明治維新とは?真実や重要な人物、年表などをわかりやすく解説!

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徳川幕府の世を終わらせ、一気に近代的な国家へと変貌を遂げるために行われた明治維新。

薩摩藩と長州藩を中心とした勢力に他藩の有志や公家、当初は幕府側についていた勢力までもが寝返り、最終的には武力討伐という形で政権交代を成し遂げました。

この後、明治へと年号が変更され、行われた数多くの改革や制度変更を総称して明治維新と言います。

今回はこの明治維新で活躍した人物や年表、時代背景、最近話題になっている真実の明治維新などを分かりやすく説明していきたいと思います。

明治維新とは

1853年(嘉永6年)に浦賀に黒船が来航して以来、日本国内では欧米列強の侵略に対抗するため君主(日本では天皇)を奉じてこれに対抗する思想、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が全国各地で展開されます。

当初は鎖国政策を維持しようとする幕府と尊皇攘夷派との対立で京都を中心に多くの命が失われましたが、薩摩藩がイギリスとの戦争でその軍事力の差を痛感し開国派へと舵を切ったのを皮切りに、幕府内にも勝海舟のような開国派が登場したことで、浪士である坂本龍馬らが活躍し薩摩藩だけでなく、長州藩、土佐藩、越前藩などの雄藩が開国へと方針を転換し、国全体の流れが大きく変化します。

1867年(慶応3年)の徳川慶喜による大政奉還に始まり、王政復古の大号令、五箇条の御誓文によって、政権が徳川幕府から明治天皇を奉じた新政権へと移ったことを明治維新と言います。

 

最近話題の明治維新の真実

スタンフォード大学フーヴァー研究所教授・西鋭夫(にしとしお)氏は、講演録「誰も言わない明治維新の真実」のなかで明治維新の黒幕がイギリスで、イギリスが長崎のグラバー商会を通して坂本龍馬へ武器や軍資金を送り込み、これを薩摩や長州の軍事費として流用させたり、長州や薩摩からの優秀な若者を留学生として受け入れ、イギリスの政治体制や社会制度(銀行、郵便、鉄道など)を勉強させて日本のイギリス化をはかったという説を述べています。

他にも加治将一(かじまさかず)氏の「あやつられた龍馬―明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン」や榊原英資(さかきばらえいすけ)氏の「書き換えられた明治維新の真実」など現在、学校で習う明治維新とは違う視点から記述した書籍が多く見受けられます。

真実がどうなのかはこれから多くの検証がなされ、新たな文書や資料の発見などで裏付けされた方が真実となっていきます。

これからの歴史研究の結果を待ちましょう。

 

明治維新の重要な人物

坂本龍馬(さかもとりょうま)

土佐藩郷士。
勝海舟の影響を受け早くから開国派となり、長崎で貿易会社及び政治結社である亀山社中を設立。

薩長同盟を成立させ、大政奉還を推進するなど明治新政府樹立に貢献。

1867年12月10日京都にて暗殺(近江屋事件・享年33)

 

西郷隆盛(さいごうたかもり)

薩摩藩下級藩士。
1864年(元治元年)の禁門の変以降、薩摩藩の顔として外交、軍事部門で活躍、薩摩同盟締結時の薩摩の代表。

勝海舟との合意による江戸城無血開城など多くの功績により明治新政府では参議、陸軍大将となるも新政府内の対立により下野し、西南戦争の指導者として1877年9月24日に鹿児島で自刃(享年51)

 

大久保利通(おおくぼとしみち)

薩摩藩下級藩士。
青年期から頭角を表し、下級藩士出身ながら藩内で異例の出世を遂げ、薩摩藩政に関わり西郷隆盛の盟友として新政府誕生に貢献。

新政府樹立直後は廃藩置県、版籍奉還、内務省設立後は徴兵令、地租改正など明治政府の基盤となる制度を次々と実行。

明治11年(1878年)5月14日暗殺(紀尾井坂の変・享年49)

 

木戸孝允(きどたかよし)

長州藩士。
第二次長州征伐までは桂小五郎(かつらこごろう)として活躍。

第一次長州征伐後に外交担当、藩政の最高責任者として藩の舵取りを任され薩長同盟の長州側代表。

新政府では大久保利通とともに廃藩置県、版籍奉還に尽力、参議内閣制の導入、岩倉使節団の全権副使として欧米の視察へも帯同。

西南戦争中に持病が悪化、京都の別邸で死去(享年45)

 

高杉晋作(たかすぎしんさく)

長州藩士。
青年期から過激な行動が多く何度も謹慎、投獄、役職罷免なるが、1863年(文久3年)の奇兵隊創設や、第一次長州征伐中の功山寺挙兵によって長州藩の主導権を奪取など常に改革派として活躍。

第二次長州征伐では海軍総督として小倉城を陥落させました。

1867年(慶応3年)5月17日に肺結核により死去(享年29)

 

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

徳川幕府第15代将軍。
水戸徳川家出身、その後御三卿一橋徳川家の第9代当主から将軍職を継承。

幕末の動乱に備え幕府軍の軍制改革を行い、薩摩、長州による倒幕機運が高まると1867年(慶応3年)10月14日、政権返上を明治天皇に奏上(大政奉還)勅許を受け内戦の回避に努力しました。

1913年(大正2年)11月22日、風邪をこじらせ急性肺炎を併発し死去(享年77)

 

岩倉具視(いわくらともみ)

下級公家出身。
歯に衣を着せぬ発言で下級公卿ながらも朝廷内で大きな発言力を持ち次第に力を付けるも、朝廷の権威高揚策が尊皇攘夷派から命を狙われ、全ての職を辞し一度は失脚。

しかし孝明天皇崩御の頃から復権し、大政奉還、戊辰戦争などで常に薩摩、長州の後ろ楯となり、新政府樹立後は常に政府のトップとして君臨し国政を指導しました。

1883年(明治16年)7月20日喉頭癌により死去(享年59)

明治維新前後の年表

1853年7月8日
ペリーの来航

1854年2月13日
日米和親条約の締結

1858年6月19日
日米修好通商条約の締結

1858年7月5日
安政の大獄始まる

1858年10月25日
徳川家茂、14代将軍に就任

1860年3月3日
桜田門外の変

1862年2月11日
孝明天皇の妹・和宮降嫁

1862年4月23日
寺田屋事件

1863年7月2〜4日
薩英戦争

1863年8月18日
八月十八日の政変

1864年6月5日
池田屋事件

 

1864年7月18日
蛤御門の変

1864年7月23日
第一次長州征伐

1866年1月21日
薩長同盟の締結

1866年6月7日
第二次長州征伐

1867年10月14日
大政奉還

1867年11月15日
坂本龍馬暗殺

1867年12月9日
王政復古の大号令

1868年1月3日
鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争始まる)

1868年4月6日
五箇条の御誓文

1869年6月27日
五稜郭の戦い終戦、戊辰戦争終結

1869年7月25日
版籍奉還

1871年8月29日
廃藩置県

1871年12月23日
岩倉使節団出発

1873年1月10日
徴兵令施行

1874年2月1日
佐賀の乱

1876年10月24日
神風連の乱

1876年10月27日
秋月の乱

1876年10月28日
萩の乱

1877年2月15日
西南戦争勃発

1877年5月26日
木戸孝允病死

1877年9月24日
西郷隆盛自刃、西南戦争終結

1878年5月14日
大久保利通暗殺

 

明治維新まとめ

日本史上始めて、支配階級ではない者による政権交代劇となった明治維新は、参加した人物の年齢の若さや身分の低さなど日本の歴史がいままで経験したことのない事が数多く起こり、多くの血が流れ、意味のない戦闘行為も多数発生しました。

しかし徳川幕府から明治新政府へ政権が移り、徳川時代よりも強固な中央集権国家による支配体制が確立し、着実に欧米列強に対抗する力を蓄えていきます。

明治維新後の新政府の内政、外交が正しかったかどうかは歴史が証明していますが、約150年前におこった明治維新は、日本が近代国家への道を歩むこととなった歴史のターニングポイントであったことは間違いないでしょう。