王政復古の大号令とは?その意味など詳細に解説!

「王政復古の大号令」とは、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に徳川慶喜の将軍職辞職による徳川幕府の廃絶、摂政・関白など旧公家社会の解体、三職(総裁・議定・参与)の設置による新政府樹立宣言のことです。

慶応3年10月14日に行われた徳川慶喜による大政奉還によって武力倒幕への道が断たれそうになった岩倉具視を代表とする公家や長州、薩摩などの雄藩が、起死回生を狙ったクーデター宣言とも言われています。

幕末最大の歴史的転換点となった王政復古の大号令とはどのようなものだったのでしょうか?その意味も含めて詳細に解説していきます。

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当時の歴史的背景や王政復古の大号令までの経緯

第15代将軍職に徳川慶喜が就任して、再び幕府側の勢力が盛り返し、時代の流れは武力倒幕派(長州藩)、公議政体論・公武合体派(薩摩、越前、土佐藩など)、幕府存続派(幕府、会津、桑名藩など)の3派に大きく大別されるようになります。

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四侯会議の失敗から倒幕へ

1867(慶応3)年5月に薩摩藩は四侯会議(しこうかいぎ)の設置とその実行を画策しました。

この会議は、島津久光(薩摩藩主の父)、松平慶永(前越前藩主)、山内豊信(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)ら四賢公とされた有力者による徳川慶喜に対する諮問機関として政策立案をおこない、幕府から雄藩連合へ政治主導権の奪取を試みようとした会議です。

しかし、徳川慶喜の巧みな政治力にこの企みは潰されてしまい、薩摩藩は公議政体論・公武合体派から武力倒幕派へと傾倒します。

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大政奉還後も徳川慶喜が実権を握る

薩摩藩の離脱で方向性を失った公議政体論・公武合体派の土佐藩は、土佐脱藩浪士の坂本龍馬がまとめていた大政奉還論が唯一の解決策と考えこれを推進、薩摩藩を武力倒幕派から呼び戻して薩土同盟を締結します。

結果として、その条項にあった将軍職の廃止合意と上京出兵が実現せず、薩土同盟は解消されてしまいますが、土佐藩は単独で徳川慶喜に大政奉還を奏上させることに成功し、平和的政権交代を実現させます。

この頃、武力倒幕派は岩倉具視を中心にクーデター計画を練っており、討幕の密勅(岩倉具視が作った偽物と言われている)が長州藩と薩摩藩に渡っていて、いつでも倒幕軍を挙兵できる体制が整っていましたが、大政奉還によって幕府から天皇へ政権が移ってしまい、倒幕軍の挙兵は延期されました。

しかし、大政奉還が行われても将軍職辞職がなされず、幕府に変わる行政機関や会議も行われませんでした。結果、徳川慶喜が政務を担当し、幕府存続派が大政再委任を要求するまでに巻き返して、政局は混乱を極めます。

その上、慶応3年11月には武力倒幕派と公議政体論・公武合体派の繋ぎ役を果たしていた坂本龍馬が暗殺され、武力倒幕派は強硬派が多数を占めるようになります。

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王政復古の大号令により慶喜の権力を剥ぎ取る

この混乱を極める現状打破のために長州,薩摩,芸州の3藩は出兵同盟を締結、慶応3年12月に岩倉具視は薩摩・土佐・安芸・尾張・越前5藩の重臣を集め王政復古の断行を宣言。

12月9日ついにこの5藩の兵が御所の城門を封鎖、岩倉具視が「王政復古の大号令」で新政権の樹立を宣言しました。これにより、徳川慶喜の実質的な政治的権力は失われてしまいます。

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王政復古の大号令とは?

王政復古の大号令は以下の5項目から成り立っています。

①将軍職辞職を勅許

②京都守護職・京都所司代の廃止

③幕府の廃止

④摂政・関白の廃止

⑤新たに総裁・議定・参与の三職をおく

それぞれの項目について解説していきます。

 

①将軍職辞職を勅許

慶応3年10月24日に提出されていた徳川慶喜の将軍辞職届けを受理して、慶喜の政治的権限を奪うこと。

 

②京都守護職・京都所司代の廃止

京都守護職、京都所司代を廃止することでこの役職に就いていた松平容保や松平定敬を京都から追放し、一会桑連合(一橋家,会津藩,桑名藩)を瓦解されること。

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③幕府の廃止

幕府組織自体を解体し権力を新政府に全て集中させること。

 

④摂政・関白の廃止

摂政、関白を廃止して5摂家中心の門閥体制を崩壊させること。

 

⑤新たに総裁・議定・参与の三職をおく

これら古い政治形態に変わり、総裁・議定・参与の三職をおいて新政府の政策運営を行うこと。

 

王政復古の大号令を発令した意味

なぜ、幕末のこの時期に王政復古の大号令が必要だったのでしょうか?

それは、禁門の変以降、幕府により処罰された武力倒幕派の大名や公家を復権させるためです。

王政復古の大号令が発表された前日に、長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京許可、岩倉具視ら謹慎処分になっていた公家の赦免、九州にいた三条実美ら五卿の赦免などが決められました。これによって武力倒幕派は御所内でも多数派を握ることとなり、翌日一気にクーデターへと突き進みます。

この王政復古の大号令を進めた中心人物といえば、岩倉具視でしょう。中級公家の家柄だった岩倉具視は常に権力の中枢を求め、考え方も紆余曲折しますが、謹慎中もその頭を休めることなく打倒徳川幕府を目指し続けました。その結果が王政復古の大号令へと繋がったのです。

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王政復古の大号令のその後

王政復古の大号令で発表された通り、総裁・議定・参与の三職の人事が発表されましたが、武力倒幕派だけでなく公議政体論・公武合体派からも選ばれており、会議では徳川慶喜の今後の扱いについて両者は激しく対立します。特に岩倉具視と公議政体論・公武合体派の山内容堂とはお互い慶喜の処遇については譲ることなく激しく対立しました。

しかし会議の休息中にこの対立を聞いた西郷隆盛が「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と言ったのを聞き、山内容堂は暗殺を恐れて沈黙してしまい、会議に徳川慶喜が出席することができなくなりその処遇が決定します。

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ところがその後、何度か幕府側の巻き返しがあり、会議では何も決まらないことに業を煮やした薩摩藩が幕府軍強硬派を挑発します。

暴発した幕府軍は鳥羽伏見で薩摩,長州軍と戦争状態に入り、この鳥羽伏見の戦いのときも山内容堂と岩倉具視は対立し、「今回の戦は薩長が仕掛けた不当な戦である」と抗議しますが、岩倉は「そう言われるなら土佐藩は幕府側につけばよい」と一蹴、山内容堂らは沈黙してしまいます。

その後、山内容堂は土佐藩の兵隊を板垣退助に指揮させ薩摩、長州と共同歩調を取らせました。

鳥羽伏見の戦い以降続いた戊辰戦争は、甲府,江戸,宇都宮,北国,箱舘へ拡大し日本を二分する戦いへと発展、官軍が勝利したものの両軍に大きな傷跡を残しました。

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さいごに

王政復古の大号令は岩倉具視や薩摩,長州が、武力倒幕のために作り上げた幕府への宣戦布告だったと言えます。

軍資金もなく、兵力も少数であった官軍にとっては一か八かのギャンブル的な宣言で、幕府軍が恭順を示さず全力で立ち向かっていたら勝敗は分からないところまでもつれていたはずです。

岩倉具視の強引的手法ではあったにせよ、思いきった決断が官軍を勝利に導き、近代日本の扉を開いたといえます。

王政復古の大号令は大政奉還後の平和的政権交代の流れから武力倒幕へと大きく舵を切ることになった、エポックメイキング的な出来事だったのです。

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