足利義昭とは?追放や子孫、織田信長との関係について解説!

足利義昭は織田信長に擁立されて室町幕府第15代将軍となった人物です。

しかし後に、織田信長と対立をおこし、追放され室町幕府は滅亡を迎えることとなりました。

そんな足利義昭の生涯や、織田信長との関係性、現代に続く子孫などを解説していきます。

足利義昭の生い立ち

足利義昭は天文6年(1537)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として誕生しました。

兄に嗣子である足利義輝がいましたが、継承争いを避けるため家督相続者以外の子は出家させるという足利家の習慣に沿って、天文11年(1542)に足利義昭は、法名を覚慶と名乗り興福寺の一乗院門跡に入室します。

 

足利将軍家の当主となる

永禄8年(1565)5月の永禄の変において、室町幕府第13代将軍であった兄・足利義輝と母・慶寿院、弟・周暠が三好三人衆、松永久通によって暗殺されてしまいます。

この際、足利義昭も松永久通らによって幽閉されてしまいますが、父・足利義輝の側近であった一色藤長らによって救い出され、六角義賢の許可を得て近江国にある甲賀郡の和田城にて身を置きました。

ここで足利義昭は足利将軍家の当主となることを宣言したとされます。

その後は、都に近い野洲郡矢島村の矢島御所に身を置き、また上杉謙信らに、室町幕府の復興を依頼するなど行動を起こしました。

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上洛を目指す

矢島御所に身を置いた足利義昭は、河内国の畠山高政、関東管領の上杉謙信、能登国守護の畠山義綱らと連絡を取り、上洛する機会を窺います。

足利義昭の他にも、近江国の守護・六角義賢や父・足利義輝の側近であった和田惟政も同様に上洛を強く希望しており、敵対していた六角氏、浅井氏、斎藤氏、織田氏また武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ上洛を目指していました。

 

進まない計画

永禄9年(1566)8月実際に、足利義昭の説得もあり織田信長は斎藤龍興と和解をし、上洛を果たしますが、再び斎藤龍興に襲撃され尾張国へ撤退を余儀なくされました。

また六角義賢が密かに三好三人衆と内通していたため、足利義昭は妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移ります。

このように斎藤龍興、六角義賢の離反が同時に起こったため足利義昭は上洛できる状況ではありませんでした。

同年9月、足利義昭は若狭国から越前国の朝倉義景のもとへ移ります。ここでの滞在期間は長期に及んだとされています。

上洛への助力を上杉謙信や朝倉義景に要請していた足利義昭ですが、上杉謙信は武田信玄との対立や揚北衆の本庄繁長の反乱などから、上洛は不可能となりました。

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従兄弟・足利義栄が室町幕府第14代将軍に

足利義昭は次期将軍候補とされていましたが、従兄弟の足利義栄も三好三人衆らによって次期将軍候補と擁立されておりました。

三好三人衆らによって擁立される足利義栄よりも足利義昭は有利な環境に身を置いていましたが、なかなか上洛することができず、その間にも足利義栄は伊勢氏の復興を約束するなどしてその結果、永禄11年(1568)に従兄弟・足利義栄は室町幕府第14代将軍となります。

その後、足利義昭は朝倉景義の家臣であった明智光秀を通して織田信長を頼りに尾張国へと移ります。

室町幕府第15代将軍に就任

永禄11年(1568)9月、織田信長軍、浅井長政軍に警護され足利義昭はようやく上洛を果たします。

その際、京都にいた三好三人衆の勢力は撤退し、また室町幕府第14代将軍の足利義栄が病死すると、同年10月に、足利義昭は室町幕府第15代将軍に就任となりました。

就任後は、二条晴良を関白職に復職させ、第13代将軍であった兄・足利義輝の領地である山城国の御料所も掌握、また共に行動していた諏方晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆を職務に復帰させるなど幕府の機能の再興に力を注ぎます。

 

室町幕府の復興

足利義昭は仮御所を本圀寺としていましたが、永禄12年(1569)に本圀寺が襲撃されると兄・足利義輝も身を置いていたのちに二条城とも呼ばれる烏丸中御門御第の再興および増強し、本拠としました。

この烏丸中御門第には洛中の平城とも呼ばれるほどの大規模な城郭風作りとなり、代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など多くの者が参勤し、足利義昭は室町幕府の復興を果たします。

 

織田信長の反乱

室町幕府第15代将軍に就任し、室町幕府を復興させた足利義昭は、織田信長に「室町殿御父」の称号を与え、感謝状を送りました。

しかし、室町幕府の復興を願う足利義昭と、天下統一を狙う織田信長はしだいに対立関係となります。

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織田信長との関係は対立的に

永禄12年(1569)1月、織田信長は足利義昭に殿中御掟という9箇条の掟書を承認させます。のちに5箇条が追加されるも、足利義昭に再び承認を得ることとなりました。

この殿中御掟には、織田信長の幕府再興の理念が示されたものなどが記述されていたとされています。

足利義昭は殿中御掟に承認しましたが、全面的に遵守した形跡はなく織田信長との溝は深まる一方でした。

 

信長包囲網

織田信長に不満を抱いた足利義昭は元亀2年(1571)頃から、上杉謙信や毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめます。

このことを信長包囲網と一般的には呼び、この信長包囲網は信長と対立していた朝倉義景、浅井長政また兄・足利義輝の宿敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継なども加わりました。

 

和睦の申し入れ

元亀4年(1573)正月、織田信長は子供を人質に取り、足利義昭との和睦を申し入れますが、足利義昭はこれを拒否し、近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れました。しかし、数日後、両城は攻撃を受け陥落となります。

織田信長は知恩院に陣を張り洛中の居城である烏丸中御門第で抵抗を続ける足利義昭に再び和睦を申し入れるも拒否されたため威嚇として、上京全域を焼き討ちにし、足利義昭に圧力をかけます。

足利義昭は烏丸中御門第に家臣の三淵藤英、伊勢貞興らを残し南山城の要害・槇島城に移りますが、その数日後には烏丸中御門第に籠っていた三淵藤英、伊勢貞興は織田信長の攻撃を受け降伏となりました。

 

京都から追放される

織田信長は足利義昭を京都から追放するため足利将軍家の山城及び御料所を自領とします。また元亀4年(1573)8月、9月には朝倉氏、浅井氏が滅亡し信長包囲網は瓦解となりました。

このようにして、足利義昭を京都から追放した織田信長は天下人として、地位を高めていきます。

京都から追放された足利義昭でしたが、追放後も将軍職としての政務は続け近畿周辺の信長勢力圏以外では、追放前と同様の権力を保持し続けました。

 

室町幕府の滅亡

足利義昭追放後の織田信長政権では、旧来行われていた政治の継承は行われておらず、室町幕府の家臣たちは、足利義昭の再上洛・復権を待つか、現に京都を支配している織田信長に従うか判断を余儀なくされていました。

その結果、室町幕府を維持する必要な人材が揃わず、機能停止の状態に陥ったため京都での室町幕府の機構は完全に解体されたものとなりました。

 

追放後

京都から追放された足利義昭は紀伊国の興国寺、そして備後国の鞆に移りました。

備後国の鞆にいた足利義昭は近畿東海以外で足利将軍家支持の武家が多くいたことから全国の大名に御内書を下します。

 

本能寺の変

天正10年(1582)6月2日に明智光秀によって起こされた本能寺の変で、織田信長が死去すると足利義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めます。

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足利義昭の晩年

天正15年(1587)10月、足利義昭は京都へ帰還したのち、天正16年(1588)1月13日に将軍職を辞し受戒し、昌山と号します。

その後、文禄・慶長の役の際は軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣するなど老齢ながらも戦に参加しました。

慶長2年(1597)8月大阪にて足利義昭は61歳で亡くなります。死因は腫物で病臥したこととされますが、老齢でありながらも肥前まで出陣したのが原因ではないかともされています。

子孫

足利義昭には3人の子供がいたとされています。

 

足利義尋

足利義尋は、足利義昭の嫡子とされ将軍家の後嗣として養育されました。

京都から足利義昭が追放される際、足利義尋は人質として信長に預けられるとわずか1歳で出家させられた記録が残されています。

出家したのち興福寺の大僧正となりました。

 

一色義喬

足利家の菩提寺である鑁阿寺に伝わる文書には、武士、一色義喬は足利義昭の子であると伝えられています。しかし、客観的な史料は未だ発見されていません。

 

永山義在

足利義昭が和泉国蟄居の際に生まれたとされる永山義在は、足利義昭の元を離れ、薩摩藩士に婿入りし永山を名乗りました。

薩摩藩の史料では、足利義昭の子と位置づけられますが、他の家系図では足利義昭の子とは位置づけられていないため一色義喬と同様に、足利義昭の子であるという確実な史料のない人物となります。

また、明治10年(1877)に西南戦争で政府軍と戦った永山弥一郎は永山義在の子孫であるとされますが、永山義在から永山弥一郎までの系図は不明確であるため、確実に子孫であるとは言い切れません。

 

さいごに

足利義昭は室町幕府最後の将軍となった人物でした。

織田信長によって京都から追放されることとなりましたが、斎藤氏と織田氏を和解させた功績や御内書を下し反織田派を集めた信長包囲網を行った足利義昭は優れた外交手腕の持ち主であったと考えられます。