朝倉義景とは?子孫・娘・家紋・織田信長や明智光秀との関係を解説!

織田信長を追い詰める活躍を見せるも最後は敗れてしまった武将に、朝倉義景がいます。

彼は戦いの中で迷走を繰り返してしまったため、家臣からも見放され、武将としての評価は高くありません。

今回はそんな朝倉義景と織田信長や明智光秀との関係、子孫や娘、朝倉家の家紋の意味を解説していきたいと思います。

朝倉義景の生い立ち

越前朝倉氏第11代当主朝倉義景は、1533年朝倉孝景の長男として誕生しました。幼いころの名を長夜叉といいます。

朝倉義景の母は広徳院といわれ、若挟武田氏の一族の娘で武田元光か武田元信の娘と考えられています。

 

家督の相続と結婚

1548年に父である朝倉義景が死去すると、義景は16歳という若さで家督を相続し、第11代当主として朝倉延景を名乗るようになりました。

また同年9月に細川春元の娘を正室として迎えます。しかしながらこの正室は娘を出産した直後に死去してしまいました。

義景は継室として近衛稙家の娘を迎えましたが、結局子供は生まれず、のちに離縁しています。

また16歳という若さで家督を相続したため、実際の任務に関しては当時軍事的にも高い能力を持っていた朝倉宗滴がしばらく行っていたといわれています。

1555年、実質的に家督の任務を行っていた朝倉宗滴が死去すると、これ以降は義景が自ら家督としての任務を執行しました。

 

朝倉家の運命を左右する義景の決断力の鈍さ

1552年、室町幕府の将軍・足利義輝より「義」の字を授かり義景と改名、左衛督にも任官しました。

1565年、当時の将軍・足利義輝が松永久秀によって暗殺されると、義景は足利義輝の家臣であった細川藤隆・米田求政らと連絡を取り、足利義昭が幽閉されていた奈良を逃げ出し、近江国へ移るように計画します。

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1567年、朝倉家の家臣であった堀江景忠が朝倉家と長年の対立していた加賀一向一揆を通じて謀反を企てたため、義景は加賀国から来襲していた杉浦玄任が率ている軍と戦いつつ、堀江景忠に攻撃を仕掛けます。

足利義政は上杉謙信ら諸大名に上洛を促す書状を送りましたが、当時の政治状況などから実際に出兵することは難しかったといわれています。結果的に京都には自らが軍隊を率いて上洛しました。

このころ朝倉義景は息子・阿君丸の急死のため、悲しみにくれていて、足利義昭の望む上洛にはあまり関心がありませんでした。

もしこの時、義景が上洛していれば、天下統一を狙える可能性もあり、こういった決断力の鈍さが今後の運命を大きく左右することとなります。

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織田信長との対立

義景が逃した機会をしっかりとものにし、足利義昭を将軍にした織田信長にとって、織田領である美濃と京都の間に位置していた越前国を治めてた朝倉義景は邪魔な存在でした。

織田信長が天皇からの命令という名目で、義景に自分に従うように指示したが、義景はこれを拒否します。

しかし信長の指示を拒否したことで、信長には反意があるという口実を与えることになり、これが1570年の越前出兵のきっかけとなります。

一方で織田信長と縁戚関係であった浅井長政は越前出兵をよく思わず、信長を裏切って強襲しました。その結果、朝倉軍と浅井軍に挟み撃ちされることとなった織田軍は、京都に逃亡します。

朝倉軍は織田軍を追いましたが、豊臣秀吉らによって阻まれ、取り逃がすこととなりました。

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織田軍と再び衝突

1570年、姉川の戦いにて織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が衝突、しかし徳川四天王とも呼ばれる榊原康政に不意を突かれ、朝倉・浅井連合軍は窮地に立たされるも、両軍一進一退の攻防が続き、最終的に講和をすることとなりました。

織田信長が本願寺と臨戦態勢に入ると、足利義昭は甲斐国の武田氏、近江国の浅井氏、越前国の義景らは織田信長包囲網を形成します。

しかし再三の出兵要請に対し、義景が躊躇している間に武田信玄が病死、その結果、織田信長が朝倉家を中心に攻めることが可能となりました。

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義景の最期

1573年、3万の大軍を率いて織田信長が近江国に侵攻を開始すると、義景も朝倉軍を率いて対抗しようとしますが、その決断力の弱さから今まで数々の好機を逃してきた義景は、家臣の信頼をも失っていて、重臣らに出兵要請を拒否されます。

その結果、義景はわずかな兵力で出兵するも、織田軍に大敗してしまいました。

壊滅的なダメージを受けた義景は、越前国への撤退を決めますが、織田軍のさらなる追撃を受けます。

追手から逃れ、従兄弟である景鏡の勧めで賢松寺に逃げ隠れていた義景でしたが、最後は景鑑の裏切りにより攻め込まれ、ついに義景は自害を決意しました。

朝倉義家の家紋

朝倉義景の家紋は木瓜が三つピラミッドのように重なった形をしている「三つ盛木瓜(みつもりもっこう)」と呼ばれる家紋を使用していました。

同じような三盛の家紋を使用していた人物としては、朝倉氏に近い大名であった浅井氏が挙げられます。

 

朝倉家の子孫

朝倉義景は子宝に恵まれなかったため、記録上男子の子供は3人しかいないことが分かっています。長男・阿君丸(くまぎみまる)、次男・愛王丸(あいおうまる)、三男・信景(のぶかげ)の3人です。

 

長男・阿君丸

この中でも長男の阿君丸は7歳という若さで早世してしまいます。

この阿君丸の死亡に関しては、同族争いの影響や、乳母が毒殺された毒の影響などといわれていますが、証拠となる資料が存在しないため、理由は分かっていません。

 

次男・愛王丸

次男の愛王丸は長男が早世した影響で、早くから後継ぎとして期待されていました。

しかし父である義景が一乗谷の戦いで織田信長に敗れると、織田軍にとらえられ、4歳という若さにも関わらず殺害されてしまいます。

 

三男・信景

三男である信景は江戸へ逃れ、本願寺教如に弟子入りし、のちに住職となっています。

しかし信景が義景の子ではないのではないか、といった疑いの声もあります。

住職になった信景には子供は生まれなかったので、朝倉義景の子孫はここで断絶することとなりました。

 

朝倉義景の娘と織田信長

朝倉義景には三位殿という娘がおり、三位殿はのちに教如という人物と結婚しています。

この教如は織田信長に徹底抗戦し、東西本本願寺分派の原因を作った人物です。

 

朝倉義景と明智光秀

本能寺の変で有名な明智光秀は、かつて朝倉義景に仕えていました。特に鉄砲の腕が良かったので、鉄砲隊の組頭を務めていたといわれています。

しかし越前国に足利義昭が亡命してくると、すぐに義昭の家臣になったともいわれています。

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