西南戦争とは?起こった原因や西郷隆盛についてわかりやすく解説!

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西南戦争。それは「西郷隆盛をリーダーとする薩摩藩の士族たち」VS「当時出来上がったばかりの明治政府」の戦いです。

西郷は江戸幕府を終わらせた「維新の三傑」として知られる英雄です。

ということは、もともと明治政府側の人間だったということですが、それが何故、その明治政府と対立してしまうことになってしまったのでしょうか。

日本史上、最大の内乱と言われているこの西南戦争が起こった原因と、その結末をわかりやすく解説していこうと思います。

西南戦争が起こった根本的な原因は士族たちの積もり積もった不満?

士族とは、簡単に言うと江戸時代の武士階級に当たる人々で、江戸幕府を倒して明治政府を打ち立てることに大きく貢献した人々です。

西南戦争とは、この士族たちが明治政府に対して起こした戦争です。

当時の士族たちが明治政府に対してどんどん不満を積もらせていき、西郷隆盛が起爆剤となってその不満が爆発したことが原因で、西南戦争が起こったのです。

なぜ士族たちは不満を感じていたか。

それは明治政府が、士族の特権を次々に廃止し、それによって士族としてのプライドも傷つけられたからです。

 

経済的基盤の揺らぎ

士族が不満を感じた大きな原因の一つとして、経済的基盤の揺らぎが考えられます。

当時、明治政府は人口わずか5%の士族に対して、国家予算の約4割に当たる給料を与えており、財政困難に陥っていました。その状況を変えるべく、秩禄処分、金禄公債条例発布などを行い、士族への給料を大幅に削減したのです。

そうなると、士族は自分で商売でもして生計を立てなければいけませんが、いきなりそうしようと思ってもうまくいくはずがありません。

この経済的困窮によって、士族の明治政府に対する不満が溜まっていったのです。

 

苗字と帯刀の特権がなくなり、精神的ダメージも受けた

経済的な問題だけではなく、精神的なダメージも士族に与えた影響は大きいでしょう。

士族の前身である江戸時代の武士は、領主階級であることを示す苗字を名乗る権利と、武門の証である武具等を腰に帯びる帯刀権という権利を持っていました。

しかし、明治政府になってからはこの苗字と帯刀の権利が士族から奪われ、誰でも苗字が名乗れるようになり、徴兵制によって農民から軍人になることも可能になったわけです。

つまり、士族としての存在価値が急速になくなり、武士の出身というプライドをズタズタに破られてしまうんですね。

当時の士族の立場からすると、江戸幕府に対抗して明治政府を打ち立てたのは自分たちなのに、それに対する見返りもなく、逆に江戸時代に持っていた特権さえ奪われていったのですから、不満が溜まって当然かもしれません。

経済的ダメージと精神的ダメージ。この2つが明治政府に敵対する大きな原因となっていったのです。

西郷隆盛をリーダーとして、溜まりにたまった不満が爆発!

明治6年、士族の間で明治政府に対する不満が高まっていた頃、西郷隆盛は朝鮮に戦争を仕掛けるという「征韓論」を提唱しましたが、そのことに慎重的だった政府と考え方が合わず、重職を辞して鹿児島に戻ってきていました。

西郷隆盛といえば、既に数々の功績を成して相当な有名人だったので、鹿児島でその名を知らない人はいませんでした。そのため、熱烈な支持者も多く、明治政府に不満を抱いていた多くの士族が、鹿児島にいる西郷の元に集まり出しました。

その頃、九州の各地で政府に対する暴動が起こってきており、西郷の元に集まった士族たちも、かなり気が立っていた状態だったようです。

このまま彼らを放置してしまうことで、ここでも暴動が起きてしまうという可能性を危惧し、西郷は漢文や軍事を学ぶ私学校を設立して士族の教育に励みます。

 

西郷率いる薩摩藩は、明治政府にとっての脅威へ

しかし、これが明治政府にとって脅威に映ったのです。

というのも、西郷隆盛はいわば若い士族たちのカリスマ的存在。その彼が軍事訓練を行う私学を設立し、そこに明治政府に不満を持つ多くの士族が集まっているのです。

ただでさえ、当時は各地で政府に対する反乱が起こっている状態。もしその時に、西郷隆盛という強力なリーダーの元、統制された軍隊が明治政府に挑んできたら、大変な事態に陥るのは明らかです。

そこで、明治政府は薩摩藩の火薬庫から武器弾薬を大阪へ移し出そうとしました。しかし、それを目撃した薩摩の士族たちは当然のことながら「何を勝手に持ち出そうとしているんだ!」と怒り、衝突。

逆に政府側の弾薬庫を次々と襲撃し始めます。

 

戦争には消極的だった西郷隆盛

当初、西郷隆盛は政府との戦争に消極的でした。

元々は、「行き場のなくなった士族たちに、新政府内で役割を与えてほしい」と西郷は願っていたのです。

しかし、武器弾薬の持ち出しだけだはなく、今度は政府が西郷を暗殺しようとしている事実までもが発覚します。

実はこの時、政府側が薩摩藩のリーダーとしての西郷の意思を確かめるべく「視察しに行った」つもりでしたが、それを薩摩側は「(西郷を)刺殺しにきた」と誤解してしまったという説もあります。

ですが、実際に政府の人間である大久保利通からの使者も暗殺を自白したことから、薩摩側の政府に対する不信はピークに達してしまい、西南戦争は避けることのできないものとなりました。

ちなみに、西郷隆盛の弟である西郷従道は、兄に敵対する官軍側として参戦しています。

 

西南戦争の始まり。熊本城、田原坂などで激戦

最初は、熊本城やその近辺から西南戦争の火蓋が切って落とされました。

加藤清正が建てた難攻不落の熊本城ですが、それを守る官軍は4000人。一方、攻める薩摩軍側は14000人。

薩摩軍は時間をかけずに熊本城を一気に落とすという強襲作戦を仕掛けますが、熊本城の堅牢さに阻まれ、うまくいきません。

そこで、兵糧攻めによって長期的に熊本城を落とす作戦に変更します。

しかし、その間に官軍側は絶え間なく援軍を送り、薩摩軍はその対応に追われます。

当時、大砲などの重装備を伴う官軍の軍隊が熊本へ向かうには、田原坂という道を通るのが最適でした。そのため、この地は必然的に西南戦争の激戦地となるのです。

官軍と薩摩軍、互いに同数の死者数を出し、その戦いの傷跡が100年後にも鮮明に残るほど激しい戦いでしたが、軍杯は官軍側にあがります。

田原坂で薩摩軍側の激しい抵抗に手を焼いていた官軍でしたが、会津藩中心に構成された警察舞台である「抜刀隊」という組織を結成。会津藩は、幕末において薩長連合軍に滅ぼされた経緯があるため、その強烈な恨みが力として働き、田原坂での勝利を収めます。

この戦いでの勝利がその後の西南戦争の流れを決定づけ、薩摩軍側は兵力がどんどん削られながら、官軍に追い詰められることになります。最終的には、薩摩軍側300人程度に対し、官軍側は7万人の兵力をもって包囲していました。

そして、最後の城山での戦いで西郷隆盛は自刃し、西南戦争は終わりを迎えるのです。

 

さいごに

日本国内で最後の内戦と言われる西南戦争について、できる限りわかりやすく解説してみました。

今までの特権階級である士族と、その旧態依然とした体制を改革しようとする政府との戦いを紹介しましたが、大きな変化を試みるときには、何かしらの軋轢は避けることができないのかもしれません。

この戦争の勝利によって、士族による政府への反乱は収まります。

また、ほとんどが農民で構成されていた官軍が勝利したことで、士族の専売特許であった軍事への固定概念が崩れます。そして徴兵制が急速に進められることになるのです。

西南戦争は、歴史の流れを変える大きな節目となった戦いだと言えるでしょう。