松下村塾とは?四天王の塾生や場所、教えについて解説!

幕末を語る上で、かかせない人物が吉田松陰ですが、その松陰が子弟達と暮らしを共にし、自ら教えた私塾があります。それが松下村塾です。

直接の指導は短い期間ながらも、彼の熱いパッションは維新の志士達に伝わり、脈々と受け継がれていきます。

明治新政府にも内閣総理大臣をはじめ多数の逸材を輩出した松下村塾とはどんなものなのでしょうか。場所や塾生、四天王と言われた子弟などについて、詳しく説明していきたいと思います。

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松下村塾の歴史

松下村塾は天保13年(1842年)吉田松陰の叔父・玉木文之進(たまき ぶんのしん)が開塾した私塾で、場所は、長州藩領内、萩の「松本村」の自宅です。

玉木文之進が官職についてからは、彼の多忙により松下村塾は一時廃止されます。

その後、松陰の養子先養母の弟である外淑・久保五郎左衛門が松下村塾の名前を引き継ぎ、私塾を開きます。

 

松下村塾の源流は牢獄?

この塾では吉田稔麿や伊藤博文などが学んでおり、松陰に引き継がれていくことになります。

安政3年(1856年)、国禁を犯して投獄されていた松陰に藩からの出獄指令が出され、野山獄から1年2か月を経て自宅で幽囚の身となります。自宅では幽囚の身である松陰に3畳半ほどの幽囚部屋が用意されました。

帰宅して二日目の夜から父・百合之助、兄・梅太郎、それに外叔、久保五郎左衛門の三人が松陰の幽囚室に「孟子」の講義を受けたいと集まります。

なぜ「孟子」かというと、野山獄で同囚人に松陰が行っていた「孟子」の講義が出獄することで時間切れとなり、序説から万章上篇まで進んだところで中断となってしまった為、その講義を獄囚の者に代わって自分たちが聞くから続けて欲しいと集まってきたのです。

 

あらゆる身分の人々が松下村塾へ

そして「孟子」の講義だけではなく読書会も開かれるようになり、母、妹も加わった「婦人会」と称する女性組も「武家女鑑」等の講義を聞くため参加するようになりました。

松陰を思う家族の労いから始まった杉家の幽囚室の勉強会から、やがて松陰を慕う者や、国禁である海外密航を図った松陰の大胆さに好奇心をかき立てられた幾人もの若者たちが、教えを請いに訪ねてくるようになります。

次第にその人数は増え、3畳半の幽囚室というわけいにはいかなくなりました。そこで、実家の前にあった八畳一間の小屋を修復して塾舎とし、松陰はそこへ移り住み、塾生と共に生活をしながら塾を拡張していきました。

松陰は「学は人たる所以を学ぶなり(人が人たる理由を学ぶこと。学びは知識を得るためでもなく、己を磨くためであり、己の役に立つためでも、役目を果たすためでもなく、 世の中の為に己がすべきことを知るため)」という言葉を残しているように、志を持ち世を良いものとしょうとする気持ちがあるものは、身分や階級にとらわれず塾生として受け入れました。

 

松下村塾の教え

松下村塾には塾則がありました。

塾則

一、両親の命、必ず背くべからず。

一、両親へ必ず出入を告ぐべし。

一、晨起盥梳(しんきかんそ)(朝起きて顔を洗い髪をくしけずる)、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、東にむかひ天朝を拝する事、仮(たと)令(ひ)病に臥す共怠るべからず。

一、兄はもとより、年長又は位高き人には、かならず順ひ敬ひ、無礼なる事なく、弟はいふもさら也。品卑しき、年すくなき人を愛すべし。

一、塾中に於て、よろづ応対と進退とを、切に礼儀を正しくすべし。

 

右は第一条より、終り五条に至り、違背あるべからず、第一条の科は、必ず座禅たるべし。其の他四条は、軽重によりて罰あり。

家学である「山鹿流」を軸に、人として武士としての振る舞いを教えています。

また、松下村塾では身分による隔たりは無く、今もっとも大事である国策について考え、答えを教わるのではなく、自ら考えて国の事を共に論じることを重んじた、熱き魂の教えでした。

 

松陰亡き後の松下村塾

井伊直弼による安政の大獄の渦中、松陰は自ら老中暗殺計画をバラしてしまい、その罪を問われて処刑されてしまいます。

そして幕末動乱期に至って塾生の多くが地元を離れたため、松下村塾は中断することになりますが、その後、馬島甫仙が松陰の遺命を思ってか、騎兵隊書記官を辞して、空き家であった松下村塾を再開し、指導の傍ら遺稿整理も行いました。

しかし、明治三年、山田顕義の誘いを受け大阪へ出る為、塾を閉じます。

明治5年(1872年)より、再度、玉木文之進が退官して塾頭となり、塾の場所を自宅に移して開塾をします。しかし、前原一誠が起こした萩の乱に玉木正誼を始め一部の塾生が参加したことで責任を感じ、切腹したため閉鎖します。

そののち実兄の杉民治が明治13年(1880年)ごろに松陰の意思を引き継いで開塾。最終的には、明治25年(1892年)、杉民治が私立学校の校長に就任したため閉塾しました。

脈々と意思を受け継ぎ続いてきた松下村塾の50年に渡る歴史に幕が閉じられたのです。

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松下村塾の現在

松下村塾は山口県北部萩市の松陰神社境内に当時から修理、修復を繰り返されていますが、現存しています。生家や幽囚されていた建物なども残っており、外観のみ見学ができる指定遺産になっています。

また、平成27年(2015年)「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式に世界遺産登録されています。

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松下村塾の四天王

 松下村塾には多くの塾生がいました。その中でも特に有名なのが高杉晋作久坂玄瑞です。しかし数多くの塾生の中で有名なのは二人だけというわけではなく、「四天王」と呼ばれた塾生がいました。

むろん、高杉晋作と久坂玄瑞が四天王のうちの二人ですが、残る二人は誰でしょうか。それは、吉田稔麿入江九一です。

吉田松陰の教えを請い松下村塾に来ていた若者は、記録に残されているだけでも50人もの塾生がおり、教えを請った塾生は90人以上とも言われていますが、その中から維新後の新政府で活躍し日本をけん引する政治家や軍人が何人も排出されています。

その中でも四天王と呼ばれていたのですから、この四天王は特に優れた塾生だということでしょう。

 

久坂玄瑞(くさかげんずい)

「『識』の晋作、『才』の玄瑞」。これは安政5年(1858年)高杉晋作の江戸の遊学を祝う走行会で松陰が口にした言葉です。互いに意識するように発破をかけ褒めたたえたのです。

突出した才能のある久坂玄瑞は、知識があり才能がありすぎるがゆえに、学者気質で、理想論を追い求めて周りが見えなくなることがあったようです。

最期は禁門の変で亡くなってしまいます。

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高杉晋作(しんさく)

久坂玄瑞に対し、高杉晋作は学識が少しばかり足りませんでしたが、時世を見る見識は誰よりも高く、現実的かつ政治家気質であり、物事を客観的に見て判断を下すことができたようです。

この二人が互いに競い合い、子弟の間で二枚岩でいればこんなに心強いことはないと松陰は激励していたそうです。

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吉田稔麿(としまろ)

吉田稔麿は松陰から「才気鋭敏にして陰頑なり」と評されています。寡黙ながら才能は際立っていて一見そうは見えないけれど、実は芯がしっかりしてとても頑固だと言うことでしょう。

松陰は高杉晋作の事を「陽頑」と言っているので、吉田のことは対比として語ったのだと思います。

 

入江九一(いりえくいち)

入江九一は尊王攘夷運動で藩から認められ、のちに山縣有朋、伊藤博文と共に「士雇」(さむらいやとい)の士分になりますが、元は足軽の子で自分自身が家計を助けるために藩の下働きをしていました。身分の隔たりなく教えた松陰だからこそ生涯の師と巡り合えたのです。

初対面の入江九一に対して、松陰は吾れの甚だ杉蔵(入江九一)に貴ぶ所のものは、その憂いの切なる、策の要なる、吾れの及ばざるものあればなり(身分低い足軽の子供でさえ国を憂いて策を考えている。それも私よりも遥かにすばらしい)」と絶賛しています。

老中襲撃というとんでもない計画を松陰が決行しようとした際、さすがに松陰の身を案じた四天王3人は反対しましたが、非常に愚直で真っすぐだった九一と弟だけは、迷わず血判を押して松陰についていくことを決めています。

松陰は「久坂君たちは優秀だが度胸がない。しかし君たち兄弟だけは、国のために死ぬことができる男児である」と言って称えたといいます。

その後、老中襲撃計画は実行されることなく、松陰は再度野山獄へ投獄されることになりますが、九一兄弟だけは愚直に計画を実行に移そうとしていたそうです。

江戸送還が決まった松陰は、彼の意思を継いで必ず行動することを誓う九一兄弟の手紙を読んで涙を流し、品川弥次郎に手紙の保管を頼みました。また、入江九一もこの時の手紙を大切に保管しています。

このように、入江九一は短い期間の子弟関係にも関わらず、松陰からの絶大な信頼を寄せられていることから、四天王として認識されているのでしょう。

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四天王の最後

松陰にこれほどまで絶賛され、四天王と呼ばれた彼らのその後は、皮肉にも成功や栄光とは程遠く、4人ともに大政奉還を見る事なく、若くしてこの世を去ることになります。

まさに、四人に通ずるのは大輪の花を咲かせ、激しい風で一気に散る花のような生涯だったと言う事です。

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四天王以外の有名な塾生

松下村塾からは四天王以外にも、のちに有名になる塾生が多数輩出されています。

松陰の近しい直弟子達のほとんどが、維新混乱の最中次々と命を落としているので、有名な塾生は、明治の新政府以降日本に貢献し、活躍した人物達が多いです。

この項目ではそういった人物を紹介していきます。

 

伊藤博文(ひろふみ)

兵庫県知事・初代内閣総理大臣・宮内大臣・密院議長・貴族院議長・韓国統監の初代を歴任しました。最期は明治42年・10月26日、ハルピンで民族運動家・安重根によって射殺されます。

日本銀行券C千円券(1963年11月1日 – 1984年11月1日発行)の肖像として採用された偉人です。

 

山縣有朋(やまがたありとも)

奇兵隊の軍艦を勤め、内務大臣・内閣総理大臣・司法大臣・枢密院議長・陸軍大将(元帥)を歴任し国軍の父と言われました。

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野村靖(やすし)

入江九一の実の弟。第二次長州征伐で活躍し神奈川県令・駐仏公使・内務大臣・逓信大臣を歴任しました。

 

飯田俊徳(としのり)

奇兵隊に入隊した後にオランダへ留学し、その後、工部省・鉄道局に勤め鉄道庁部長となっています。

はじめて日本人のみで施工した、東海道本線京都・大津間・逢坂山トンネル建設の総監督を務めました。

 

品川弥二郎(やじろう)

御楯組の結成に参加して薩長同盟戊辰戦争で活躍しました。維新後は内務大臣を務めてします。

獨協学園や京華学園を創立しており、信用組合や産業組合の設立にも貢献しています。

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山田顕義(あきよし)

禁門の変、長州征討、戊辰戦争、西南戦争に参加しており、後に陸軍中将・初代司法大臣を勤めました。

また、日本大学の創設者でもあります。

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さいごに

松下村塾の歴史や教え、四天王を含む塾生などについて紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

これほど後世に多大な影響を与える人材を輩出した学び舎は、松下村塾以外にないのではないかと思えるほどですね。

松下村塾の原動力であった吉田松陰の凄さも同時に知ることができたと思います。

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