織田信長について!性格・年表、名言・兜などその激動の生涯を解説!

戦国三英傑の一人で、これほど日本人に知られている武将はいないというくらい有名なのが織田信長(おだのぶなが)です。

織田信長は烈火のごとく領土を拡大し、日本統一に王手をかけ天下一の武将として名高い反面、有名なホトトギスに例える川柳で、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と歌われるなど、その強引で残忍な性格がクローズアップされていますが、織田信長という人物は本当にそれほどまでに強引で残忍な性格だったのでしょうか。

一説には領民や家臣に対して優しい一面もあったと言われています。どちらが本当の織田信長なのでしょうか。

起伏激しい性格や、兜、甲冑、マントすべてにおいて当時としては奇抜な戦国ファッションだった織田信長、彼が遺した名言など、織田信長の生涯を追いながら年表も併せて解説していきたいと思います。

織田信長の生い立ち

織田信長は織田信秀(おだのぶひで)の待望の嫡男として天文3年(1534年)5月12日、勝幡城(しょばたじょう)または那古野城(なごやじょう)で生まれました。(現在の研究で勝幡城が最有力だとも言われています。)

父・織田信秀は織田家の外交を担当する優秀な家臣である平手政秀(ひらてまさひで)を織田信長の博役(守役)につけます。この平手政秀は後の織田信長と斎藤道三(さいとうどうさん)の娘・濃姫の婚儀を取りまとめたという説があるほどに有能だったそうです。

織田信長が生まれた当時の父・織田信秀を取り巻く環境は決して楽な物ではなく、美濃は斎藤道三、岡崎には松平広忠(まつだいらひろただ)、さらにその東には今川義元(いまがわよしもと)が控えている状態で、嫡男への思いと期待が伺われます。

 

大うつけと呼ばれて

父・織田信秀の期待とは裏腹に、織田信長は幼少時から周囲には理解し難い行動を繰り返して成長していきます。

領民や武士など身分の上下を問わず関り、馬で駆けまわって父や家臣を驚かせる事が多々あり、影で「うつけもの」と呼ばれ、腹違いの兄や実の弟のほうが優秀だということで、家督を継がせることを危惧する家中の声が多かったのです。

そんな織田信長も元服し、美濃の斎藤道三の娘・濃姫と政略結婚をしました。しかし相変わらずのうつけぶりは収まらず、織田信長結婚後2年ほどで父・織田信秀が病で亡くなります。

その後も尚、行動の改善が見られない事に博役の平手政秀が責任を感じで自刃するほどでした。この平手政秀の死は織田信長にとって相当の悲しみであり、寺を建立し菩提を弔ったほどです。

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家督争いと尾張統一

弘治1年(1555年)、尾張下四郡を支配する守護代である清洲城主・織田信友(おだのぶとも)を討ってここを居城とし、信長が名実共に織田氏の頭領になりました。

義父・斎藤道三の死去を好機と見た織田信長・弟・織田信行(おだのぶゆき)派が挙兵(稲生の戦い)、しかし織田信長は反乱を抑え一度は生母・土田御前(どたごぜん)の仲介により弟・織田信行らを許すも、再度謀反の動きがあり、結局弟・織田信行を清州城で殺害します。

家督争いが決着すると、同族犬山城主・織田信清(おだのぶきよ)と協力し、永禄2年(1559年)、織田一門の宗家であった岩倉城主・織田信賢(おだのぶかた)を追放して(浮野の戦い)、尾張を統一し国主となりました。

歴史的な桶狭間の戦い

織田信長が尾張国を統一した翌年、今川義元が尾張国へ侵攻してきます。その数2万とも4万とも言われる大軍でした。

織田信長は豪雨で足止めされ宴を開いている今川軍に奇襲をしかけ(桶狭間の戦い)今川義元を打ち取るのです。

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そして、今川氏の支配下から独立した徳川家康(とくがわいえやす)と利害が一致し、清州同盟を結びます。

この後織田信長は小牧山を居城とし、徳川家康と同盟を結んだことで義父・斎藤道三亡き後、険悪な関係となっていた美濃攻めに力を入れ、永禄10年(1567年)稲葉山井ノ口城を攻略(稲葉山城の戦い)、斎藤龍興(さいとうたつおき)を伊勢国長島に追放して、ここを岐阜と改め居城とし尾張・美濃を収める大名となりました。

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将軍擁立から室町幕府滅亡まで

織田信長は永禄11年(1568年)、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛、これを阻もうとする三好三人衆、近江・六角義賢(ろっかくよしかた)を追い払い(観音寺城の戦い)入洛、畿内を平定しました。

無事に、足利義昭は朝廷より将軍宣下を受け15代将軍となり、信長は天下の実権を握るまでになります。

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幾多の包囲網を潜り抜ける

織田信長は入洛後堺も掌握し傘下に収め、伊勢侵略に着手、北伊勢北畠氏を屈服させ(大河内城の戦い)二男・織田信雄(おだのぶかつ)を養子に入れることで伊勢を攻略します。

また、度重なる上洛の命を無視する朝倉義景(あさくらよしかあげ)の討伐に乗り出すも、織田信長妹・お市の嫁ぎ先である浅井氏の離反で(金ヶ崎の戦い)窮地に陥り、織田信長は僅かな手勢で京へ逃れました。

その後、浅井・朝倉連合軍と姉川で戦い(姉川の戦い)勝利し、摂津でも三好三人衆を迎え撃ち奮闘する最中、石山本願寺が挙兵します。

この石山本願寺の挙兵以後、長きに渡り織田信長は一向一揆に苦しめられることになるのです。(石山戦争)

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比叡山焼き討ち

織田信長は一向一揆と一進一退を繰り返し、浅井・朝倉連合軍とも小競り合いを繰り返し、ついに浅井・朝倉を匿って味方し、退避勧告にも従わず抵抗を続ける比叡山延暦寺を焼討ちにするのです。

 

室町幕府を終わらせ、天下を承継する

織田信長が足利義昭に対して17条からなる詰問文を送ったあたりから、両者不和となっていた関係が悪化し、対立が激しくなります。

織田信長は元亀4年(1573年)足利義昭を追放、加えて元号を元亀から天正へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させ室町幕府を滅亡させました。

 

浅井・朝倉連合軍との決着

長らく小競り合いを続けていた浅井・朝倉連合軍に対して織田信長は3万人の軍勢を率いて北近江へ出兵します。

浅井軍の援軍にかけつけた朝倉義景は勝ち目が無いと悟り撤退しますが、織田信長自ら戦闘指揮を執って徹底的に追撃し朝倉義景を討ちました。(刀根坂の戦い)(一乗谷城の戦い)

織田信長はすぐに軍を北近江に返し小谷城を攻撃、浅井 久政(あさいひさまさ)・浅井 長政(あさいながまさ)親子は共に自害して浅井氏を滅ぼしたのです。

 

武田軍との長篠の戦い

天正3年(1575年)、甲斐・武田勝頼(たけだかつより)が三河の国に侵入、徳川に寝返った奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が立て籠もる長篠城への攻撃を開始します。

すぐさま、織田・徳川連合軍との戦いとなり、織田信長は火縄銃を駆使した足軽鉄炮隊を編成して武田軍は総崩れとなり敗退しました。(長篠の戦い)

 

侵攻の手を休めることなく

織田信長はすでに正三位・内大臣に任じられ、琵琶湖岸に安土城の築城を開始、将軍職に相当する武家の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任するまでの地位に上り詰めていました。

しかし、織田信長の天下統一への手は緩まる事はなく侵攻していくのです。

摂河泉和に侵攻、明智光秀(あけちみつひで)の丹波・丹後の平定、柴田勝家(しばたかついえ)による加賀の平定、羽柴秀吉(はしばひでよし)による中国毛利攻めが進み、武田勝頼の自害により武田氏が滅び、ほぼ本州の中央部を征服しました。

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石山戦争の終結

元亀1年(1570年)から天正8年(1580年)の10年にわたり続いていた、織田信長と石山本願寺・顕如(けんにょ)による戦いと一向一揆は、伊勢長島、越前、雑賀と一揆の拠点を全て織田信長が鎮圧、朝廷よりの斡旋により顕如が和睦を受け入れ顕如は石山本願寺から退き終結しました。

 

本能寺の変

織田信長は安土城の築城、家督継承、領地の拡大、京都御馬揃えなる一大軍事パレードを行うなど、人生の最高潮の時を迎えていたと言っても過言ではなく、天下統一に王手をかけていました。

しかし、羽柴秀吉の中国攻めの大詰めとして中国・毛利氏との決戦を前に、天正10年(1582年)6月2日未明、家臣・明智光秀の謀反の強襲により京都本能寺にて、長男・織田信忠(おだのぶただ)と共に自害、49年の激動の生涯に自ら幕を降ろしました。

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性格

平戸藩主・松浦静山(まつうらせいざん)により書かれた随筆集「甲子夜話」に、3人の天下人の性格をホトトギスを相手に例えた川柳が詠み人不明として書かれています。

  • 織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
  • 豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
  • 徳川家康「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」

大変有名なこの句の通り、織田信長という人物は従わない者は容赦なく徹底的に排除し、そのやり方も僧侶も女・子供も関係なく、極めて残忍な手段で行うなど神おも恐れぬ「魔王」のような人物として語り継がれています。

神経質で猜疑心が強く、裏切りなどの行為に対しては特に激しく反応したので、弟や叔母など身内でも容赦なく命を奪う非道な性格だったようです。

しかしその反面、峠にいる乞食をする身体の不自由な物に慈悲を与えたり、領民や身分の低い武士との交流や、織田信長自身の娘達の嫁ぎ先は政略結婚ではなく家臣に嫁がせ、織田信長死後も大切にされる嫁ぎ先を決めるなど身内に甘い面もありました。

また、織田信長の親族と婚姻した家に対して相手側から裏切られない限り、織田信長から敵対行為を取ったこともなく、盟約・和睦を破った事も一度もありません。

 

織田信長の兜

織田信長と言えば、南蛮銅甲冑と兜にマントなどの南蛮要素満載の戦国ファッションが思いつきますが、この南蛮銅甲冑や兜は織田信長の生きている時には存在していなかったと言われています。

文献などの記録では、天正16年(1588年)ポルトガル領ゴアのインド副王(総督)より豊臣秀吉へ贈呈された甲冑が確認できる最初の南蛮胴の伝来であり、その他のルートや場所で伝来していたのかもしれませんが記録が存在しません。

岐阜市歴史博物館所蔵の伝・織田信長所用南蛮胴具足も、兜は織田信雄以降の時代に造られ、銅に至っては国替えで家中が騒然とした時期に重なり、江戸末期の作であることが判っています。

織田信長の兜はいくつか存在していたようで、現在保管されている兜がいくつかあります。

 

①建勲神社(京都市)所蔵

織田信長所用と伝わるもので、兜の正面に織田家の木瓜紋を施した前立物がついています。

柏原藩に伝来したもので、織田信重(おだのぶしげ)が建勲神社に奉納しました。

 

②柏原町歴史民族資料館

織田信長の次男・織田信雄の家系である柏原藩の資料を保存している資料館に、代々伝わる信長が使ったと言われる兜が展示されています。

 

③総見院(愛知県清洲町)所蔵

織田信長の次男・織田信雄が本能寺の変の直後、焼跡を捜索させて探し当てた信長着用の兜といわれています。焼けて錆びていますが、塗片から当時は総黒塗りだったと言われています。

名言

織田信長と言えば「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」を名言と言う人がいますが、この言葉は織田信長の明言ではありません。

このフレーズは織田信長が好んで舞った「敦盛」(あつもり)という幸若舞の演目の後半の一説です。

ここからは、織田信長の名言をいくつか紹介していきます。

 

名言①

絶対は絶対にない

【意味】絶対に大丈夫な事と絶対に不可能なことは、絶対にない。

 

名言②

必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ。 

【意味】無我夢中で生きるからこそ生きることに価値があり、生きた事を認めてもらえる。

 

名言③

理念を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けていると言えよう。そのような者は廃人と同じだ 

【意味】戦う事を具体化し、勝つという事を信じて行動しないような者は、戦う前から負けている事と同じである。そのように、理念も信念も持ち合わせない者は生きていても死んでいるようなものだ。

 

子孫について

織田信長には10人以上の子供がいたと言われています。詳細は以下の記事で解説しています。

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年表

最後は、織田信長の人生をまとめた年表を書いて終わりにしたいと思います。天下一と言われた戦国武将の人生を振り返ってみましょう。

1534年 1才 尾張勝幡城(愛知県)で織田信秀の三男として生まれる。

1546年 12才 古渡城にて元服し、織田三郎信長と名乗る。

1548年 14才 父・信秀と美濃国・斎藤道三和睦成立、道三の娘・濃姫と結婚する。

1551年 17才 父・信秀流行病で死去、織田家の家督を継ぐ。 

1553年 19才 信長の教育係・平手政秀が自刃する。

1555年 21才 守護代織田大和守家・織田信友を攻め滅ぼし清洲城を奪取して頭領となる。

1556年 22才 信長も援軍に駆付けるも、義父・斎藤道三・子の斎藤義龍と戦い敗死する。

1556年 22才 弟・信行を擁立する重臣と家督争いが起こる。(稲生の戦い)

1557年 23才 弟・信行が再び謀反、清州城にて弟・信行を殺害する。

1559年 25才 守護代岩倉城主・織田信賢を追放(浮野の合戦)、尾張国主となる。

1560年 26才 桶狭間の戦いにて今川義元を破る 。

1562年 28才 松平元康(徳川家康)と清州同盟を結ぶ。

1567年 33才 稲葉山城を攻略し、尾張・美濃の2ヶ国を領する大名となる。

1567年 33才 この頃から「天下布武」の印を用いる。

1568年 34才 美濃国・加納、近江国・安土、近江国・金森に楽市・楽座令を布く。

1568年 34才 足利義昭を奉じ上洛、15代将軍とする。草津、大津、堺の代官職を得る。

1568年 34才 堺を屈服させ直轄とする。

1570年 36才 金ヶ崎の撤退の後、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破る。

1571年 37才 比叡山延暦寺を焼き討ちにする。

1572年 38才 織田・徳川連合軍として武田軍と戦い(三方ヶ原の戦い)完敗する。

1573年 39才 15代将軍・足利義昭を河内の若江城に追放し室町幕府を滅ぼす。

1574年 40才 伊勢・長島一向一揆を鎮圧、2万人の一向門徒を焼き討ちにする。

1575年 41才 長篠の戦にて足軽鉄砲隊を編成し武田軍を破る。

1576年 42才 信長自身の指揮のもと琵琶湖岸に安土城の築城を開始する。

1580年 46才 朝廷の斡旋により石山本願寺と和議、石山戦争を終結させる。

1582年 49才 本能寺で明智光秀に急襲され自ら応戦するも自刃する。(本能寺の変)