北条氏康とは?家臣や妻・瑞渓院、家系図や名言について解説!

北条氏康は戦国時代に活躍した相模国の戦国大名です。

後北条初代とされる北条早雲(伊勢宗瑞)の孫にあたり、後北条家第3代当主となりました。

その後、武田氏や上杉氏と対立を繰り返し、元亀2年(1571)10月3日に亡くなったとされています。

軍事面、政治面、経済面にも優れていたとされる北条氏康は北条5代(北条早雲、北条氏綱、北条氏政、北条氏直)の中でも1番の名君と評価されています。

そんな北条氏康の生涯や家臣、妻・瑞渓院や名言について解説していきます。

北条氏康の生い立ち

北条氏康は永正12年(1515)第2代当主・北条氏綱の嫡男として相模国で誕生しました。

家系図をたどると父の北条氏綱は後北条初代とされる北条早雲(伊勢宗瑞)の嫡男で、祖父・北条早雲が永正15年(1518)に隠居すると家督を継ぐこととなったとされています。

北条氏康が4歳の時、祖父・北条早雲が亡くなります。

その後、享禄2年(1529)年末になると15歳の北条氏康は元服を迎えました。

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初陣

初陣は享禄3年(1530)に起こった小沢原の戦い(上杉朝興対北条氏康)であり、この戦いにおいて北条氏康は大勝利を飾りました。

その後、天文4年(1535)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537)7月の河越城を攻略、天文7年(1538)の第一次国府台の戦いに出陣します。

 

第3代当主となる

天文10年(1541)になると、父・北条氏綱が亡くなったため、北条氏康は26歳で、家督を継ぎ第3代当主となりました。

 

河東一乱

天文14年(1545)駿河の今川義元は北条氏綱に奪われていた河東を奪還すべく、北条氏康に対し、関東管領で山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興の子)らを率いて挙兵します。

もともと河東は今川氏の所領でしたが、父・北条氏綱の代で奪われることとなり、その奪還のため今川義元は挙兵したのでした。

北条氏康勢は今川義元勢の攻撃を受けることとなり、危機的状況に陥ります。

そこで北条氏康は武田晴信の斡旋により、河東地域を割譲する条件として今川義元と和睦しました。

しかし後に結ばれることとなる甲相駿三国同盟まで今川氏と北条氏は緊張関係を保ったままであったとされています。

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河越夜戦

一方関東では、今川義元と手を結んでいた山内上杉憲政や扇谷上杉朝定、また北条氏康の義兄弟でもある足利晴氏が連合軍として義弟・北条綱成が守る河越城を包囲しました。

約8万の連合軍であったとされ、連合軍に包囲された河越城は約半年に渡る籠城戦を強いられることとなります。

北条氏康も関東へと向かい、応戦しますがへの数は少なく圧倒的に劣勢でした。

そのため、北条氏康は連合軍に対し「これまで奪った領土はお返しする」といった書状を送ると、信じきった連合軍に天文15年(1546)、河越城内にいる義弟・北条綱成と連携し夜襲を仕掛け、上杉朝定は戦死、扇谷上杉氏を滅亡に追い込みました。

この戦いで北条氏は大勝利を収めたため、北条氏康は関東における抗争の主導権を握りることとなります。

 

公事赦免令を発令

今川義元勢による河東の奪還や河越夜戦は北条氏の軍事面にとって危機的状況でした。

しかし、それだけでは終わらず、天文18年(1549)大地震が関東を襲います。

この地震によって領国の多くの農民が田畑を放棄し逃亡を図り「国中諸郡退転」という深刻な状況に陥ります。

このような状況に対し北条氏康は天文19年(1550)4月、税制改革や、賦役の廃止・免除、指定の債務を破棄するといった公事赦免令を発令しました。

 

上杉憲政による侵攻

天文19年(1550)北条氏康は上杉憲政の居城・平井城を攻めます。

翌年には平井城は攻め落とされ、上杉憲政は天文21年(1552)正月、越後守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)に保護されることとなりました。

翌年の天文21年(1552)7月になると、長尾景虎(後の上杉謙信)の支援を受けた上杉憲政が武蔵北部に入ります。

しかし、永禄3年(1560)まで上杉憲政は関東入りを果たせなかったとされ、弘治元年(1555)頃には北条氏に属すこととなりました。

弘治3年(1557)になると北条氏康は宇都宮家臣・芳賀高定の宇都宮城奪還に協力したとされ、その際、北条氏康は当主の壬生綱雄に対し旧宇都宮領を宇都宮氏に返すよう命じています。

このようなことから、当時北条氏康は関東において関東管領に匹敵するほどの権力を持っていたということが分かります。

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甲相駿三国同盟

今川義元と和睦していた北条氏康でしたが、和睦してもなお今川氏との緊張関係は続いたままであったとされ、そのため天文23年(1554)7月、今川義元の嫡男・今川氏真に娘・早川殿を嫁がせ、さらに12月には武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室を迎えることで武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意による甲相駿三国同盟が結ばれることとなります。

こうして甲相駿三国同盟を結んだことで、北条氏康は主に武田氏と連帯をとるようになり、関東での戦いに専念するようになりました。

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隠居

永禄2年(1559)、北条氏康は隠居し、家督を次男で長子である氏政に譲ります。

しかし、隠居後も北条氏康は小田原城本丸において、氏政の後見として政治・軍事の権力を握り続けました。

 

今川義元の戦死

永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死します。

そのため今川方の勢力は落ちる結果となりました。

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小田原城の戦い

今川義元が桶狭間の戦いで戦死したその年、上杉謙信が関東へと攻め込み、厩橋城・沼田城・岩下城・那波城を次々と落城させます。

これに対し、北条氏康は小田原城に入城し籠城の構えをとりました。

この戦いは小田原城の戦いと呼ばれ、同盟を結ぶ武田信玄の支援もあり、上杉軍に対抗することができましたが、北条軍、上杉軍ともに支配権を安定させるまでには至らず、一進一退の攻防が続くこととなりました。

 

第二次国府台の戦い

永禄7年(1564)になると里見義堯・義弘父子と上総国などの支配権を巡り対立します。

この戦いは第二次国府台の戦いと呼ばれ、北条氏康の勝利に終わりました

永禄9年(1566)以降になると、本格的に北条氏康は隠居生活を送ることとなったとされ、息子達の後方支援に専念するようになります。

 

甲相駿三国同盟の破棄

永禄11年(1568)同盟国であった武田信玄が、今川義元が戦死したことにより従来の外交方針を大きく変え、今川氏の領地である駿河に侵攻を行います。

これによって甲相駿三国同盟は破棄されることとなりました。

武田軍からの攻撃を受けた今川氏は武田軍に敗北する結果となります。

この武田氏と今川氏の対立において、北条氏は娘婿の今川氏真に味方する方針を固め、北条氏康と武田信玄は対立関係となりました。

 

上杉謙信と越相同盟を結ぶ

武田氏と対立する一方で、北条氏は北の上杉氏、東の里見氏とも対立していました。

西、北、東と敵勢力に囲まれた北条氏は、危機的状況を脱すべく上杉氏との同盟交渉を開始します。

こうして永禄11年(1569)、北条氏は上杉謙信と越相同盟を結ぶこととなり、北条家と上杉家は停戦することとなりました。

 

武田軍の侵攻

永禄12年(1569)9月、武田軍が武蔵国に侵攻します。

同年10月1日には武田軍は小田原城を包囲しました。

しかし、北条氏康の徹底した籠城戦が功を成し、わずか4日後に武田軍は撤退します。

その後も、武田軍は武蔵国に出兵してきましたが、この頃になると北条氏康は体調の悪化などがあり、駿河国での戦いは武田軍に押される形になっていったとされています。

 

北条氏康の最期

元亀元年(1570)8月頃、北条氏康はこの頃から脳血管障害の後遺症を患っていたとされています。

呂律が回らず、しゃべることができなかったため元亀2年(1571)5月10日を最後に文書の発給は停止されました。

その後同年10月3日、北条氏康は小田原城において57歳で亡くなりました。

北条氏康の正室・瑞渓院

瑞渓院は北条氏康の正室となった女性です

父は駿河国守護・今川氏親であったとされ、今川義元は兄にあたります

北条氏康との婚姻時期は分かっていませんが、天文4年(1535)と推測されています。

夫となった北条氏康が兄である今川義元と対立した際は、実家である今川家には戻りませんでした。

北条氏康との間には、幼くして亡くなった長男・新九郎(天用院殿)、次男で嫡子の北条氏政、三男・北条氏照、四男・北条氏邦、五男・北条氏規また、今川氏真の妻となった早川殿、足利義氏の妻となった浄光院殿が誕生したとされています。

 

風魔小太郎

北条氏康には風魔小太郎という家臣がいたとされています。

風魔小太郎の出自などは不明ですが、天文15年(1546)あるいは天文12年(1543)の上杉憲政による川越城攻めの際に、北条氏康に仕える忍びとして、柏原に差し向けられたと『関八州古戦録』に記録されています。

『北条五代記』には天正年間(1573~1593)に後北条氏に仕えていた忍びと紹介されており、北条氏に仕える忍者集団の頭が代々、「風魔小太郎」を名乗っていたと考えられます。

 

名言

北条氏康の名言をご紹介いたします。

名言①
酒は朝に飲め」

夜、就寝前に酒を飲むと深酔いしやすく、酒酔いからの失敗を防ぐため、北条氏康は家臣に対し、酒は朝に飲むように進めたとされています。

名言②
「わづか飯椀の中へ入る汁を、一度にて汁かけ飯の加減さへ出来ぬ性質にて、何とて八ヶ国の人々の善悪を目利きできやうぞ。」

わずか飯椀の中に入れる汁を、1度も加減できないような器量で、関東8カ国の人々の善悪を見極めることができるのでしょうか。という意味です。

息子・氏政と食事をしていた時に述べた言葉とされています。

 

まとめ

北条氏康は北条早雲の孫にあたり、後北条氏第3代当主となった人物でした。

上杉家、武田家と対立した北条氏康は、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も優れていたとされ、北条5代(北条早雲、北条氏綱、北条氏政、北条氏直)の中でも1番の名君と評価されています。