徳川家康について!死因・性格・年表、名言や家系図などその生涯を解説!

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戦国三英傑の一人に数えられ名実ともに天下人となり、江戸幕府を開き以後260年以上の長期政権の礎を造ったのが徳川家康です。

幼少より苦労を重ね、人一倍健康に気を遣った徳川家康ですが、どのように戦乱を生き、どのような性格だったのでしょうか。

また、現代では徳川家康は鯛の天ぷらで亡くなったと言われていますが、詳しい死因やの真実や、徳川家康の残した名言や辞世の句なども紹介しながら、人生年表を合わせて振り返り、家系図から歴代の子孫も紹介して説明していきたいと思います。

徳川家康の生い立ちと人質生活

徳川家康は三河国の小大名・松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として天文11年(1543年)に生まれました。

竹千代(徳川家康)6歳の時に今川に人質に出されますが、今川に行く途中に織田方に囚われ、その後2年間、安祥城で織田の人質として暮らします。

人質として2年が過ぎた頃、徳川家康の父・広忠は家臣の謀反で殺害され、今川義元(いまがわよしもと)と織田信秀(おだのぶひで)との捕虜交換協定で徳川家康は今川に取り返されました。

 

今川義元への元服と清州同盟

徳川家康は今川義元の元で元服、16歳の時に今川義元の姪である瀬名姫・築山御前と結婚し、初陣も飾って着々と武功を重ねていきました。そんな中、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたのです。

一度は自害も考えた徳川家康ですが、故郷の岡崎城に入城して今川から自立する道を選びました。

ここから、徳川家康は独自で織田、今川と対峙していくのですが、先に今川を見限った伯父・水野信元(みずののぶもと)の仲介もあり、織田信長(おだのぶなが)と同盟を結びます。(清洲同盟)

 

武田信玄との攻防

一時同盟関係にあった武田信玄(たけだしんげん)が、今川の領国・駿河に侵入したのを機に、徳川家康は今川氏真(いまがわうじざね)を攻め遠江を占領しました。

また、金ヶ崎の戦いに参戦し織田信長を助け、朝倉・浅井連合軍との姉川の戦いでも活躍します。

この頃になると織田信長は武田信玄との同盟も解消、織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)とも反目しますが、徳川家康は織田信長に同調して同盟を維持しました。

こうして徳川家康は織田信長のために武田信玄の西上を防ぐ役割を担い、一時は単独で応戦し大きな犠牲を払い、結局三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗するのです。

万事休すという所で翌年、武田信玄が病死。この武田信玄の死は織田信長、徳川家康の勢力を復活させ、天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田勝頼(たけだかつより)を大敗に追い込みました。

 

武田氏滅亡

天正10年(1582年)織田、徳川共同で推し進めた武田攻略作戦では駿河方面を分担し、ついに武田勝頼を自刃に追い込み武田氏を滅亡させ、徳川家康も恩賞として駿河一国を手に入れ三国の大名となりました。

 

正室、息子を手にかける

実はこの頃、徳川家康は息子である信康(のぶやす)と、正室で信康の母である築山御前を切腹、処刑しているのです。

この事件は武田と内通している事を理由に織田信長に命令されたと言われていましたが、現在では信康と不仲であった家康自らの判断だったという説が主流になりつつあります。

本能寺の変

織田信長の天下統一が実現すると思っていた矢先、織田信長が本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)の謀反により自刃。

当時、摂津の堺にいた徳川家康は一報を聞いて命からがらから伊賀越えをして三河へと脱出しました。

その後、織田家の相続の混乱の中、徳川家康は北条氏、上杉氏と対峙、北条氏との和睦に成功し甲斐・信濃・駿河・遠江・三河5ヵ国を領有する大大名となったのです。

 

豊臣家との対立と幕府成立

織田家の混乱は信長の孫・三法師で決着し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)(とよとみひでよし)が台頭、豊臣秀吉は信長次男・織田信雄(おだのぶかつ)と手を結び、柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳の戦いで破り影響力を強固なものとし、時代は豊臣秀吉へと移っていきます。

豊臣秀吉と対立した信長次男・織田信雄の要請を受けて徳川家康は尾張に出陣し直接対決となりましたが結局和睦します。(小牧・長久手の戦)

その後、豊臣秀吉は勢力を拡大し関白に就任して豊臣政権が確立すると、ついに徳川家康も大阪へ伺候して臣従するのです。

徳川家康に対して豊臣秀吉は妹を正室として、母を人質として差し出すなど丁重に対応し、家康も次男・秀康を養子に出しました。

以後、徳川家康は豊臣政権で北条氏が滅びると豊臣秀吉の移封命令に従い、江戸城を居城とし豊臣政権下で最大の大名となり五大老の筆頭として活躍します。

 

天下分け目の関ケ原の合戦

時を経て豊臣秀吉が豊臣秀頼(とよとみひでより)を残して死没、秀吉の求心力と才覚で維持していた豊臣政権に陰りが見え始めます。

徳川家康は五大老の筆頭として、豊臣秀吉から豊臣秀頼を託されるものの、天下を取る最後とばかりに遺言も取り決めも無視、勢力拡大に権勢を振るいながら自らの味方を増やしていったのです。

そうした徳川家康の動きに反発した五奉行筆頭の石田三成ら西軍と、徳川家康はついに関ヶ原で戦う事となり(関ヶ原の戦い)、勝利。豊臣家を凌ぐほどへと飛躍しました。

 

豊臣家を滅ぼし徳川幕府の礎を築く

関ヶ原で勝利し、実質天下人となった徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。

2年後には自ら大御所となり駿府に退き、将軍職を息子・徳川秀忠(とくがわひでただ)に譲ります。

残すは豊臣家を掌握するのみとなり、慶長20年(1615年)ついに大坂の夏の陣で豊臣秀頼、淀君親子を自刃させ豊臣家を滅ぼしたのです。

豊臣家を滅ぼした後、京都に滞在した徳川家康は「禁中並公家諸法度」「武家諸法度」「一国一城令」などを制定したのち駿府に帰り、元和2年(1616年)75歳で亡くなりました。

 

死因

徳川家康の死因は「鯛の天ぷら」を食べたことによる食あたりとされています。

しかし、この「鯛の天ぷら」は体調を崩した徳川家康への見舞いと、正月を兼ねた献上品で南蛮漬けだったとも、すり身の天ぷら(さつま揚げ)だったとも言われ、食べてから4か月ほどしてからの死亡なので「食あたり」というのは無理があるようです。

実際は死ぬ数か月前から、かなりゲッソリと痩せ吐血や嘔吐、腹痛と腹部のしこりがあったとされるので「胃がん」と言われています。

性格

徳川家康という人物は長い間人質として過ごし、質素倹約に努め、長生きするのが一番得をすることを戦乱の世で学び、健康には誰よりも気をつけていました。

また、徳川家康は人生で一度大敗をしています。

武田軍に負け敗走しながら脱糞してしまったと言われる三方ヶ原の戦いでは、戦後に悔しがる自分の肖像画(顰像(しかみ像))を描かせ生涯教訓にしたと言います。

徳川家康の性格を一言で表すと「辛抱が強く・周到で抜け目がなく・経験から学ぶことのできる謙虚な心を持った古狸(知恵者)」と言った所でしょうか。

 

名言

東照大権現様御遺訓とされている言葉が以下の通りです。

人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

 不自由を常と思へば不足なし。心に望みおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。

 堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。

 勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に到る。

 おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。 

ただし、この言葉は日光東照宮にある立て看板にも書かれていますが、書籍版の東照大権現様御遺訓の中に見当たりません。

この名言は徳川家康のものではないと言われていて、徳川美術館館長・徳川義宣氏の研究成果として、水戸黄門で有名な水戸光圀作であるとされています。

 

徳川家康の辞世の句

徳川家康の辞世の句は2つほどあることがわかっています。

 

辞世の句①

先に行く 後に残るも 同じこと 連れてゆけぬを わかれぞと思う。 

【意味】先に逝くが残るものもいずれは死ぬ、道連れにはしないここで別れるのだ。

この句は殉死を戒めるものだと推測されます。

 

辞世の句②

嬉やと 再び醒めて一眠り 浮世の夢は 暁の空。

【意味】うれしいかな、最後かと目を閉じたが、又目が覚めた。この世で見る夢は夜明けの暁の空のようだ。もう一眠りするとしようか。

 

子孫・家系図

徳川家康は当時としては長生きで妻・側室も多く子も沢山いました。子孫は現代人も知っての通り徳川264年と言う長い政権を担い、代々徳川将軍として君臨しました。

今回は徳川家康から始まる征夷大将軍を収めた子孫にスポットを当てて紹介していきたいと思います。

 

第2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)

徳川家康の三男、浅井三姉妹の末娘「江」を娶っています。政治手腕はなかなかのものだったようです。

 

第3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)

「生まれながらに将軍である」という言葉で有名で、参勤交代や鎖国を完成させました。歴代将軍の中で唯一の将軍正室が産んだ子供です。

 

第4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)

徳川家光の長男、大火の後、両国橋を作り土俵も作ったことから相撲文化が発展し、相撲の父とよばれています。

 

第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)

徳川家光の四男、生類憐みの令を発令、能狂と呼ばれるほど能を愛しました。

 

第6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)

徳川家光の孫、生類憐みの令を廃止し政務に熱心な真面目な人物でした。

 

第7代将軍・徳川家継(とくがわいえつぐ)

徳川家宣の四男、史上最年少の征夷大将軍で就任は4歳。8歳で亡くなりました。

 

第8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)

徳川御三家の紀州藩・徳川光貞の四男、御三家出身で初めて養子として宗家を相続しました。幕府の財政を建て直し、倹約を奨励、目安箱を設置するなど享保の改革で有名です。

 

第9代将軍:徳川家重(とくがわいえしげ)

徳川吉宗の長男、虚弱で言語障害がありかなりの頻尿だったようです。

 

・第10代将軍:徳川家治(とくがわいえはる)

徳川家重の子、幼い頃より聡明で祖父・吉宗に期待され帝王学や武術を直接学び寵愛されたといいます。将棋をこよなく愛したようです。

 

第11代将軍:徳川家斉(とくがわいえなり)

御三卿一橋家の当主・一橋治済の長男、将軍在職50年と歴代将軍の中で最長。妻妾を16人持った色好みで「オットセイ将軍」などと呼ばれました。

 

第12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)

徳川家斉の次男、口癖が「そうせい」(そうしなさい)それしか言わないので「そうせい様」と呼ばれたそうです。

 

第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)

徳川家慶の四男、天璋院・篤姫の夫で有名。病弱で早世でしたが菓子つくりが趣味でカステラなどを焼いて近臣に振る舞ったりしました。

 

第14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)

徳川家茂は徳川御三家紀州藩の藩主でしたが、徳川家定に子が無かったため14代将軍になりました。幕末の動乱に人生を翻弄され21歳の若さで亡くなりました。

 

第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

第9代藩主・徳川斉昭の七男、大政奉還、江戸城引渡しなど言わずと知れた徳川家最後の将軍です。

 

年表

最後に、徳川家康の人生をまとめた年表を紹介します。

1542年 三河国、岡崎城で誕生

1547年 織田家の人質になる。

1548年 人質交換により今川義元の人質となる。

1557年 今川義元の姪、瀬名姫(築山御前)と結婚する。

1558年 初陣(寺部攻め)

1560年 今川義元が桶狭間の戦で討たれ、故郷の岡崎城に入城する。

1562年 織田信長と和睦し、同盟を結ぶ(清州同盟)

1566年 三河一向一揆を平定、姓を松平から徳川に改姓する。

1568年 武田信玄と同盟、今川家を攻め遠江国の大部分を獲得する。

1569年 掛川城の戦い、今川氏真を攻め事実上今川を滅ぼす。

1570年 近江国浜松城に居城を移す。姉川の戦いに参加、織田信長に功をたてる。

1572年 武田信玄の上洛戦である三方ヶ原の戦で大敗する。

1573年 宿敵・武田信玄が病死する。

1575年 武田勝頼を信長の協力のもと長篠の戦で破る。

1579年 正室・築山御前と嫡男・松平信康を暗殺・切腹させる。

1582年 本能寺の変で織田信長自刃を知り神君伊賀越えで無事難を逃れる。

1584年 豊臣秀吉と小牧・長久手で戦う。(小牧・長久手の戦い)結局和睦する。

1586年 関白となった豊臣秀吉の妹・旭姫と再婚する。

1586年 大阪城へ伺候し豊臣秀吉に臣従する。

1590年 小田原城攻めの後、豊臣秀吉から関東移封命令があり江戸城に入る。

1600年 豊臣秀吉死去後、石田三成ら西軍と関ヶ原で戦い勝利する。(関ヶ原の戦い)

1603年 江戸幕府を開き、征夷大将軍の宣旨を受ける。

1605年 徳川秀忠に征夷大将軍職を譲る。

1607年 大御所となり江戸城から駿河の国・駿府城に移る。

1614年 大阪冬の陣を起こし豊臣滅亡作戦を始める。

1615年 大阪夏の陣で豊臣秀頼と母・淀の方を自決させ豊臣家を滅ぼす。

1616年 徳川家康75歳で死去。