保科正之とは?家系図や子孫、名言や大河ドラマなどについて解説!

学校の日本史の教科書にその名前が出てくることはありませんが、血筋のよさ、見識の高さ、藩主として見せた行政手腕の見事さ、江戸幕府3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の死後からは大政参与(たいせいさんよ・将軍代理)として徳川幕府の屋台骨を支えた日本史上屈指の名君と讃えられている保科正之(ほしなまさゆき)

彼の存在が徳川幕府をして約270年にも及ぶ長期政権となった基礎を築き上げ、徳川幕府の終焉を飾ることになった会津戦争を引き起こした原因となりました。

保科正之の人生を学ぶことで幕末の何が見えるのか、子孫の存在や家系図、彼の遺した名言、大河ドラマなどを参考にして探っていきたいと思います。

実は将軍家御落胤だった保科正之

慶長16年(1611年)5月7日、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の四男として誕生しますが、母親の身分が低かったため(大工の娘または秀忠の乳母の侍女など諸説あり)、秀忠の継室・江与(おえよ)の方に遠慮してこれを隠し、この秘密を知るのは秀忠の側近である老中・土井利勝(どいとしかつ)、井上正就(いのうえまさなり)など数名だったと伝えられています。

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6歳の時、旧甲斐武田氏の家臣であった信濃高遠(現在の長野県伊那市)藩主・保科正光(ほしなまさみつ)に預けられたのちに正式な養子となります。

お忍びで目黒の成就院(じょうじゅいん、通称・たこ薬師)に出向いた徳川家光はここの住職に保科正之の存在をはじめて知らされ、秀忠の死後は正之を可愛がり相当に目をかけたと言われています。

また次兄になる駿河大納言・忠長とも対面し、祖父に当たる徳川家康(とくがわいえやす)の遺品を授けられました。

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会津中将・保科正之誕生

20歳の時に養父・正光のあとを継いで高遠藩3万石藩主となり、左近衛中将兼肥後守に叙任されます。

兄である3代将軍・家光は正之の才能と勤勉さを愛し、25歳の時に出羽山形藩20万石を授けます。

隣国の白岩領主酒井忠重(さかいただしげ)が改易となり、領地が正之の山形藩に預けられますが、この領地の年貢米が隣の庄内藩に送られていることが百姓の告発で発覚したため、正之はこれを調査し首謀者らを捕縛して処刑しました。

公正な判断と迅速な行動力で藩内を統治した正之はその能力が認められ、32歳で会津藩23万石の大大名へ取り立てられ、この頃から会津中将と呼ばれるようになります。

 

徳川宗家の藩屏としての会津藩

慶応4年(1651年)に病の床に伏した3代将軍・家光は枕元に保科正之を呼び寄せ、何度も「徳川宗家を頼む」と手を握りしめて頼んだと言います。

兄である将軍家からの懇願に感銘した正之は隠居する前の年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」としました。

正之以降の藩主はもちろん、家臣の全てが忠実にこの家訓を守ったため、会津藩9代藩主・松平容保は最後まで徳川幕府を擁護し続け、薩摩や長州と戦い続けることになります。

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保科正之の血筋とその子孫

祖父に徳川家康、父が徳川秀忠、兄が徳川家光と3人の徳川将軍直系の血筋を持つ保科正之ですが、その子供たちや子孫はどうなっていったのでしょうか?

正之の長男は早世したため次男・正頼(まさより)が世嗣となりました。

しかし正頼は跡を継ぐことなく弱冠18歳で病死してしまい、2代目は四男・正経(まさつね)が継ぎましたが男子を授かることはなく、正之の六男・正容(まさかた)が養嗣子となり3代目の家督を継ぎます。

正之は養父である保科正光(ほしなまさみつ)への恩義から幕府から勧められた松平姓を名乗ることは辞退しており、2代・正経もこれに習いましたが、3代・正容になってから松平姓を名乗るようになり、三つ葉葵御紋を使用して会津藩は御親藩(御一門)となりました。

その後も幕末まで領地も変わることなく保科正之の子孫によって会津藩は統治されました。

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保科正之の名言

保科正之の名言と言えば土津公(はにつこう)遺訓とも言われる「会津家訓十五箇条」がまずは思い付きますが、それ以外にも現代の国会議員をはじめとする政治家の皆様に聞かせたい言葉を残しています。

 

名言①

財を用に施すになんでためらうか 

必要なお金を使うときにためらう必要などはない、という意味ですが、これは普段から必要でない事にはお金を使わず倹約し、必要なことができたら惜しむことなくお金を投入せよと言うことです。

 

名言②

政事は利害を以て道理をまぐべからず

政治の協議機関では私利私欲をむき出しにして、他人の意見を聞き入れないような話し合いはすべきではない、という意味ですが、贈収賄事件で逮捕される政治家や公務員の人には耳の痛い言葉ではないでしょうか。

大河ドラマや時代劇で描かれる保科正之

保科正之は過去にも大河ドラマや時代劇に登場しています。

2000年の大河ドラマ、津川雅彦が徳川家康、西田敏行が徳川秀忠を演じた『葵 徳川三代』に浜田学が演じた保科正之が登場しますが、中心があくまでも家光の弟の立場で描かれたため、後世に伝えられる保科正之像は思い描けません。

現代に伝えられる保科正之のイメージで描かれている作品と言えば1980年の千葉真一主演「服部半蔵 影の軍団」(関西テレビ・東映制作)ではないでしょうか。

この作品の中で幕府と幼君・家綱を守るために、あらゆる策を練り、必要であれば味方も裏切る冷酷さも見せながら、最後には優しさも見せる保科正之を山村聰が演じて高視聴率をマークしました。

 

保科正之が遺したもの

正之は幕府内では大政参与として文治政治を推し進め、末期養子を容認し大名の取り潰しを減らし、また先君に対する殉死を厳しく禁じて後世に有能な人材を残し、玉川上水を整備し江戸市民の飲料水を確保するなど多くの功績を残します。

また、平和な江戸時代に天守は不要として焼失した江戸城天守閣の再建を中止し、余剰になった予算を江戸の街の火災対策に当て、神田川の拡張や主要道路の拡張を行いました。

また倹約にも務めて幕府の財政は健全な状態でした。

この保科正之の教訓を受けた若き幕閣(酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)も福祉政策・災害救済対策・都市整備などに対して重点的に財政を投資し、江戸幕府初期の基盤を固めていきました。

会津藩の政治に関しても善政を行ったため、保科正之の遺訓幕末まで忠実に守り通され、会津戦争では婦女、少年兵に至るまで武士階級のものは徹底抗戦を行うこととなります。

これは保科正之の遺した教訓が、保科正之の人物評価と同様に200年以上も先までその威光を保ち続け、整然とした威厳を保ち続けていたからこそではないでしょうか。