会津藩とは?藩士・藩主・家老、家紋や悲劇などについてその歴史を解説!

会津藩の中心であった会津若松は戦国大名・芦名(あしな)氏が拠点とした黒川城が繁栄して奥州最大の都市となり、ここを本拠とした会津松平氏第9代当主・松平容保(まつだいらかたもり)が幕末に京都守護職に任命されてから歴史の表舞台に登場。

戊辰戦争での白虎隊の飯盛山での自刃や城下での婦女子の自害など多くの命が散り、明治新政府誕生の最大の悲劇の地となりました。

今回は幕末に徳川幕府側勢力の中で官軍から最大の敵と考えられた会津藩について、藩士・藩主・家老、家紋や悲劇などにスポットを当ててみたいと思います。

会津藩の詳細な場所と歴史

幕末の会津藩の領地は現在の福島県西部を中心にして、これに接する新潟県と栃木県の一部を加えた表高23万石、藩庁は若松城(会津若松市、別名鶴ヶ城)でした。

この会津若松は戦国大名・芦名氏が若松城の前身、黒川城を拠点にしたことですが、芦名氏は伊達政宗(だてまさむね)に滅ぼされ、伊達政宗も豊臣秀吉に会津を取り上げられたため、ここには蒲生氏郷(がもううじさと)が入封しました。蒲生氏が御家騒動で減封されると上杉景勝(うえすぎかげかつ)が転封してきます。

上杉景勝が関ヶ原の戦いに敗れ、米沢に退くと再び蒲生氏に戻されますが、蒲生氏が断絶、改易となったあとは加藤嘉明(かとうよしあき)が入部しました。

しかし加藤氏も御家騒動で改易となり、1643年、会津松平氏の祖となる保科正之(ほしなまさゆき)が入封し会津藩23万石が誕生します。

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松平容保以下、会津藩士が徳川家に殉じた理由

会津藩の藩祖となった保科正之は徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の四男でしたが、長く出生が秘匿されており、甲斐武田氏の家臣であった保科氏の養子となっていました。

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のちに3代将軍となる徳川家光(とくがわいえみつ)は正之の存在を知ると、この弟を可愛がり、高遠藩3万石から山形藩20万石へ、そして会津藩23万石へと引き立てて行きます。

家光は臨終の間際に保科正之を枕元に呼んで「徳川宗家を頼む」と言い残します。

これに感激した正之は「会津家訓十五箇条」を定めたとき、第一条に「会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣はこれに従ってはならない」と定め、これが幕末まで土津公(はにつこう・保科正之の神号)遺訓として残り、松平容保以下会津藩士はこれに殉じたのでした。

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会津藩の家格、家紋

藩祖・保科正之は将軍の弟であったにも関わらず、生涯養父・保科正光(ほしなまさみつ)の恩を忘れず保科姓を変えることはありませんでした。

会津藩3代藩主となった正之の六男・正容(まさかた)がはじめて松平姓を名乗り、三つ葉葵の紋の使用を許され徳川一門の仲間入りを果たします。

会津藩主は肥後守(ひごのかみ)兼左近衛権中将(さこんえのごんのちゅうじょう)を代々官位として受け継いだため、松平容保も会津中将と呼ばれました。

使用した家紋は当然、葵の御紋ですが会津松平家では徳川宗家、徳川御三家とは違う、一般には会津三葵と呼ばれる家紋で、幕末の徳川宗家が葵の葉の芯が13本の図案を使用したのに対して、会津三葵は21本の図案を使用し、宗家との差別化を図っていました。

 

歴史上有名な会津藩出身者

松平容保(まつだいらかたもり)

会津藩9代藩主、幕末の京都が無法地帯と化した時に京都守護職を引き受け、尊皇攘夷、武力討幕派から朝敵とされ、その憎悪を一身に浴びることとなった悲劇の大名。

明治維新後も生き残り、日光東照宮の宮司にも就任しました。

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西郷頼母(さいごうたのも)

会津松平家筆頭家老、藩主と同じ保科氏を先祖に持つ会津藩では名門の家柄出身。

容保の京都守護職就任に反対し、その後も京都での会津藩の責務に関しても否定的な意見を進言し続けたため家老職を解任、会津戦争時に家老職に復帰するも新政府への恭順の姿勢を崩さず、藩内で孤立し戦時途中で城を脱出、天寿を全うします。

 

萱野長修(かやのながはる・権兵衛)

会津藩家臣団の中でも名門の家柄で父の代から家老職を勤めており、本人も家老職に就いていました。

容保の側近として鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に従軍、会津戦争でも活躍します。

敗戦開城後は容保を庇い、戦争責任は家臣上席三人の切腹となりますが、萱野より上席の3名不在(西郷頼母は行方不明、神保内蔵助は自刃など)のため、萱野が全ての責任を一人で背負い切腹しました。

 

佐川勘兵衛(さがわかんべえ)

会津藩士。

容保に従って上洛し物頭に就任、鳥羽伏見の戦いの後は北越戦争に出陣するも戦況が不利になり会津に帰還、若年寄から家老へと昇進、精鋭部隊の指揮官として活躍します。

敗戦後は東京で謹慎、政府の要請で警視庁に出仕し一等大警部に任命され、西南戦争に従軍、被弾して戦死しました。

会津藩、会津戦争の悲劇

会津戦争は奥羽先鋒総督府下参謀であった世良修蔵(せらしゅうぞう)の傲慢な態度に激昂した仙台藩士が、世良を暗殺したことをきっかけに奥羽越列藩同盟が徹底抗戦を唱え戦端が開かれます。

この会津戦争の中で多くの若い命が散っていきました。

藩兵のほとんどが白河口へ出撃していた二本松藩の隙を突いて二本松城を政府軍が攻撃、わずかに残った兵のみで応戦したため動員されていた少年兵もこの戦闘に巻き込まれ12歳から17歳の多くの若者が戦死し、特に木村銃太郎(きむらじゅうたろう)が率いたのちに二本松少年隊と呼ばれた20名は攻城戦の最中に政府軍の銃弾に倒れました。

また若松城下でも予想以上に早い政府軍の侵攻に予備兵力である白虎隊などの少年部隊を出動させますが敢えなく惨敗、籠城戦の足手まといとなるのを怖れた城下の婦女子が家屋に火を放って自害、この火災をみた白虎隊は若松城落城と勘違いして自刃してしまいます。

会津戦争に参戦した奥羽越列藩同盟の兵数は一万足らずでしたが、その約3割がこの戦いで命を落としました。

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会津藩の選択

多くの藩士を失い、非戦闘員である城下に住む藩士の家族までも巻き込んでしまった会津戦争は、会津藩を含む奥羽越列藩同盟の惨敗で終戦します。

松平容保は生き延び、また徳川宗家の慶喜も生き延びて静岡で謹慎生活を送ります。

徳川幕府に殉じた多くの藩士や志士が倒れていくなかで、なぜ慶喜も容保も降伏の時期を誤ったのでしょうか?

白虎隊にも所属しのちに東京大学総長にもなった山川健次郎(やまかわけんじろう)が書き残した文献の中で、松平容保は幕府に対する忠誠心は厚かったが会津藩の軍備や軍制は時代遅れで容保自身の状況判断能力や情報収集力の欠如も会津戦争の被害を大きくしたと述べています。

主戦派を抑えきれず平和恭順を唱える家臣を遠ざけ、硬直した人事で領民との乖離も大きく藩自体がバラバラに行動している状態では戦争どころではなかったと分析し、少なくとも鳥羽伏見の戦い直後、江戸無血開城直後に恭順派の意見を聞き入れていれば、会津藩の悲劇はなかったのではないかと書いています。

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会津藩の悲劇と松平容保の決断

会津戦争に突入したときの松平容保の立場や心情は誰にも理解できるものではないのでしょうが、京都守護職の就任要請を固辞し続けたのを土津公の遺訓を持ち出され引き受けてしまった最初のボタンの掛け違えが全ての悲劇を呼び込んでしまうとは、その時の松平容保も思ってもみなかったことてしょう。

会津戦争は人の上に立つ人物がひとつの決断をする重大さを教える歴史の教訓だと言えるのではないでしょうか。