アームストロング砲とは?佐賀藩も開発し、戊辰戦争や長州征討でも活躍!

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幕末の長州征伐、戊辰戦争等で使用されたアームストロング砲は、1855年、イギリス人のウィリアム・アームストロングが開発した大砲になります。

後に佐賀藩で開発されるアームストロング砲ですが、どのような構造をもった大砲だったのでしょうか。また、日本の歴史を変えたとされた明治維新を迎える幕末で、アームストロング砲はどのような数奇な運命をおくったのでしょうか。

それぞれ詳細に解説していきたいと思います。

アームストロング砲とは? 

アームストロング砲とは、日本語で言えば、「後装施条砲」になります。

従来の大砲は、1発の弾を撃つたびに筒内を掃除しなければなりませんでした。また、大砲の弾は前からこめる仕組みだったため、その都度、砲弾をこめる者が動かなければならず、1発打つために要する時間と手間が大きなストレスとなっていたのです。

このアームストロング砲はそんな従来の大砲の方式を大きく変え、幕末の戦争に大きな影響を与えることになりました。

 

改良されたアームストロング砲

具体的に何が変わったかというと、アームストロング砲では従来の大砲でかかっていた手間と、弾をこめる時間を大きく短縮することに成功しました。

アームストロング砲は後ろから砲弾をこめることができるほか、連続での発射が可能です。

また、筒内にはらせん状に切った条溝があり、その条溝を弾が通過する際、弾が回転しながら呼び出す仕組みであったため、射程距離を伸ばせるというメリットを兼ね備えておりました。

基本的にどんなものでも回転しながら飛び出すことで、まっすぐ飛び出すよりもはるかに大きな威力をもつことができますが、その機能を存分に発揮したのがアームストロング砲になります。

ちなみに、砲身は錬鉄製となっており、鋳造砲で造られたものに比べ軽量だったため、移動に手間取ることもありませんでした。

この時代の大砲としては他に類を見ない画期的な火砲であり、もっとも優れた構造をもった攻撃アイテムだったと言っても過言ではありません。

 

薩英戦争では失敗?

ですが、そのアームストロング砲でも通じなかったのが、薩摩藩です。

生麦事件の後始末として幕府は多大な賠償金をイギリスに支払いますが、薩摩藩は応じませんでした。

イギリス側は、7隻もの軍艦で薩摩藩に交渉をしかけますが、交渉は決裂。薩英戦争へと発展します。

薩摩藩は鹿児島城下に6 か所、桜島周辺に4 か所と合計10 か所の砲台に80~150 ポンド砲を含む86 門を設置し迎え撃ちますが、イギリスが誇る最新式のアームストロング砲を含む89 門の大砲には勝てず、城下500軒消失、集成館壊滅という大きな被害を受けております。

徹底的に戦うイギリス側でしたが、旗艦ユーリアラス号の艦長、副艦長が戦死し、最終的には退却せざるを得ませんでした。

最新式のアームストロング砲を活用したのにも関わらず、なぜ、退却しなければならなかったのでしょうか。

その理由は、アームストロング砲自身にありました。

合計21門のアームストロング砲から発射されたのは365発になりますが、28発が発射不能となるほか、旗艦ユーリアラスに搭載されていた1門が爆発するというトラブルに見舞われてしまったため、その機能を存分に果たすことができなかったのです。

長州征討におけるアームストロング砲

長州征伐は1864年と1866年に2回行われております。特に、1866年の第二次長州征伐は戦争へと発展したため、大きな被害を出しております。

1866年、6月12日、高杉晋作は幕府軍が民家に火を放ったことを聞き、94トンのアームストロング砲が搭載され、藩に内緒で購入した寅王丸に乗船します。

そして久我沖に停泊していた幕府軍の軍艦めがけて砲撃し、幕府軍に被害をもたらしました。

6月15日、大村益次郎率いる長州軍が津和野藩領横田村へ進軍し、そのまま益田に進撃。

この頃、大坂では14代将軍・家茂が死去し、その知らせを聞いた老中・小笠原長行は戦線を離脱。事実上の幕府軍全面敗北となります。

 

戊辰戦争におけるアームストロング砲

幕末に起こった旧幕府軍と新政府軍との戦いが、戊辰戦争になります。

きっかけは大政奉還で、最後の将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返したことで、慶喜討伐の機会がなくなります。ですが、あくまでも幕府倒幕を進める西郷隆盛は浪士を集め、挑発行為を行い、手を緩めません。

我慢ならなくなった旧幕府軍は、薩摩藩邸を襲撃し、それをきっかけに戊辰戦争が勃発しました。

鳥羽伏見の戦い、上野戦争等、アームストロング砲が活躍した戦争は少なくありませんが、戊辰戦争において、新政府軍が用いた最新式のアームストロング砲の威力を実感したのは、会津若松で対抗した会津藩士ではないでしょうか。

1か月という長い間、最新式のアームストロング砲と戦い抜いた会津若松城は、京都守護職を務めた会津藩主・松平容保の城になります。

 

佐賀藩もアームストロング砲を作った?

アームストロング砲といえば佐賀藩で、佐賀の七賢人と言われた第10代佐賀藩主・鍋島直正を忘れてはなりません。

実は、この直正は長崎警備の任務の責任があったことから、殊の外、アームストロング砲の開発に熱心な殿さまだったのです。

破綻寸前の佐賀藩を継いだ直正は財政の立て直しを図るとともに、佐賀の産業である磁気、石灰、茶に力を入れ、優秀な人材を登用し、積極的に財政を立て直します。

そして長崎警備の強化のため、アームストロング砲の開発ほか、蒸気船の開発を行う三重津海軍所を設置し、これらの技術は母方の従妹にあたる島津斉彬にも提供されております。

大村益次郎が指揮をとった上野戦争で活用されたアームストロング砲は、佐賀藩が提供したもので、あの彰義隊を苦しめた2門のアームストロング砲は佐賀藩開発のアームストロング砲だったのです。

ちなみに、直正はペリーが浦賀にやってくる3年もの前には、佐賀藩の領内に反射炉を建設しており、鋼の製造、アームストロング砲の開発、鋳造を行っていたそうです。

まさに、「ものづくり」の最先端を走っていた藩だったのですね。

 

さいごに

ここまで、アームストロング砲に関して解説してきましたが、幕末に活躍し、大きな影響を与えた革新的な武器だったということが伝わったことと思います。

また、佐賀藩がアームストロング砲作りに熱心だったいうのは意外な事実ですね。

幕末にかけてアームストロング砲が日本に広まったことは、倒幕から明治維新にかけて日本が大きく生まれ変わることになった一つの要素とも言えるのではないでしょうか。