今川義元とは?息子・子孫・家系図、家紋や城について解説!

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戦国の奇襲として語り継がれる桶狭間の戦いで討ち取られ、織田信長(おだのぶなが)を語る上で外す事のできない存在である今川義元(いまがわよしもと)。

桶狭間の戦いであっけなく負けてしまった武将というイメージが定着していますが、戦国当時は「街道一の弓取り」と言われるほどの大大名でした。

桶狭間の戦いの後、武田信玄(たけだしんげん)に攻め込まれ焼失してしまった今川義元の城のその後や、今川家の家紋について、また家系図から徳川の世まで生き延びた嫡男やその後の子孫など、今回は今川義元の生涯を追いながら詳しく説明していきたいと思います。

生い立ち

今川義元は永正16年(1519年)足利将軍家を継ぐ資格を有する家柄である駿河・遠江守護・今川氏親(いまがわうじちか)の五男として生まれました。

今川義元が生まれた時には跡継ぎとして、今川義元と母を同じくする正室の子である嫡男・氏輝(うじてる)、次男・彦五郎(ひこごろう)がいたために、今川義元は4歳で仏門へ入ったのです。

今川義元には将来全盛期を支えてくれる存在となる、代々今川家の重臣で、僧侶である太原雪斎(たいげんせっさい)が教育係としてつき従うことになり、雪斎と共に建仁寺に入り得度し栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗り、僧侶として学識を広めていきました。

 

今川家の跡取りへ

今川家宗家の跡取りである長兄・氏輝、二男・彦五郎が相次いで病死したことから、今川宗家の継嗣問題が持ち上がり、長兄・二男と同じ正室の3番目の男子であり、父・氏親が2度も帰国を促すほど優秀であったなど、幾多の事柄が重なり、 家臣達から還俗を請われました。

本流である征夷大将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の諱の1字を賜り、義元と名乗り家督を継承します。

 

家督継承と内乱

戦乱の世は嫡流や大義があっても家督継承をスムーズに行うことは難しかったようで、今川義元の家督継承も平穏には進みませんでした。

今川家重臣・福嶋(くしま)氏が家督相続に反対、今川義元の異母兄で庶出の玄広恵探(げんこうえたん)を擁して内乱となります。(花倉の乱)

この内乱はなかなかに苦戦しましたが、今川義元は後北条氏の支援を取り付けるなどし勝利して内乱を鎮め、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えました。

領国拡大

今川家は元々北条家とは友好関係で、その北条家と武田家は犬猿の仲でした。そんな中で、今川家当主となった今川義元の右腕となっていた太原雪斎は外交革新に着手します。

まず武田家との関係強化を図り、武田家と婚戚関係となり「甲駿同盟」を結んだのです。

無論この事で北条氏との関係は悪化し、北条氏綱(ほうじょううじつな)と抗争になりました。(河東一乱)

しかし、最終的には太原雪斎が執り成し、今川義元の嫡男・今川氏真(いまがわうじざね)と北条氏康(ほうじょううじやす)の娘を縁組させました。

これにより、武田家と北条家もまた婚戚関係として、3家の大大名が婚戚関係となる戦国の時代、もっとも大きく強大な同盟関係を成立させることに成功します。(甲相駿同盟)

また、甲相駿同盟にいたる間にも三河の松平広忠(まつだいらひろただ)の帰順、その後の広忠の死により息子である人質・竹千代(後の徳川家康)の奪還などで実質的に三河の領地を所有し配下に収めていきました。

 

いよいよ西国尾張へ進出

今川義元は早々に隠居して嫡男・氏真に家督継承し、強大な3国同盟により背後の憂いが無くなり、心おきなく新領地である三河の統治経営に集中します。

また三河・尾張の国境で再三織田家と争い、尾張東南一帯を手に入れました。

追々上洛するためにも尾張一国ごと欲した今川義元は、家督争いを経て尾張平定を果たしたばかの織田信長(おだのぶなが)を本腰を入れて攻めることにしたのです。

 

桶狭間の戦い

意気揚々と2万とも4万とも言われた大軍を引き連れ尾張に侵攻した今川義元ですが、まさかの事態に陥ります。

大高城周辺の織田方の砦を味方にいくつか落とさせた報告を聞き、幸先良く沓掛城を出て桶狭間山で5000人ほどの本陣のみで休息を取っていたその時、雷雨と共に攻め込んできた織田信長指揮する先鋭部隊(およそ2000人)に急襲され、今川義元は僅かな親衛隊までに追い詰められ自ら太刀を振るいましたが、力およばず討ち取られたのです。(桶狭間の戦い)

今川義元が居住した城は「今川館」と呼ばれ、現在の静岡県静岡市葵区駿府城公園にありましたが、今川義元亡き後、武田信玄に攻め込まれ焼失しました。

その後徳川家康の領地となり、駿府城が築城され、幕末まで徳川の管轄の元存在したのです。

現在は静岡県の所有として、戦後から復元、整備され駿府城公園として市民の憩いの場となっています。

 

家紋

今川義元の家紋は2つあり、一つは今川家に代々伝わる家紋、もう一つは馬印、旗印などに使用した家紋があります。ではそれぞれの家紋について説明していきたいと思います。

 

引両紋(りょうひきもん)

この紋は足利二つ引両、もしくは丸に二つ引などと称し、室町幕府を開いた足利将軍家の権威の象徴です。

今川家は足利家の分家筋にあたり足利一門という由緒ある家柄なので使用していました。

 

赤鳥紋(あかとりもん)

この紋は馬印や旗印として使用していたようで、赤鳥と言いますが鳥とは関係ありません。

今川氏の初代当主である今川範国(いまがわのりくに)の神託のお告げから、馬の鬣をすく櫛の垢取り、もしくは女性の髪をすく櫛の垢取りをモチーフにした家紋を用いるようになったと言われています。

 

子孫・家系図と息子の氏真

今川義元は、武田信虎(たけだのぶとら)の娘で正室・定恵院(じょうけいいん)との間に嫡男・氏真、一月長得と称した三男・長得(ちょうとく)、武田信玄(たけだしんげん)の嫡男・義信(よしのぶ)に嫁いだ嶺松院(れいしょういん)と隆福院(りゅうふくいん)という二人の娘を授かっています。

正室・定恵院亡き後、奥殿と呼ばれる継室を迎えたとされたり、井伊氏や四宮氏と言った側室がいたとされていますが、子供の存在は確認できません。

 

息子・氏真

今川義元亡き後、今川家は完全に滅亡したわけではなく、家督を継いだ氏真は助命され北条を頼った後に徳川家康に庇護され、徳川家高家として生き残り、4男1女の子を残し今川宗家の血筋は明治の23第・今川範叙(いまがわのりのぶ)まで続きました。

今川義元、氏真の血筋は明治で途絶えましたが、女系や妾系など今川の血筋は幅広く受け継がれているので現代でも多くの子孫が存在しているようです。