禁門の変(蛤御門の変)とは?場所や新撰組との関係についてわかりやすく解説!

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元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都では約250年振りに鉄砲の玉が飛び、街並みも大火に見舞われました。いわゆる、禁門の変(きんもんのへん)、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)と呼ばれる戦闘が起こったためです。

薩摩、会津、桑名の諸藩に新撰組なども加わった公武合体派連合軍と長州及び諸藩浪士とが京都御所の九つの御門周辺で両軍あわせて戦死者450名余り負傷者多数を出す激戦を繰り広げました。

何故、天皇のお膝元である京都御所周辺でこのような戦闘が行われることになったのでしょうか?

禁門の変の前年1863年に起こった八月十八日の政変まで遡り、起こった原因や場所、新撰組との関係などについて詳細に解説します。

禁門の変が起こった経緯・八月十八日の政変

文久3年(1863年)ごろ尊王攘夷運動は最高潮を迎えており、朝廷では三条実美(さんじょうさねとみ)や姉小路公知(あねがこうじきんとも)ら急進派が実権を握ります。

洛中では攘夷志士が「天誅」と称した殺戮を繰り返し、長州藩の攘夷勢力は5月10日には攘夷を決行することを第14代将軍徳川家茂に約束させ、その日には長州藩が下関でアメリカ商船に砲撃を加えます。

しかし、長州藩以外の諸藩は攘夷決起をすることもなく徳川家茂も江戸へ戻ってしまい、攘夷決行は長州の独り善がりとなります。

 

薩摩が会津と協力し、長州追い出しへ

これを打開するために長州藩や攘夷浪士は孝明天皇による攘夷親征の大和行幸(やまとこうぎょう)を企てます。

しかし、鳥取藩主・池田 慶徳(いけだよしのり)らの反対や孝明天皇自らが攘夷急進派の台頭を嫌っており、三条実美らの排除を薩摩藩に期待するものの薩英戦争による緊張状態にあった薩摩の動きは鈍かったのでした。

8月13日に大和行幸の詔がついに発せられますが、遂に薩摩藩が動き攘夷急進派の長州藩を抑えるために公武合体派の会津藩と手を組み、中川宮朝彦親王を擁して攘夷派一掃を計画し、これに淀藩・徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩らが協力します。

 

八月十八日の政変で長州が京都から追放される

文久3年8月18日(1863年9月30日)公武合体派の中川宮、会津藩主・松平容保、右大臣・二条 斉敬(にじょうなりゆき)らが参内し三条実美ら急進派の公卿に禁足、面会禁止の処分が課され、薩摩藩、会津藩らの藩兵によって御所の御門が封鎖されました。

そして、御所での会議によって長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)や三条実美らに謹慎、京都追放の処分が下され、長州藩兵約一千とともに長州へと下ります。

これを八月十八日の政変といいます。

 

禁門の変が起こった経緯・池田屋事件

八月十八日の政変で京都での政治的主導権を失った長州藩でしたが、攘夷浪士は大阪や京都に数多く留まっており、朝廷の変わらぬ攘夷姿勢や水戸藩攘夷派の天狗党の乱などによって、畿内の攘夷派に長州藩の京都政局復帰論が起こります。

長州藩内でも武力をもって藩主の無実を晴らす「進発論」が議論されるようになり、慎重派の高杉晋作や桂小五郎らを、強硬派の来島又兵衛らが抑えて視察名目で京都へ入り軍備を整えます。

公武合体派の参預会議(さんよかいぎ)が不調に終わり、諸侯の多くが去ったことより京都に政治的空白が生まれ、これに乗じて洛中に火を放って松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させるという攘夷志士たちの計画が動き出しました。

これを事前に察知した新撰組は攘夷志士が集まる池田屋を襲撃。9名を討ち取り4名捕縛、この後の掃討戦でも20名余りの攘夷志士が捕縛されました。(池田屋事件)

この報を受けた長州藩では一気に「進発論」強硬派が優位となり、福原元僴(ふくばらもとたけ)や益田親施(ますだちかのぶ)、国司親相(くにしちかすけ)の三家老に率いられた藩兵が京へ向かいます。

新撰組の池田襲撃、いわゆる池田屋事件によって「進発論」の慎重派と強硬派のバランスが崩れ一気に戦雲が立ち込めて来ることとなったのです。

禁門の変の始まりと起こった場所

長州から出陣した三家老率いる部隊は、山崎天王山、嵯峨天龍寺、伏見長州屋敷に参集し、御所を遠巻きにして包囲します。

長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんずい)は失地回復の嘆願書を朝廷に提出、有栖川宮や中山忠能は長州軍の入京と松平容保の追放を訴えますが、薩摩や土佐、久留米藩などの代表は入京拒否の建白書を提出、御所内は緊迫に包まれます。

その間、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)・一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)は長州藩兵への退去を呼び掛けますが、孝明天皇は会津擁護の姿勢を貫き、長州討伐を命じました。

久坂玄瑞は退去命令に従おうとしますが、来島又兵衛、真木保臣(和泉)ら抗戦派に押しきられ、遂に開戦に踏み切ることになります。

御所の西にある蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が激突し戦闘が勃発、長州の福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門(なかだちうりもん)を突破して御所内に突入しますが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると一気に劣勢となり、胸を撃ち抜かれた来島又兵衛は自決しました。

会津、桑名軍と長州軍が最初に衝突したのが蛤御門であったため、「禁裏の御門」すなわち禁門の変または蛤御門の変と呼ばれています。

 

禁門の変の戦闘と久坂玄瑞の死

開戦に遅れた真木保臣と久坂玄瑞が戦地に到着したときにはすでに来島は自害しており、戦線も壊滅状態でした。

二人は残った勢力を糾合して堺御門を攻撃しましたが越前藩兵に阻まれ、事ここに破れた久坂玄瑞は寺島忠三郎らとともに鷹司邸で自決、真木保臣は敗残兵とともに御所を脱出しましたが、兵を落ち延びさせると天王山に籠城し攻撃の手が迫ると火薬に火を放って自爆しました。

 

禁門の変における新撰組

2017年に京都市南区の国登録有形文化財「長谷川家住宅」で禁門の変に新撰組が参戦していたと書かれた日記が発見されました。

この日記は当時の当主、長谷川軍記が書いたもので、当時の京都の南の入り口であった東九条村の農家に1ヶ月前から壬生浪士組(新撰組)が宿泊しており、この地で長州軍と鉄砲の撃ち合いとなり、これを撃退したと記されています。

これまで新撰組と禁門の変の関わりは不明瞭な事が多く謎とされていましたが、この日記によって禁門の変に新撰組は参戦しており、御所の南の守護に当たっていたことが判明しました。

また、天王山に立て籠る真木保臣を攻めたのも新撰組とされており、禁門の変でも新撰組は相当な活躍をしていたようです。

 

禁門の変のその後

禁門の変で藩士及び遊軍の攘夷志士400の命を失い惨敗した長州藩は、御所に対する発砲と藩主自らが認めた軍令状が発見されことにより朝敵とされ、藩主・毛利慶親(もうりよしちか)の追討令が出されました。

これが翌元治2年(1864年)に将軍家茂の進発に始まる第一次長州征伐へと繋がり、1866年の10月に第二次長州征伐の幕軍が撤退するまでの約2年間、長州にとっては暗黒の時代となります。

この禁門の変以降、長州藩士のすべてはは草履や下駄に「薩賊会奸(さつぞくあいかん、さつぞくかいかん)」と書き、踏みつけて歩いたと言われています。

禁門の変はそれほどに長州が薩摩と会津を憎んだという因縁をもたらした戦争だったのです。