島津斉彬とは!死因は暗殺?家系図や子孫、西郷隆盛についても解説!

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幕末の名君と言われており、西郷隆盛から非常に慕われていた島津斉彬

当時、斉彬は「幕末の四賢候」のうちの一人として数えられており、同じ四賢候の一人で「日本一賢い殿様」と称されていた松平春嶽から、「本当に賢候なのは斉彬で、自分を含めて他の四賢候など彼に及ばない」とまで言わせた人物なのです。

そんな島津斉彬は、いったいどのような人生を送ったのでしょうか。

斉彬の家系図や子孫、彼の死因は暗殺だったのかどうか、また西郷隆盛や篤姫との関係など、斉彬の人生全般に渡って解説していきたいと思います。

島津斉彬の生い立ち。蘭学に興味を持つ

島津斉彬は、1809年3月14日、第10代藩主・島津斉興の長男として江戸薩摩藩邸で生まれます。

幼少期の斉彬は、曽祖父・島津重豪からの影響を大きく受けて育ちます。

重豪は自身でオランダ語を話すことができ、「蘭癖博士」と呼ばれるほどオランダの学問や技術に詳しい人物でした。

斉彬は幼い頃に重豪とシーボルトの会見に居合わせたり、当時の大名家としては珍しく、重豪と一緒にお風呂に入っていたりしていたそうです。

かなり利発だった斉彬は曽祖父・重豪からその才能を高く買われ、わずか4歳にして将来の跡取りとしての指名を受けます。

そんな、重豪の影響を受けて、斉彬は徐々に蘭学へ興味を持つようになりました。

後に、この斉彬の蘭学好きが島津家に「お由羅騒動」という大事件をもたらすことになります。

 

後継争い「お由羅騒動」が勃発!

お由羅騒動とは、島津斉彬と島津久光、どちらを次の藩主にするかということで、揉めた事件です。

藩主・斉興の側室だったお由羅の方は、このチャンスを逃さまいと、息子の久光を次期当主にしようと画策します。

それに対抗した斉彬を支持する家臣たちが、お由羅の方と久光を暗殺しようとします。

しかし、その暗殺計画が漏れてしまい、首謀者13名が切腹、連座した関係者50名が遠島、謹慎処分されてしまいました。

その処刑されてしまった斉彬派の人物の中に、西郷隆盛と親しくしていた赤山靭負がおり、この赤山の切腹をきっかけとして、西郷は斉彬が次期当主になることを望むようになったと言われています。

最終的には、幕府老中・阿部正弘などの協力を得て、斉彬が次期当主と決まります。

斉彬の死後は久光が島津家の実権を握ることになるため、お由羅の方の願いはいずれ成就されることになります。

 

斉彬と久光の関係は良好だった?

お由羅騒動から二人の関係を見ると、後継者争いで当然お互い敵視しているかと思われがちですが、実は二人の兄弟仲はとても良かったと言います。久光は兄の斉彬を信頼していて、斉彬も久光のことを気に入っていました。

それを表すエピソードとして、斉彬が江戸へ行く用事があったときに、自分の代わりとして、久光を藩主代行に指名していたというものがあります。

外国技術による富国強兵を推進

斉彬は藩主になってすぐに、アジア初の近代洋式産業である、集成館事業を始めます。

集成館事業では、洋式造船などを様々な技術の習得や運用を手がけ、藩の富国強兵に努めました。

斉彬は、この集成館事業で実際にどのようなものを作ったのでしょうか。

 

1. 洋式帆船「いろは丸」を造船

斉彬は、アメリカから日本に帰国したジョン万次郎から洋式の造船法を提供してもらい、藩士にそれを学習させます。

そして3年後、洋式帆船「いろは丸」を完成させ、その船に使う布を作るために、木綿紡績事業も展開します。

 

2. 西洋式軍艦「昇平丸」を造船

斉彬は、鳳凰丸に次ぐ、日本で二番目に作られた洋式軍艦「昇平丸」を造船しました。この昇平丸は幕府に献上されますが、その際、日本で初めて「日の丸」の旗が掲揚された記念すべき船となりました。

昇平丸は咸臨丸とともに、蝦夷地開拓の輸送船として活躍します。

 

3. 日本最初の国産蒸気船「運行丸」を完成

斉彬は当時の最新技術であった蒸気機関に興味を持ち、オランダの技術書や幕府に初めて寄贈された観光丸の視察などを元に、国産としては初となる和洋折衷の蒸気機関船「運行丸」を独学で完成させます。

運行丸は蒸気漏れが多く、技術的な完成度としてはまだまだな部分もありましたが、それでも独学で完成させたということは非常に画期的なことでした。

運行丸は、連絡船や輸送船として活用されることになります。

 

4. 他にも、様々な工業製品の作成や研究を推進

斉彬は造船の他にも、様々な分野で研究・開発を行っています。

  • 汽車の研究
  • 小銃の製造
  • 製鉄のために溶鉱炉を設置
  • 大砲製造のために反射炉を設置
  • ガラスの製造(のちに有名な薩摩切子となる)
  • ガス灯の設置
  • 洋式製塩術の研究
  • 写真術の研究
  • 電信機の設置
  • 農作物の品種改良

これだけの西洋技術を取り入れて実際に運用してきた斉彬は、非常に有能で視野が広い大名だったことが分かりますね。

 

西郷隆盛や大久保利通を見出す

斉彬は有用な人材を発掘する能力にも長けていたようです。

のちに明治維新を成し遂げ、日本の新時代を切り開く西郷隆盛大久保利通などの人材を登用することになります。

 

西郷隆盛を江戸に連れて行き、御庭方役に任命

ある時、斉彬は藩の政治に対する意見書を求める布告を出しました。

有用な人材を見つけて育成するための布告でしたが、この時西郷隆盛が提出した意見書が斉彬の目に留まり、西郷の可能性を見込んで彼を江戸へ連れて行きます。当時はペリーの黒船来航により、斉彬も江戸から召喚されて、日本の開国に関する意見を求められていたのです。

江戸の薩摩藩邸に勤務することになった西郷には、「御庭方役」という役職が与えられました。

当時、下級藩士であった西郷が家老や藩主などの身分が高い者と話すためには面倒な手続きが必要でしたが、御庭方役になったことで、そういった手続きをしなくても高位の人物と庭先で話すことができるようになりました。

この斉彬の配慮に西郷は痛く感動し、以降、彼に忠誠を誓ったと言います。

斉彬がこういった機会を与えたことで、西郷は歴史に名を残す人物へと成長していくことになるのです。

 

大久保利通の謹慎を解除し、西郷とともに徒目付に任命

大久保利通は、お由羅騒動に関わったとして、父・利世とともに謹慎処分を受けていました。それ以降、大久保家は大変貧しい生活を送っていたのです。

斉彬は藩主になってすぐにその大久保家の謹慎処分を解き、大久保利通を西郷とともに徒目付(隠密活動などを行う役職)に任命します。

西郷だけでなく、大久保利通の才能も見抜いた斉彬は、真の名君だったと言えるでしょう。

 

大老・井伊直弼と対立

斉彬の晩年、当時の幕府は開国を求める諸外国との対応に追われており、老中・阿部正弘から対応策の意見を求められていた斉彬は、外様大名にも関わらず、幕府の政治へ干渉を続けていました。

そんな中、阿部正弘が死去し、次期将軍を誰にするかで阿部正弘の次に大老となった井伊直弼と対立します。

 

島津斉彬は徳川慶喜、井伊直弼は徳川慶福を推薦

当時の第13代将軍・徳川家定は病弱で、正室や側室との間に嫡子が生まれる見込みがありませんでした。そのため、家定が亡くなる前に次の後継ぎを決める必要があります。

次の将軍と近い関係を構築できれば、自分たちの家や藩も影響力を増すことができるので、斉彬はかねてより親交がある徳川斉昭の息子・一橋慶喜(後の徳川慶喜)を第14代将軍にしようと画策します。

一説では、斉彬の養子である篤姫を家定の正室に嫁がせ、慶喜を次期将軍にするよう、篤姫から家定に説得させようとしたという話があります。

しかし井伊直弼は、自分に近い血筋を持つ紀州藩主の徳川慶福を推薦し、それに反対する斉彬ら一橋派を安政の大獄によって弾圧します。

そして最終的には斉彬が敗れる形で、第14代将軍に徳川慶福(後に家茂と改名)が就任することになります。

 

島津斉彬が急死。死因は暗殺?

それに憤激した斉彬は、抗議のために5000人の藩士を連れて江戸へ向かおうとします。

しかし、その準備の段階で急病を患い、49歳でこの世を去ります。

当時日本で流行していたコレラが死因とされていますが、その死があまりに急でコレラの症状と合致しない点があるため、毒によって暗殺されたという説もあります。

忠誠を掲げていた斉彬が亡くなったことにより、西郷隆盛は大変なショックを受けて、一度は後を追って殉死しようとするほどでした。

このエピソードも、斉彬が、あの西郷が惚れ込むほどの人物であることを示していますね。

島津斉彬と篤姫との関係は?

さきほど篤姫については少し触れましたが、そもそも斉彬と篤姫はどんな関係だったのでしょうか。

簡単に言うと、斉彬と篤姫はいとこの関係です。とはいえども、斉彬が篤姫より27歳上なので、年齢的には親子ほど歳の差があることになります。

 

篤姫が斉彬の養子に

幕府の老中・阿部正弘と近い関係を築いていた斉彬は、公武合体政策において幕政に参加し、島津家の影響力を強めようとしました。

その政策の一環として、徳川家に島津家の娘を嫁がせようとします。斉彬の娘は早くに亡くなってしまったため、いとこである篤姫が徳川家の正室候補となりました。

篤姫は島津家の分家出身であるため、徳川家の正室に嫁ぐためには格が足りません。ですので、一度斉彬の養子になることで家の格を上げ、その後、公家である近衛家の養子を経ることで、徳川家に嫁ぐことになりました。

 

斉彬は篤姫に家定の説得を頼んだ?

当時の第13代将軍・徳川家定は病弱で世継ぎもいなかったため、次の将軍を誰にするかという将軍嫡子問題が起こっていました。次の将軍として一橋慶喜を推す島津斉彬ら一橋派と、徳川慶福を推す井伊直弼ら南紀派が争っていたのです。

斉彬は一橋慶喜を次の将軍にするため、篤姫を家定の妻にし、彼女から家定を説得するよう画策しようとしたという説があります。

しかし、実際は篤姫が慶喜の将軍としての資質に疑問を呈し、徳川慶福を推す南紀派の立場を取っていたため、斉彬の思惑通りにはいきませんでした。

斉彬の死後、篤姫は徳川家を存続させるために尽力します。篤姫は薩摩藩から島津家に戻るよう指示されたこともありましたが、それを断り、二度と薩摩の地を踏むことはありませんでした。

篤姫は徳川家の人間として、その生涯を閉じたのです。

 

島津斉彬の子孫について

斉彬は六男五女、合わせて11人の子供を授かっており、まさに大家族でした。

しかし、このうち三女、四女、五女の3人以外は若くして亡くなっており、子供を産んだのは四女だけでした。その四女から続く子孫は現代でも存在していると言います。

子供が11人いて、そのうち1人しか次の子供を産まなかったというのはかなり奇妙ではありますね。

斉彬自身に暗殺疑惑があったことから、子供たちも暗殺されたのではないかという説もあるそうです。

 

島津斉彬の家系図について

斉彬の家系図を紐解くと、島津家の歴史は鎌倉時代まで遡ります。

島津家の祖である島津忠久は、源頼朝より薩摩・大隅・日向の守護職に任命され、のちに薩摩一国を任されるようになります。

島津家がその名を有名なものにしたのは戦国時代。島津家第15代当主・島津貴久には4人の子がおり、兄弟で九州を統一しようと数々の武功をあげていたのです。

その兄弟の中でも鬼島津と恐れられた名将が島津義弘(よしひろ)で、家系図をみると、斉彬はこの義弘の直系の子孫だということが分かります。

斉彬自身も幕末の四賢候という名君としての評価を受けていますので、島津義弘の血筋は優秀なのでしょう。

 

さいごに

稀代の名君主として名高い島津斉彬について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。

西洋の最新技術を早くから取り入れる視野の広さや、西郷隆盛や大久保利通といった英傑を見抜いた力を考えると、斉彬はまさに本物の賢候と呼ぶにふさわしい人物だったのではないでしょうか。