高杉晋作の生涯とは?刀や子孫、死因などについて解説!

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師である吉田松陰の掲げた「草莽崛起」を実現し、日本初の民兵組織奇兵隊を世に生み出した革命児・高杉晋作。波乱と革命の短い生涯とはどんな人生だったのでしょうか。

また、晋作が死ぬまで肌身離さず持っていた愛刀秘話や、命を奪った死因、子孫などの話を詳しく説明したいと思います。

高杉晋作の生い立ち

高杉晋作は天保10年8月20日(1839年9月27日)、長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で代々毛利家譜代の士、大組高杉家に産まれました。

8歳より漢学塾(吉松塾)で学び、嘉永5年(1852年)に藩校の明倫館に入学しました。また、柳生新陰流剣術も学んでおり、後に免許皆伝となるほど剣術を極めます。

10歳の頃には、致死率50%と言われる天然痘(疱瘡)に罹りますが、生還しています。

 

吉田松陰との出会い、松下村塾の四天王へ

安政4年(1857年)、吉田松陰が率いる松下村塾に出入りするようになります。晋作は塾内で頭角を現し、久坂玄瑞(くさかげんずい)、吉田稔麿(としまろ)、入江九一(いりえくいち)とともに松下村塾の「四天王」と呼ばれました。

安政6年(1859年)には吉田松陰が江戸へ召喚され伝馬町に投獄されると、度々吉田松陰へ差し入れなどの世話をします。しかし、藩命により萩に戻る途中で吉田松陰の刑死の知らせを受けることとなりました。

 

父の勧めで結婚

万延元年(1860年)11月、井上雅子(マサ)と結婚します。晋作は22歳、雅子(マサ)は16歳でした。

吉田松陰は死後、藩から「乱民」扱いをされており、教えを受けた者も地元では同じ様に「乱民」呼ばわりされており、晋作も白い目で見らていました。

そんな中、松陰という道しるべを失い、何をするか解らない息子の暴走を止めるために、晋作の父は防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門(大組500石)の次女・雅子(マサ)との縁談を勧めます。

晋作は破天荒で鼻ぐりの無い暴れ牛と言われましたが、主君や父母に対する忠誠心、孝心が強い人間でした。また、上級武士としてのプライドも高く跡取りという自負がありましたから、父の家を思う気持ちを理解し結婚を承諾します。

 

清への留学で尊王攘夷思想を強める

晋作は久坂玄瑞と共に、師である吉田松陰の江戸召喚に対策を講じなかった長州藩の直目付・長井雅楽(ながいうた)の暗殺計画を立てていました。

それを知った周布政之助が、晋作を幕府使節随行員として上海へ渡航するメンバーに推薦し、長井暗殺を回避さようとします。松陰の「規諫(きかん)の策」の教えもあり、海外渡航を熱望していた晋作はこれは承諾し、海外へ留学することになりました。

この渡航時に書いた日記『遊清五録』によれば、清が欧米の植民地となりつつあり、奴隷のような扱いを受けている実情を知ったり、太平天国の乱を見聞きしたりと相当な危機感と驚きを持ったことを書き記しています。

晋作にとって、この留学は外国を打ち払おうとする尊王攘夷の思想を強めるきっかけとなったようです。

 

本格的な尊王攘夷運動を開始

晋作の渡航中に守旧派である長井雅楽らが失脚し、尊王攘夷派が巻き返していました。帰国後、晋作も積極的に尊王攘夷運動に加わり各藩の志士たちと交流をします。

ライバル視していた薩摩藩が生麦事件によって外国人を殺傷したことを知り、晋作は藩で実質的な攘夷が出来ないのであれば、松下村塾の門下や攘夷派の仲間内で外国人を刺殺する計画を立てます。

ところが、久坂玄瑞が土佐藩の武市半平太に話したばかりに、前土佐藩主・山内容堂(ようどう)の耳に入り長州藩世子・毛利定広に伝わってしまいます。

結局、無謀であると止められて実行には至らず、晋作は櫻田邸内に謹慎させらされてしまいました。

 

御楯組の結成

ここで大人しく謹慎していないのが晋作で、謹慎中に同志が集まって血盟書を作り、御楯組(即今攘夷を行う有志結社)を結成します。

文久2年(1862年)12月12日、同志達とともに、幕府が品川御殿山に建設中であったイギリス公使館の焼き討ちを決行し、その後も積極的に即今攘夷を訴えます。

しかし、藩も周りも自分の思うように動かないことに苛立ちを募らせ、信頼する周布政之助からも「10年早い、時期が来るまで待ったほうがいい」と言われます。

これを受けて、晋作は「10年間、暇を頂きます」と剃髪をして東行(とうぎょう)と名乗り、吉田松陰の生誕地、松本村の近くで隠遁生活に入ってしまいました。

奇兵隊の誕生から謹慎まで

文久3年(1863年)5月10日、幕府が孝明天皇の強い要請によって制定した攘夷期限が過ぎたため、長州藩は攘夷を決行し、関門海峡(馬関海峡)を通過する外国船の砲撃を行いました。しかし、逆に米仏から報復を受けて惨敗してしまいます(下関戦争)

この敗北によって武士に対する信頼は失墜し、自分達の事は自分達で守らないければならないと領内各地で一揆が起こりました。

 

隠居中の高杉晋作に出番が回る

これにより藩政改革をよぎなくされた藩主・毛利敬親(もうりたかちか)は、隠遁生活を送っていた晋作を呼び出して対応策を訪ねます。

晋作は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」と提案し、毛利敬親は晋作の提案を聞き入れて、彼に下関の防衛を任せることにしました 。

晋作は、長く平和な時代が続いていたことで武士だけではどうにもならず、吉田松陰の「草莽崛起」の考えから、下級武士、農民、町人など身分にとらわれず広く募兵することを決めます。

集まった軍隊に対し、晋作は正規兵に反対する意味も込めて「奇兵隊」と名付け、その初代総督となりました。

この奇兵隊に触発されて、遊撃隊などいくつもの長州藩諸隊が結成されますが、数か月後に奇兵隊士が撰鋒隊(正規の武士隊)と衝突した教法寺事件の責めを負い、晋作は総督を更迭されます。

 

吉田松陰と同じ野山獄へ

その後も長州藩は厳しい状況が続きます。京都で薩摩藩と会津藩が結託したクーデター・八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されてしまったのです。

世子・毛利定広の命を受けて、晋作は藩の復権の為、京に向け進発すべしと強く主張する来島又兵衛を説得しようとしますが、失敗します。

晋作は説得途中で、桂小五郎や久坂玄瑞の意見を聞くという理由で京都へ行ってしまいますが、この京都行きは藩に無断で行ったため、脱藩ということになりました。

京都で放蕩生活を送っている晋作に、世子・毛利定広から帰国を促す直筆の手紙が届き、晋作は萩に戻ります。

そして脱藩の罪を問われ、かつて師の吉田松陰がいた野山獄に投獄されますが、父の働きかけのおかげで、のちに自宅での謹慎となりました。

 

孤立していく長州藩・同士の死

晋作が野山獄に投獄、自宅謹慎している間に、京都では池田屋事件が起こります。この事件では仲の良かった松下村塾四天王の一人、吉田稔麿が犠牲になります。

激昂した長州藩は進軍して禁門の変を起こし、ここでも久坂玄瑞、入江九一など松下村塾の同士が次々に犠牲になってしまいました。結局、説得した来島又兵衛も戦死することになります。

 

四国艦隊下関砲撃事件

元治元年(1864年)8月、英・仏・米・蘭の4か国連合艦隊は、下関と彦島の砲台を徹底的に砲撃占領しました。

晋作は赦免されて、この和議交渉の任にあたっており、この交渉で賠償金に関しては幕府の攘夷の名のもとで行ったものということで、一環して支払いを拒否します。

 

「魔王のようだった」高杉晋作

この講和会議の通訳として同席した伊藤俊輔(博文)の後年の回想として、「彦島」の話があります。

連合軍は彦島の租借を要求しましたが、晋作はこの要求に対し、古事記を通訳させて有耶無耶にし、結局取り下げさせることに成功したという話です。

伊藤俊輔(博文)の自伝にあるだけで実際の記録には残っていませんが、当時の通訳官の晋作に対する印象は記録に残っており、「彼は魔王のようだった。」と書かれています。とても高圧的で一歩も引かなかった様子が伺えます。

 

決死の功山寺挙兵から逃亡まで

幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では存亡の危機を前に、今まで藩制を引っ張ってきた正義派と、それに反発する俗論派の対立が激しくなります。

最終的に俗論派が藩政を掌握し、正義派高官を多数粛清していきます。そのため、正義派だった晋作は九州へ逃げ、野村望東尼の平尾山荘に匿われました。

しかし、粛清された人物の中に周布政之助も含まれており、彼が自刃した事を知って長州へ戻ってきます。

 

俗論派を排斥する

今や藩政府となった俗論派と戦うために、自分が作った奇兵隊の面々に決起するように説きますが、2代目奇兵隊総督・赤禰武人、軍監・山縣狂助(有朋)をはじめ、幹部は晋作に同調しませんでした。というのも、藩政府を相手にするには圧倒的に数が足りず、挙兵は無理というのが彼らの意見でした。

結局皆が去ってしまい、残ったのは伊藤俊介(博文)のみというありさまでした。

奇しくも赤穂浪士討ち入りの日と同じ12月15日夜半、晋作は功山寺にて伊藤俊輔(博文)の力士隊、石川小五郎の遊撃隊、長州藩諸隊を率いてたった80名ほどで挙兵しました。

後に奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の椋梨藤太らを排斥して藩の実権を奪い返すことに成功します。

 

命を狙われ逃亡

決死の挙兵後、藩政を奪還することに成功した晋作は下関開港を推し進め、最新の武器を買い入れる計画を極秘に進めます。

しかしその情報が漏れ、長府藩士(下関の大半は長府藩の領地だった)や攘夷派、俗論派の両派から命を狙われることになり、妾・おうのと大阪へ逃げます。

その後は四国道後へ入って1週間ほど道後温泉で過ごし、博徒の親分で勤皇の志を持つという日柳燕石を頼って金比羅神宮がある讃岐琴平へ向かい、匿われます。

下関開港に関して、長州藩は開港しないという声明を出し、その後、桂小五郎が下関に入り事態を収拾させました。また、師事していた儒者、加藤有隣らにも諭され、晋作は戻る事にします。

 

第二次長州征伐(四境戦争)、海軍総督として大暴れ

藩存亡の為、晋作ら藩士は一丸となり、防衛の強化や対策を進めていきます。

慶応2年(1866年)1月21日、桂小五郎、井上聞多、伊藤俊輔たちが、土佐藩・坂本龍馬、中岡慎太郎などの仲介により、薩摩藩と薩長同盟を締結します。

同年5月、晋作は伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その途次、長崎で蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を購入しました。

同年6月7日、幕府艦隊よる周防大島への砲撃が始まり、第二次長州征伐(四境戦争)が開始されます。この時、晋作は海軍総督として自ら購入した「丙寅丸」に乗船し、戦闘指揮を執りました。

そして周防大島沖で幕府艦隊を夜襲し、第二奇兵隊等と連携して幕軍に占拠されていた周防大島の奪還に成功。小倉方面でも幕府軍を敗走させるなど、海軍総督として奮闘しました。

 

大政奉還を見ることなくこの世を去る

戦いの最中、大阪で将軍・徳川家茂が死去したことで幕府に対する各藩の離脱が進み、徳川最後の将軍となる徳川慶喜は、朝廷に休戦協定を願い出ました。

これは事実上の敗北であり、幕府の権威は大きく失墜。その後、討幕の動きは加速し、慶応3年(1867年)11月の大政奉還へと繋がっていきました。

晋作は、下関市桜山林家離れで肺結核の療養中、慶応3年4月14日(1867年5月17日)未明に死去します。臨終には父・母・妻・息子、野村望東尼・山縣狂助(有朋)らが立ち会っており、享年29(満27歳)でした。墓は山口県下関市吉田の東行庵にあります。

時代の変わり目である大政奉還に立ち会うことなく、晋作はこの世を去ることになったのですね。

 

高杉晋作の死因

高杉晋作の死因は、戦前の死因第一位とされていた癆痎(ろうがい)「肺結核」です。

昔は、肺結核の場合、綺麗な空気の場所で滋養のあるものを食べて療養することが一番の治療と言われていました。そのため、晋作に姫島の牢獄から助け出された野村望東尼と、妾・おうのに看病される形で、彼は下関桜山に庵を建てて療養を始めます。

桜山には奇兵隊招魂場があたため、多少なりとも拠り所を見出して療養場所に選んだのでしょう。

 

高杉晋作の刀

高杉晋作の刀は現存していませんが、写真や書物の記録などから「安芸国佐伯荘藤原貞安」という刀と「粟田口」という刀を愛用していたと言われています。

高杉晋作は長めの刀を好んだようで「安芸国佐伯荘藤原貞安」は二尺七寸(81.18㎝)です。当時の通常サイズが二尺三寸(69.69㎝)なのでかなり長めとなっています。

 

「安芸国佐伯荘藤原貞安」に関するエピソード

晋作の愛刀・安芸国佐伯荘藤原貞安に関するエピソードは、田中光顕が記した「維新風雲回顧録」の中にあります。

土佐藩の田中光顕は、薩摩藩浪人・梶原鉄之助から譲ってもらった薩摩仕様の刀・安芸国佐伯荘藤原貞安を持っていましたが、高杉晋作がそれをどうしても欲しいと言って引かないので、弟子入りを条件に、田中が晋作へその刀を譲ったという話があります。

晋作は死ぬときまで安芸国佐伯荘藤原貞安を肌身離さず持っていたらしく、彼の死後、田中が探し回りましたが、出てこなかったようです。

 

「粟田口」に関するエピソード

「粟田口」は、京都粟田口の地名でこの地に開いた粟田口一派の刀の名称です。

鎌倉初期から中期にわたり最も栄えたと言われており、開祖は粟田口国家。同じ系統の中に国宝の短刀がありますが、晋作の刀は長刀のものだったため、名刀と言われる類のものでは無かったと思われます。

晋作は松下村塾の門下生である久保清太郎に2尺5寸以上の刀の購入を依頼する手紙を出しています。

ただ、「粟田口」は種類も系統も多く、実際にどの「粟田口」なのか未だにわかっていません。

 

高杉晋作の妻

晋作の妻は、長州藩士である井上平右衛門の次女・雅子(マサ)です。井上家は石高も高杉家より上でした。

この縁談の話は父・小忠太の強い薦めにより実を結び、親への忠義が強かった晋作は承諾して結婚にいたりました。

また、晋作は若い時から遊び慣れしており、面食いだったそうで、父として防長一の美人と言われていた女性ならば息子も落ち着くのではと考え、雅子との結婚を薦めたと言われています。

晋作の死の間際まで連れていた妾・おうのは、晋作が手紙に「人にばかにされないように」と心配して書いたくらい、おおらかで無邪気な性格だったと言われていますが、雅子(マサ)は武家の娘として厳格に育ち最後までプライドが高く、まさに武士の嫁というような女性でした。

晋作は手紙に自身が死んだ後、再婚せず高杉家を守って欲しいと残しています。雅子(マサ)はその言葉を忠実に守り、大正11年(1922年)119日、東京麻布の自宅にて満77歳でこの世を去りました。

 

高杉晋作の子孫

高杉晋作の子孫はどのような生涯を送ったのでしょうか。それぞれ解説していきます。

 

晋作の一人息子・東一

高杉晋作には妻・雅子(マサ)との間に実子の一人息子がいます。名は東一(とういち)と言い、晋作の臨終時、3歳だった東一は母雅子(マサ)と同席していました。

東一は外交官として活躍し、ホノルルやウィーンなどに駐在勤務していました。また、23歳の時に「英和新国民辞書」纂訳しています。大正2年(1913年)7月11日に亡くなり、享年48歳でした。

父である晋作は吉田松陰から「明頑」と言われましたが、政府要人となった父の知人などに爵位を斡旋されたとき、「親の七光りでいただくなら欲しくない」と東一は断ったと言います。息子も父譲りの頑固ものだったようです。

 

晋作の孫・春太郎

東一と妻の茂は、二男二女を授かります。

二女の詳細はわかりませんが、東一の長男・春太郎は戦中、陸軍主計少尉として満州・シンガポールを転戦しており、戦後、商社勤務をしています。

昭和32年(1957年)5月に亡くなり、享年54歳でした。

 

晋作の曾孫・高杉勝氏

晋作の曾孫は高杉勝氏で、大成建設に勤務していました。

晩年、曾祖父の遺品をめぐり、東行庵から提訴され最高裁まで争います。

最高裁は12月15日付で東行庵の上告を破棄しますが、高杉勝氏はその日を待たずに、平成22年(2010年)11月に亡くなっています。享年77歳でした。

高杉勝氏には一男と一女があり、晋作の玄孫・高杉力氏が現、高杉家当主になっています。

 

高杉晋作のエピソード

さいごに、晋作にまつわるエピソードを紹介していこうと思います。

 

三味線と都都逸

高杉晋作と言えば三味線です。彼は折り畳み式の三味線を持ち歩いて、常にそれを奏でていたと言われています。

奇兵隊を募る時にも三味線を鳴らしながら歩いたと言われており、江戸を中心に広まった俗曲「都都逸(どどいつ)」を得意としていました。

晋作による有名な都都逸がいくつか残されており、「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都都逸は特に有名で、遊女の艶っぽい客(主)に向けて思う気持ちを歌にしています。

他にも「聞いて恐ろし、見ていやらしい、添うてうれしい奇兵隊」という、奇兵隊のテーマ曲のようなものなどがあります。

 

松下村塾の龍と虎

師である吉田松陰は、晋作の人よりも優れた非凡な才能と政治家気質を早くから見抜き、久坂玄瑞をと共に褒め、二人を切磋琢磨させました。高杉晋作と久坂玄瑞は松下村塾の四天王にして、龍虎、双璧と呼ばれたというエピソードがあります。

 

公金横領・脱藩の常習犯

晋作は横領の常習犯だったようで、遊学などの公金も度々使い切り、底をついていたようです。脱藩、逃亡も何度もあり、その都度かなりの藩の資金を使いこんでいます。

また、藩の金を使い、独断で軍艦や蒸気船を買う契約をしており、丙寅丸(オテントサマ丸)の購入も独断でした。

上海渡航のために藩から出された千両とも三千両とも言われた金も、長崎で足止め中に丸山遊郭で使い果たし、足りないから送って欲しいと催促しています。

公金の扱いに無頓着な人物だったようです。

 

坂本龍馬に贈ったピストル

晋作は上海でピストルを2丁購入していますが、そのうち1丁のピストル(S&Wモデル2アーミー 33口径6連発)を坂本龍馬に贈りました。

龍馬は伏見の寺田屋で襲われたとき、このピストルを使い応戦しています。しかし、逃走時に捨ててしまったらしく、現在は残っていません。

 

彦島の租借を古事記で回避

連合国代表との和議交渉の時に、彦島の租借を拒絶する為に「古事記」を延々と通訳の伊藤俊介(博文)に訳させ結局うやむやにして回避しました。

後に伊藤俊輔(博文)は、あの古事記の件がなければ彦島は香港になり下関は九龍半島になっていたと語っています。

 

背が低いことを気にしていた

晋作は人より少しばかり背が低い事を気にしていたそうです。

霊山歴史館に等身大パネルがあるようですが、150㎝ほどなので、今の時代から言うと相当小柄な男性です。

晋作は2尺7寸(81.81㎝)の刀を引きずるように歩いていたと言われています。

 

鯛が好物だった

後年、妻・雅子(マサ)がジャーナリスト横山健堂に語った話の中で、晋作の好物に関するものがあり、鯛のあら煮と長州鮨(鯛の身の押し鮨)をよく食べたそうです。

実際、1970年代にテレビ時代劇の「花神」の中でも、庵に掃除にきた妻が「旦那様の好きな鯛のアラ煮をもって・・・。」というセリフがあります。

妾であったおうのも、晋作は療養中、鯛の身と骨についた身を塩煮にしたのを好んだと話しています。