大久保利通がしたこととは?西郷隆盛との関係など、その生涯を年表付きで解説!

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大久保利通は西郷隆盛や木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれ、幕末から明治維新にかけて活躍した人物です。

寡黙で人を寄せ付けないほど非常に威厳に満ちた政治家だったと言われる大久保利通ですが、どのような生涯を送ったのでしょうか。

大久保利通がしたことや、幼馴染の西郷隆盛との関係について、年表付きで解説していきたいと思います。

大久保利通の生い立ち

1830年9月26日、鹿児島県鹿児島城下高麗町の下級武士として生まれます。

幼少期に下加治屋町へ移住し、そこで西郷隆盛や税所篤、吉井友実、海江田信義など、幕末から明治にかけて活躍した同志たちと出会います。特に西郷隆盛とは親友の間柄でした。

もともと胃が弱かったため武術は得意ではありませんでしたが、その代わり、討論や読書においては、同世代の中でもズバ抜けていたそうです。

 

お由羅騒動で謹慎処分を受け、貧しい生活を送る

1846年、大久保利通は薩摩藩記録所書役助としてめでたく出仕しますが、4年後に薩摩藩の次の藩主を誰にするかで揉めた「お由羅騒動」という事件が起こり、これに利通の父が関わったとして、父と連座して謹慎処分を受けます。

そのため、しばらくは大変貧しい生活を送っていましたが、新しい藩主となった名君・島津斉彬により利通の謹慎が解かれ、記録所に復職して御蔵役となります。

この時、西郷隆盛は島津斉彬に対して、お由羅騒動で罰則を受けている利通などの謹慎解除を求める意見書を出しており、それも少なからず斉彬の判断に影響を与えたようです。

 

知恵を使ってスピード出世!囲碁が決め手?

薩摩藩の仕事に戻ってからは、その機転を活かして、藩内でスピード出世していきます。

大久保利通は生涯の娯楽として囲碁を楽しんでいたようですが、実はその娯楽は自らが藩内で影響力をつけるために最大限活用されていたのです。

島津斉彬の死後、島津忠義が次の藩主になっていましたが、実質的な実権は、忠義の父であり斉彬の弟でもある島津久光が握っていました。

そこで大久保利通は、久光の囲碁仲間である住職の乗願と碁を打つ時に、それとなく、自身や仲間の政治信条を語り、その内容を自然と久光の耳に入るように知恵を働かせていました。

また、乗願に協力してもらい、久光が読みたいと言っていた本を教えてもらいます。当時、本を手に入れるというのは相当骨が折れることだったようですが、利通は何とかその本を見つけ、乗願から久光にそれを渡してもらいました。

その本の中には、利通が自らの名前や政治上の信念などを書いた紙を挟んでおき、その紙を見た久光に利通を印象付けることに成功していたようです。

かくして、薩摩藩の権力者・島津久光から「一蔵」という名前をもらうほど重用されるようになり、藩内でスピード出世を果たします。

一方の西郷隆盛は久光と生涯険悪な関係だったため、西郷と利通は親友ながらも対照的な存在と言えるでしょう。

 

久光と共に中央政界へ!公武合体を目指す

大久保利通は久光と共に政界の中央へ進出し、公武合体を成し遂げようとします。

公武合体とは、今までの幕府一強状態を改め、幕府、朝廷、諸藩が協力して、新しい幕藩体制を作り上げることです。

この公武合体の試みは一定の成果を挙げ、一橋慶喜を将軍後見職に、福井藩主・松平慶永を政事総裁職に就任させるという当初の目標を達成できました。

しかしその後、利通らが推薦した一橋慶喜が公武合体の肝となる参与会議や四侯会議の設立を妨害し、久光や利通の願望である公武合体が頓挫してしまいます。

それ以降、利通は西郷と共に倒幕路線へ舵を切ることになります。

 

倒幕と王政復古の大号令

大久保利通は西郷らと共に倒幕へ向けて動き出します。

徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷へ返還しましたが、慶喜がこのまま政治に関わり続けたら、徳川幕府が実質的に政権を握り続けることになります。

その状況を変えるために、利通は岩倉具視と共に「王政復古の大号令」を発し、天皇の元、正式に明治政府を立ち上げました。

また、戊辰戦争により、対抗してきた慶喜を退け、徳川幕府を完全に終わらせることに成功しました。

明治政府での活躍

明治政府が設立されたのち、利通は参与に任命され、いわゆる明治政府のブレーンとしてその実力をいかんなく発揮していきます

 

版籍奉還と廃藩置県

大久保利通は今までの日本を抜本的に変えるため、西郷隆盛の協力の元、版籍奉還廃藩置県を実行しました。これは、今まで全国の大名が統治していた土地や人民を天皇へ返還し、新たに県という枠組みを置いて、日本を作り直すことです。

これほど大規模な改革を、何の反乱もなく平和裡に実行できたというのは驚くべきことです。

 

大蔵卿に就任し、岩倉使節団に随行

1871年には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として欧米を視察しに行きます。

この時に利通が感じた欧米列強への衝撃が、征韓論を唱える西郷隆盛との対立を生み、最終的に西郷は政府の職を辞めて鹿児島へ帰郷してしまいます。

 

初代内務卿に就任

1873年(明治六年)、利通は実質的な首相である初代内務卿に就任し、学制地租改正、徴兵令など、明治の日本の土台となる重要な政策を打ち立てます。

また、「富国強兵」を掲げ、殖産興業政策を進めることにより、欧米列強に負けない日本を築き上げようとしました。

 

西南戦争で西郷隆盛が死去

鹿児島へ帰郷した西郷隆盛は、彼の元に集まった藩士を引き連れて、明治政府と対立する西南戦争を引き起こします。各地で激戦が巻き起こり、特に熊本城田原坂などでの戦いは壮絶だったようです。

大久保利通は明治政府の長として西南戦争を指揮し、最終的に西郷は敗れ、この戦争で亡くなります。

かつて親友として共に倒幕を成し遂げた二人の悲しい結末と言わざるを得ません。

 

大久保利通の暗殺

西郷の死後から1年後の1878年。6人の過激士族によって、大久保利通は紀尾井坂で暗殺されてしまいます。当時最も重要な人物だった利通の死は、日本にとって大きな損失だったと言わざるを得ません。

30年計画という、明治の大構想を打ち立てた直後の死ということで、その志半ばで倒れてしまった利通の無念が思われます。享年49歳でした。

 

大久保利通がしたことまとめ

ではここで一度、幕末や明治において大久保利通がしたことをまとめてみましょう。

  • 御側役として島津久光の側近になる
  • 公武合体政策を一環として四候 会議を実行する
  • 薩摩・長州・広島藩の三藩盟約を結び、倒幕の密勅を取り付ける
  • 岩倉具視とともに「王政復古の大号令」を発令し、明治政府を樹立する
  • 岩倉使節団の副使として欧米視察
  • 内務省を新設し、実質的な日本トップである初代内務卿に就任
  • 殖産興業政策、学制、地租改正、徴兵令などを実施
  • 国内産業の盛り上げを意図した、第一回内国勧業博覧会を上野公園で開催

こうして利通がしたことを見てみると、まさに倒幕から新しい明治の日本を中枢で作り上げた人物だと分かりますね。

 

西郷隆盛との関係について。利通は西郷の死に号泣した?

同じ薩摩藩で幼い頃から切磋琢磨し合いながら成長してきた利通と西郷。

その絆は二人が成長しても変わることがなく、最終的には共に倒幕と明治維新を成し遂げています。

西南戦争では西郷と利通は対立し合う形になってしまいましたが、真相はどうやら異なるようです。

というのも、利通は西郷と和解のために話し合いを持ちかけようとしていたみたいですし、西郷は西郷で実際のところ西南戦争で勝つ気はなく、弟の西郷従道には「お前はこちら側に付かないで東京に残れ」と伝えており、明治政府のために弟を残したと考えられるのです。

利通は西郷の死を知ると、号泣しながら家の中をグルグル歩き回り、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたと言います。

また、利通が暗殺された時、西郷から届いた手紙と、それに対する返書を持っていたようで、利通の西郷に対する親愛の念が伝わってきます。

二人は共に、お互いの心を理解し合っていた真の同志だったと言えるではないでしょうか。

 

大久保利通という懐の深い大人物

利通は非常に威厳に満ちた人物だったようで、西郷の部下で非常に気性が荒い桐野利秋でさえ、利通の威厳の前ではまともに話すこともできなかったと言います。

一方で利通は家族想いの人物だったようで、出勤前には娘を抱っこしてから出かけたり、毎週土曜日は家族揃って夕飯を食べたりするなどしていたそうです。

また、利通は私財を投げ打って国の公共事業を推進しており、暗殺時には、今のお金で1億6千万ほどの莫大な借金が残っていたようです。

しかし利通の志を理解していた債権者は、利通の死後、誰一人として彼が残した借金の取り立てにやってこなかったと言います。

こういった逸話から考えると、大久保利通という人物は大政治家たる器の大きさを兼ね備えていたようですね。

 

大久保利通の子孫

日本のトップまで上り詰め、歴史に名を残した大久保利通ですが、彼の子孫もまたすごい家系を築いています。

有名な人物としては、利通の息子で政治家の牧野伸顕、吉田茂の孫である麻生太郎などが、利通の直系に連なる子孫だそうです。

 

大久保利通の人生年表

さいごは、利通の人生をまとめた年表を書いて終わりにしたいと思います。明治を代表する政治家の人生を振り返ってみましょう。

1830年 1才 薩摩藩・鹿児島城下に生まれる

1846年 18才 記録所書役助として働き始める

1850年 21才 お由羅騒動で謹慎処罰を受ける

1860年 31才 島津久光に初めて謁見

1862年 33才 島津久光から一蔵と名付けられる

1865年 36才 利通に改名

1866年 37才 薩長同盟を結ぶ

1867年 38才 明治天皇が即位

1867年 38才 大政奉還

1868年 39才 鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争の始まり

1869年 40才 版籍奉還

1871年 42才 廃藩置県

1871年 42才 岩倉使節団の副使として欧米へ渡る

1873年 44才 征韓論で西郷と対立

1873年 44才 内務卿に就任

1873年 44才 地租改正法や徴兵令

1877年 48才 西南戦争を指揮

1878年 49才 紀尾井坂の変で暗殺される