桶狭間の戦いとは?場所や年号、真実や今川義元についてわかりやすく解説!

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戦国稀にみる奇襲として語り継がれ、当時強大な勢力を持っていた今川義元(いまがわよしもと)が、尾張の織田信長(おだのぶなが)に討ち取られた「桶狭間の戦い」とはどのような戦いだったのでしょうか。

桶狭間の戦いは現在も「真実」という言葉が付きまとうほど、場所や詳しい詳細が物語として伝えられているだけで諸説あり、確定されていないことが沢山あります。

今回は、戦国乱世のターニングポイントとなった「桶狭間の戦い」に関して、場所や背景、戦いの詳細などわかりやすく解説していきたいと思います。

桶狭間の戦いが起こった原因と時代背景

永禄2(1559年)~永禄3(1560年)、当時の今川義元は元々の領土である駿河、遠江を本拠とする一方、松平氏の衰退により三河国の統治に力を入れていました。

また、西の尾張へも勢力を拡大させ三河、尾張の国境地帯に勢力を伸ばし尾張の織田と争っていたのです。

今川の侵略が脅威となるも、当時の織田家は信長の父、信秀が病死し家督争いが勃発、一丸となるには程遠い状況になり、尾張国の中は動揺し尾張東南一帯が今川の手に落ちます。

家督争いを制し、尾張国を統一した織田信長は、本格的に攻略された大高城のまわりに丸根砦、鷲津砦を築き今川勢に備えました。

外交面でも孤立無援、尾張を収めることで一杯の織田信長と違い、家督も嫡男に譲り勢力も戦力も上回る今川義元は、本腰を入れて尾張を支配下に収めるつもりで侵攻を開始します。

強大な敵と戦わなければ後がない織田勢としては、籠城か出撃かで会議が紛糾していました。しかし今川軍が丸根砦、鷲津砦を攻撃したことで、織田勢は出撃を決めます。

この一連の流れが、桶狭間の戦いが起こった背景です。

 

場所

桶狭間の戦いの場所は、いくつか点在しておりここであったとされているだけで確定するものではありません。また、伝記にある「桶狭間山」というものも現在存在しません。

それを踏まえて、現在桶狭間の戦いの場所とされているものを紹介します。

 

桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市緑区桶狭間)

今川義元が討ち取られた場所とされています。

 

桶狭間古戦場伝説地石碑(愛知県豊明市栄町南館)

大まかに桶狭間の戦場であるとされ、石碑があります。

 

おけはざま山今川義元本陣跡碑(愛知県名古屋市緑区桶狭間)

緑区の公園から豊橋市の古戦場石碑の中間あたりに位置し、現在は住宅地で地名も存在しませんが、当時おけはざま山と呼ばれ今川義元の本陣があったとされています。

 

年号と戦いの内容

従来の迂回奇襲説ではなく、現在有力とされている正面突破をしたと言われる「信長公記」を元に、今川義元と織田信長の動きを説明していきます。

桶狭間の戦いが起こったのは、年号でいうと、永禄3(1560年6月12日)です。

約2万とも4万とも言われ大軍を率いる今川義元は、午前8時頃に沓掛城を出発、正午北西に向かって進軍し、おけはざま山にて攻め落とした鷲津砦・丸根砦の報告を聞きながら休息を取っていました。

一方、織田信長は今川軍が丸根砦、鷲津砦への攻撃を開始したことを知ると、有名な「敦盛」を舞い、明け方に清洲城より単騎駆け出し熱田神宮に到着、戦勝祈願を行い、善照寺砦に入ったのです。

織田信長の出陣の報で士気が上がった佐々政次(さっさまさつぐ)、千秋四郎(せんしゅうしろう)ら30余りの部隊は単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛け、逆に討ち取らてしまいます。

今川義元は益々気をよくして油断していました。

そこに視界を遮るほどのの豪雨が降りだし織田信長はこれに乗じて中島砦から今川義元の本体に正面突破で奇襲をかけます。(奇襲した兵は2000ほどとされています。)

その時、今川義元の本陣は5000ほどの兵であったとされ、双方乱れる乱闘となりました。

今川義元は300あまりの親衛隊に守られながら当初騎馬で逃げようと試みましたが、度重なる襲撃に兵を奪われ、織田信長の馬周りに追い詰められます。

最後は今川義元も太刀を振るいますが結局討ち取られました。

大将を討ち取られ今川軍は総崩れとなり、織田軍の勝利となったのです。

戦いのその後

今川家は衰退し滅亡する

桶狭間の戦いで今川家の頂点に君臨していた今川義元が討ち取られ、その求心力は低下の一途をたどりる事になります。

まず、人質であり今川義元の姪の婿である松平元康(徳川家康)(まるだいらもとやす)は、早々に後継者である今川氏真(いまがわうじざね)を裏切る形で、故郷であり本来の領地である三河国へ帰り、敵対していた織田信長と同盟を結んで今川から完全に離れていきました。

また今川義元が討ち取られたからと言って、今川がすぐに領地を無くすわけではなく、駿河国、近江国とまだまだ強大な大名であり弔い合戦をすれば、戦力的に勝てた可能性は十分にありましたが、後継者である今川氏真は織田信長に対して弔い合戦を仕掛ける事をしませんでした。

結果として、今川氏真は失望され多くの者が今川から離反して離れていったのです。

今川氏真自身は北条を頼り、徳川家康に庇護され生き残りましたが、武田信玄と徳川家康に攻め込まれて権勢を誇った今川家は滅亡しました。

 

織田信長は怒涛の勢いで天下統一を進める

桶狭間の戦い後、織田信長と徳川家康は同盟を結びます。

織田信長は徳川家康と同盟を結んだことで武田信玄(たけだしんげん)や浅井・朝倉連合軍など幾多の包囲網を潜り抜け、ついには足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛をはたし、足利義昭を将軍にして天下の実権を握るまでになりました。

その後、足利義昭を排除して室町幕府を終わらせ、天下布武の道をひた走る事になります。

 

真実

桶狭間の戦いを調べると「真実」と言うワードにぶつかります。桶狭間の戦いが起こり、今川義元が死んだことは確かですが、なぜ「真実」というワードがでてくるのでしょうか。

それは、桶狭間の戦いを残したいくつかの伝記の内容が違い、後世の識者の認識で解釈されていることが多いからです。

 

場所

詳しく言うと、桶狭間という場所も桶狭間のどのあたりなのか。戦いを起こした場所も広範囲で確定されておらず、桶狭間山なのか桶狭間の窪地なのか、谷なのか確定されていないからです。

 

人員と戦術

また戦術として「奇襲」と言われていますが、これもまた奇襲でなかったと言われ、今川の先鋒である徳川家康にいくつか城を落とさせて、今川本陣を安心させ分断し、今川本陣を孤立させる形で正面突破したと推測されたりもしています。

なぜそのように「奇襲」「分断」「正面突破」といくつもの戦術が現在議論されているかと言うと、明治時代の陸軍参謀本部が戦の研究をまとめていた時に、現在の一級史料である「信長公記」ではなく、「信長記」や「桶狭間合戦記」といった江戸時代に書かれた史料を参考にし、桶狭間迂回奇襲説を唱えたので「奇襲」とされてきました。

当然、戦いのプロが研究してまとめたのだから真実であると後世に語り継がれてしまったのです。

また人員(戦闘員)に関しても、今川勢2万とも4万とも言われていますが、桶狭間という一帯は広くおよそ6キロほどに間延びしていて、今川義元がいた本陣はおおよそ5000人程だったというのが真実のようです。