をご存知でしょうか。それが、西郷隆盛の密命を受け活動していた益満休之助になります。

1867年末、西郷隆盛からの密命を受け江戸へと向かった彼は、江戸薩摩藩邸にて500名ほどの浪人を集め、意図的に江戸市内を混乱に陥れる工作を行います。いわゆる江戸薩摩藩邸の焼討事件です。

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西郷隆盛の狙い

西郷隆盛は新政府実現させるため、幕府を挙兵させて関東地区を撹乱に陥れ、市民の不安や不満を煽ることを思い付きます。そのきっかけづくりの密命を帯びた人物が益満休之助です。

西郷隆盛の狙い通りに、庄内藩軍を主力とする幕府軍が江戸薩摩藩邸を襲撃し、会津藩、桑名藩を大いに刺激したことによって、鳥羽・伏見の戦いが勃発します。

ちなみに、益満休之助は幕府方に捕まりますが、勝海舟の計らいにより助け出され、幽閉の身となります。

1868年3月、勝海舟の命を受け、山岡鉄舟を駿河総督府へ送り届け、西郷隆盛との会見を成功させます。

5月、益満休之助は上野戦争にて流れ弾に当たり負傷し、野戦病院にて治療を行いますが28歳という短い人生を閉じています。

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上野戦争の内容

上野戦争は、水戸藩士を中心とした彰義隊が率いる旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍とが上野で起こした戦いになります。

新政府軍の総指揮をとるのは長州藩の大村益次郎、旧幕府軍の指揮をとるのは彰義隊発足時、副頭取に任命された天野八郎です。

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大村益次郎の戦術

大村益次郎は上野を完全に封鎖するため、各要所に兵を配備し、彰義隊の退路を確認し、それらの街道にあるすべての交通機関を分断します。

大村益次郎の作戦によれば、彰義隊が逃走する退路は、根岸方面一択であり、ほかにはあり得ませんでした。

西郷隆盛は、大村益次郎の考える皆殺しには賛成でき兼ねる節があったとされておりますが、最後には、正面の黒門口を受け持つことで了承したとされています。

 

宣戦布告

5月15日午前7時、新政府軍からの宣戦布告を受け、正門黒門口はじめ、団子坂、谷中門の各所で両軍が衝突しました。

この日は朝から雨が降っており、藍染川が増水していたこともあり、新政府軍が用いた新式スナイドル銃は思うような戦果を挙げられませんでした。

号を濁した大村益次郎はアームストロング砲による攻撃を指示しますが、それをきっかけに総攻撃となり、彰義隊は黒門口からの撤退、寛永寺本堂への退却を余儀なくされます。

午後5時、彰義隊はほぼ全滅して戦闘終結になり、旧幕府軍の残党は根岸方面へと敗走します。

江戸城内にて、新政府軍の勝利を耳にした大村益次郎は、敗走路が根岸方面であったことを聞き、自分の立てた作戦に間違がなかったことを確信したとのことです。

 

上野戦争における西郷隆盛

大村益次郎がとった戦術は三方を固め、1か所のみ後退するための逃げ道をつくっておくというもので、いわば包囲戦です。

1か所しかない逃げ道を目指し逃げ込む戦死たちに対し、大砲やライフル等を用いて攻撃し、わずか1日で壊滅させました。

この容赦ない攻撃作戦を聞いた西郷隆盛は、大村益次郎の彰義隊を皆殺しにするという強い決意を知り、その作戦に忠実に従います。

西郷隆盛率いる薩摩藩が受け持った場所は、正面となった黒門口からの攻撃でしたが、実はこの場所は上野戦争の中でもっとも難所とされた場所であり、そのために、薩摩藩の出した犠牲者は相当なものでした。

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上野戦争における大村益次郎 

上野戦争は大村益次郎なくしては語れません。

彼がいなかったら、新政府軍は勝利していなかったと言われる所以は、天才の名を欲しいままにした大村益次郎が立てた強気の戦術にありました。

彼が用いたアームストロング砲は、実は佐賀藩所有のものであり、借り受ける際に藩主である鍋島閑叟と交わした約束は、アームストロング砲を使って同民族を殺傷しないことだったそうです。

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戦争が長引けば、江戸市中まで被害を拡大させることになり、アームストロング砲を何度なく使用することとなり、幾人もの負傷者をつくることになります。

このことだけは何としても避けたい大村益次郎は、三方位を囲む包囲網をつくっただけでなく、彰義隊の中に偽会津兵を送り込み、背後から攻め込むことで一気に決着をつける作戦を立てていました。

ちなみに、アームストロング砲を撃ってから正門の黒門口を突破するまでの時間は、わずか1時間だったとのことです。

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さいごに

1868年5月15日に起こった上野戦争は、江戸時代の終結、明治時代の始まりのきっかけになった戦いと言われています。

この戦いでもっとも激戦だった寛永寺正面の黒門は、現在は荒川区にある円通寺に移築されており、無数の弾痕が残る黒門は、その当時を知る数少ない遺構となっています。

旧幕府軍による最後の抵抗の跡が垣間見えますが、明治という新時代への黎明ともとれる戦いですね。

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