織田信長の家系図や子孫について!息子や兄弟なども解説!

戦国三英傑の一人で、現代人にもファンが多い織田信長。

彼は10人以上の男子、女子の子宝に恵まれました。早世した子もいますが直系の男子はそれぞれに戦乱の世に翻弄され興味深い人生を送ったのです。

織田信長と長男・信忠は本能寺の変で亡くなりますが、その後織田家は2つの大名家に分かれ、明治維新まで脈々と血筋を残し華族となり現代に受け継がれています。

また、現・プロスケーターの織田信成氏(おだのぶなり)が子孫だと自称していますが、真実はどうなのでしょうか。

今回の記事では、織田信長の子孫のその後と現代の子孫の状況など家系図も併せて詳しく解説していきたいと思います。

直系の子孫について

織田信長の子孫について、まずは直系の子供達から紹介していきたいと思います。

織田信長は正室である斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶・胡蝶)(のうひめ・きちょう・こちょう)との間には子がいません。

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側室との子供

側室・生駒氏(いこま)との間には、長男・織田信忠(おだのぶただ)、二男・織田信雄(おだのぶかつ)、長女・徳姫(とくひめ)と、3人の子供をもうけました。

他に、母と子が分かるのは、側室・坂氏の間に三男・織田信孝(おだのぶたか)、側室・お鍋の方の間に、八男・織田信吉(おだのぶよし)、七男・織田信高(おだのぶたか)、六女・於振の3人の子、養観院(ようかんいん)との間に、四男・羽柴秀勝(はしばひでかつ)、慈徳院(じとくいん)との間に九女・三の丸殿(さんのまるどの)、土方氏(ひじかた)の間に九男・織田信貞(おだのぶさだ)、原田氏との間に織田信正(おだのぶまさ)がいます。

また、織田信長は側室も多く、母の名が不明なものもおり、分かっている男子の実子は他に、六男・織田信秀(おだのぶひで)、十男・織田信好(おだのぶよし)、十一男・織田長次(おだながつぐ)など、本当に多数いることがわかります。

 

女子

女子の実子、養子もかなりの数がおり、二女・秀子(ひでこ)、三女・藤、四女・永姫(玉泉院)、五女・報恩院(ほうおんいん)、七女・源光院(げんこういん)、八女・月明院(げつみょういん)、十女・鶴姫(鷺の方)(つるひめ)、十一女・慈眼院(じげんいん)、養女には、さこの方、細川玉子 (秀林院)(ほそかわたまこ)、桂峯院(けいほういん)、龍勝院(りゅうしょういん)、足利夫人などがいることがわかっています。

今回は織田信長の直系男子の生涯を詳しく説明していきましょう。

息子

織田信長や家臣から絶大な信頼を得ていた長男・織田信忠

織田信忠は織田信長と生駒氏との間に産まれた長男で、弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に尾張国で生まれました。

元服後、父・織田信長に従い武功を上げ、長篠の戦の翌年には後継者として家督を譲られ、美濃東部と尾張国の一部と父・織田信長愛用の茶器なども譲られます。

また、子のいなかった織田信長の正室・濃姫を義母として岐阜城に入り居城としました。

甲州征伐では、総大将とし5万の軍を率いて、徳川家康(とくがわいえやす)・北条氏政(ほうじょううじまさ)と共に武田領へと進攻、破竹の勢いで武田方の拠点をを次々と攻略、武田勝頼(たけだかつより)・信勝(のぶかつ)父子を自害に追い込み、武田氏を滅亡させたのです。

父・織田信長や家臣の期待を一身に背負い、見事期待にこたえ続ける素晴らしい嫡男でしたが、本能寺の変の際に、父・信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉(豊臣秀吉)(はしばひでよし)への援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、信長の自害の知らせを受け二条新御所に移動、わずかな軍兵とともに篭城し明智軍と戦い結局自害しました。

大変有能な人物だったので、織田信長と共に本能寺の変で亡くなっていなければ清須会議の結果も違っており、織田家の未来もまた違った物になっていたのではないでしょうか。

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織田家の血筋を現世まで存続させた二男・織田信雄

織田信雄は、尾張国の生駒屋敷で織田信長の次男として生まれました。

伊勢攻略の和睦条件として織田信雄は11歳で北畠具房(きたばたけともふさ)の養嗣子となり、具房の妹の雪姫を娶り、14歳で元服し北畠具豊と名乗り17歳で北畠家の家督を相続します。

長島一向一揆、越前一向一揆などに参戦しながら、着々と家中の実権を掌握、北畠一族を謀殺して南伊勢の勢力を手中に収めました。

その後も兄である織田信忠の下で数々の戦に参戦しますが、父・織田信長に無断で兵を動かし伊賀国を攻め大敗(第一次天正伊賀の乱)、織田信長から「親子の縁を切る」と書状で書かれ叱責されます。

織田信長と兄・信忠が本能寺の変で自害した後は、自ら織田家の後継者になろうとするものの叶わず、信孝と共に当主となった三法師の後見役となりました。

その後、台頭してきた豊臣秀吉(とよとみひでよし)に属して、信孝・柴田勝家らと戦い(賤ヶ岳の戦い)さらに徳川家康にも接近し同盟関係を結んで秀吉に宣戦布告(小牧・長久手の戦い)をします。

最終的には秀吉に臣従し、豊臣政権期には改易され流罪となり一時は出家もしますが、徳川家康の仲介で出戻りその後は上手く立ち回り、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の直前に徳川方へ転身、徳川家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられ徳川家大名となりました。

73歳で亡くなると、その子孫が血筋を引き継ぎ現代まで続いています。

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側室・坂氏を母に持つ三男・織田信孝

織田 信孝は、織田信長の三男として生まれました。

実は、信孝は織田信長の次男である信雄よりも20日ほど先に生まれていたのですが、母・坂氏の身分が低い為に生駒氏に遠慮して届けを遅らせ三男としたと言う出生にまつわる逸話が残さてています。

父・織田信長が伊勢国北部を平定した際に、信孝は豪族・神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸 信孝(かんべ のぶたか)とも名乗っていました。

兄達と同じように数々の戦に参戦しますが、本能寺の変で人生が狂い始めます。

信孝は、この後天下を収めていく豊臣秀吉と、二男・信雄と対立し賤ヶ岳の戦いに参戦、頼みの柴田勝家が自害すると降伏。その後、二男・信雄によって自害を命じられ壮絶な切腹をして果てました。

母・坂氏は磔にされ、肉親は全て二男・信雄によって殺されたので子孫は残っていないとされています。

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豊臣秀吉の子になった四男・羽柴秀勝

於次丸(おつぎまる)(後の羽柴秀勝)は織田信長の四男として生まれました。生母は養観院と伝えられるのみで詳細は不明です。

石松丸を亡くした豊臣秀吉は、主家との養子縁組を願い出て、於次丸を貰い受けて羽柴家の跡継ぎとしました。

本能寺の変の後、秀吉の中国大返しに同行し、「信長の四男」として山崎の戦いに参加し弔い合戦の旗印となります。

織田信長の葬儀にも出席し、その後の賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにも羽柴秀勝として参加し活躍しますが体調が悪化、結局病状は回復することなく羽柴秀勝は18歳の若さで病死しました。

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武田家で育ち元服した五男・織田勝長

織田 勝長(おだ かつなが)は、織田信長の五男として生まれ、生年も母親の詳細も不明です。

織田信長の叔母である、おつやの方は遠山氏を嗣がせるために信長の子である御坊丸(織田勝長)をもらい受けました。

武田信玄(たけだしんげん)の西上作戦の途中、おつやの方が岩村城代となった秋山虎繁(あきやまとらしげ)を夫として迎え入れ、幼主を養育することで、武田方との和議が結ばれます。その時に御坊丸(織田勝長)は甲府に送られ人質となったのです。

天正10年(1582年)織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)で、総大将の兄・信忠に従って参陣その後も数々の戦で奮闘します。

しかし、本能寺の変において、勝長は兄・信忠に同行しており二条御新造で奮戦ののちに討ち死にしました。

織田勝長の長男は織田信雄に仕え、のちに加賀前田家に仕えたので子孫はそのまま金沢藩に仕えたという事です。

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キリスト教に入信し洗礼を受けた六男・織田 信秀

織田信長の六男として生まれ、生年と母に関しては不明です。

本能寺の変の後、稲葉良通(いなばよしみち)の口添えによって豊臣秀吉の家臣となります。また、大坂の修道院で受洗、キリスト教に入信もしました。

九州征伐に兵を率いて従軍、この頃は禁教令以前であったため、象牙のロザリオをつけて出陣、文禄年間、京都で癩病のために亡くなりました。

 

明治維新まで高家・旗本として存続した信高系の祖である七男・織田信高

織田信高は織田信長の七男として生まれました。母はお鍋の方と言われていますが、異説もあるので確定されていません。妻は佐々成政(さっさなりまさ)の娘・光秀院です。

本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に組したとも、西軍に属したとも言われていますが、本戦には参加していません。

信高は28歳の若さでこの世を去りますが、嫡男・高重は幕臣として召し出されて近江・安房に2000石を与えられたので、高家となり同家は明治維新まで高家旗本として存続してきます。

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関ヶ原の戦い後出家した八男・織田信吉

母はお鍋の方で、織田信高とは兄弟。本能寺の変後、兄同様に豊臣秀吉に仕え、羽柴武蔵守と名乗り高野に館を構えていましたが、役職などは不明。

関ヶ原の戦いでは西軍につき大谷吉継隊の前備えを担い奮闘、関ヶ原の戦い以後は改易となり豊臣家を頼り晩年は剃髪をして道卜と号しました。

子孫が水戸へ移住して津田姓を名乗ったとされ、大徳寺塔頭総見院にある信吉の墓石には「水戸津田家先祖」と刻字されています。

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他の兄弟と同じように乱世の世を生きた九男・織田 信貞

織田 信貞の母は土方氏で織田信長の九男として生まれ、本能寺の変の後は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり仕えました。

関ヶ原の戦いでは、西軍に参加し戦後改易さます。その後、大阪の陣で徳川方となりました。

織田信貞は微禄のまま亡くなりましたが、孫の代になって1,000石取りに復し、高家旗本として徳川家に仕えました。

 

茶人として生きた十男・織田信好

織田 信好は織田信長の十男として生まれ母は不明。

本能寺の変の時は幼少で、豊臣秀吉に引き取られ家臣となりました。詳しい詳細は不明ですが茶人として生きたようです。

 

関ヶ原の戦いで戦死した十一男・織田長次

織田 長次は、織田信長の末子で母は不明。

本能寺の変の後、豊臣秀吉の馬廻となり、関ヶ原の戦いでは西軍として、兄・信吉とともに大谷吉継の隊に所属して奮闘するも討死しました。

現在に続く子孫

織田信長の現代に続く子孫は、天童藩と柏原藩という大名家に分類されますが、元は織田信長の次男・織田信雄の子孫になります。その2藩の現当主を紹介していきます。

 

旧丹波柏原藩

織田 信孝(おだ のぶたか)

学習院大学法学部卒業・日本のフリージャーナリスト、コピーライターとして活躍中。祖父は子爵・織田信大(おだのぶひろ)です。

 

出羽天童藩

織田 信恒(おだ のぶつね)

昭和42年(1967年)没。子爵・政治家・実業家、漫画「正チャンの冒険」の原案・文を作りました。子は織田信正、織田信昭ですが詳細不明です。

 

織田信高の系統

現・プロスケーターでタレントでもある織田信成

織田信長の七男・織田信高系統の末裔だと織田信成氏の祖父の代から言うようになったらしく、織田信成氏自身も自称しています。

しかし証拠とする家系図も3代ほどが完全に抜けていて、信ぴょう性が無いと言われていました。

また、明治以降華族となった大名筋の織田家末裔である織田信孝氏も全く知らないし、その事実は無いと断言しています。

このことから、織田信成氏が織田信長の子孫である根拠はないようです。