加藤清正とは?家紋・子孫・名言、井戸や熊本城などその生涯を解説!

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加藤清正という武将は、勇猛果敢で優れた武将というだけではなく、土木や建築に優れた才能を発揮したため、その分野でも神格化されている程の人物です。

また領地であった熊本の人々から今なお「清正公(せいしょこ)さん」などと呼ばれて親しまれています。

本稿では、魅力的なエピソードが多い加藤清正の生涯について、名言、家紋、子孫、熊本城についてなどに的を絞って解説したいと思います。

また、謎の多い死因や、何かと話題になっている「清正の井戸」のことにも触れていきます。

生い立ち

加藤清正は永禄5年6月24日(1562年7月25日)に刀鍛冶である加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれました。幼名を夜叉若といいます。

父・清忠は清正が3歳の頃に亡くなり、清正の母と秀吉の実母・なか(のちの大政所)が遠縁の親戚であった縁から、天正10年(1573年)から長浜城城主になったばかりの羽柴(後の豊臣)秀吉の下で小姓として住み込みで働きます。

実子のいない秀吉とその妻・寧々(後の北政所、高台院)に我が子同然のように可愛がられ、たくましい体つきや頭の良さを期待されて育てられました。

この頃にその後深い仲になる黒田長政(黒田官兵衛の嫡男、この頃は人質として秀吉の下にいたとされる)との親交もこの頃に始まったとされています。

天正3年(1576年)で元服すると秀吉から170石を与えられ、近江の守護大名佐々木氏の一族で摂津・三田城主・山崎片家の娘を正室としその後虎熊という嫡男を設けました。

 

勇猛果敢な将として活躍

頭角を現す

天正9(1591年)に羽柴秀吉の中国攻めに加藤清正も同行し、秀吉や黒田孝高(官兵衛)が大掛かりな兵糧攻めである「鳥取城の飢え殺し」を行ったことで有名な鳥取城の戦いでは、清正は蜂須賀小六と共に戦果を挙げたため100石の加増となりました。

天正10年(1582年)6月2日に京都で本能寺の変が起こると、秀吉はかねてより張り巡らせていた情報網からすぐにその変事の情報を掴み、毛利氏との戦後交渉を早々に終わらせ大急ぎで京都に向けて行軍します。

この有名な「中国大返し」に加藤清正も加わり、その後明智光秀を討ち取るための「山崎の戦い」では敵将・近藤半助を討ち取りました。

 

「賤ヶ岳の七本槍」として活躍

山崎の戦いに勝利した秀吉は織田家家臣の中で突出して力をつけていきます。

同年の「清洲会議」ではついに旧臣である柴田勝家よりも秀吉の発言力の方が強くなり、織田信長の葬式で秀吉はまるで喪主であるかのような振る舞いまでみせました。

そのような秀吉と織田家家臣としてのアイデンティティを保っていた柴田勝家とでは対立が深まり、天正11年(1583年)に「賤ヶ岳の戦い」が勃発します。

この戦いで加藤清正は秀吉の家臣として太刀や槍を片手に柴田勢に突撃し、敵将・山路正国、鉄砲頭・戸波隼人を討ち取るなどの武功を立てました。

そのため羽柴秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の1人としてその戦功を評価され、3000石の所領を与えられました。

賤ヶ岳の七本槍は、清正の他に福島正則、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らがいます。

 

熊本城の城主へ

肥後の大名となる

天正13年(1585年)7月に豊臣秀吉が関白となると、清正は従五位下・主計頭という官位を朝廷より授かります。

その後は秀吉の九州征伐へ一緒に行き、当時肥後(熊本県)の領主だった佐々木成政が一揆の責任をとって切腹するとそれに代わり清正は肥後の北半分約20万石を与えられ、熊本城を居城とします。

加藤清正は28歳で5500石の城を持つ大名へと出世しました。

また清正と同じく肥後の南半分を与えられたのは、後にライバルとなる小西行長でした。

 

優れた領主だった?

城主となった清正は、田麦という農産物を特産物化させて南蛮貿易に当てるなど、農業分野などでも良策を次々と実行にして領地を豊かにしました。

朝鮮出兵での活躍

「鬼上官」と呼ばれた武

加藤清正の活躍で有名なものに文禄・慶長の役(朝鮮出兵)があります。

豊臣秀吉は文禄元年(1592年)に有力な大名を集めて朝鮮半島へと行軍させます。

清正は第二軍の主将として大変な戦果をあげ、朝鮮の首都であった漢城(現在のソウル)を落とし、朝鮮の王子も捕らえるという活躍ぶりでした。

あまりの清正の勢いとその強さに朝鮮の人々は清正のことを「鬼上官」と呼び、恐れました。

 

豊臣家家臣の分裂の原因に

しかし加藤清正は勇敢な半面、武功にこだわって勝手な行動を取ってしまうという一面もあったようです。

最初の出兵である文禄の役の際、小西行長と作戦のことで揉めたことをきっかけに、それまでの命令違反や単独行動を小西行長が庶務担当の石田三成に報告し、石田三成は豊臣秀吉に直接それらを報告しました。

そのことによって加藤清正は日本軍に貢献したのにも関わらず、帰国後に秀吉に叱責を受けたのちに蟄居(自宅謹慎)まで命じられてしまいました。

しかし大地震が起こった際、謹慎中の身でありながら秀吉の正室の一人である淀殿やその子供を守るために駆けつけ、加藤清正が秀吉の家族の命を守りました。

謹慎中であったためいちかばちかの行動でしたが、勇敢さと家族を助けたことを秀吉に評価され、首がつながりました。

 

朝鮮出兵の結末

結局文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、はっきり勝敗がつかないまま、豊臣秀吉の死を持って日本軍が退却しました。

この頃になると加藤清正、福島正則らの武断派、石田三成、小西行長らの文治派の対立ははっきりしており、いつ争いが起こってもおかしくないほど険悪になっていました。

 

関ヶ原の戦い

複雑な政局

関ヶ原の戦いが起こるまでの経緯は大変複雑であり、単に東軍・徳川家康と西軍・石田三成が天下の覇権を争って戦ったわけではありません。

そもそも、徳川家康が当時豊臣家家臣の中で副社長くらいの権力を持っていたとしたら、石田三成は企画部長ほどの立場でしかなく、もし西軍が勝利していたとしても三成に天下を手にするような権利はなかったといわれています。

ではどのようにしてこのような戦いに発展したのか、加藤清正はこの戦いでどのように動いたのか、など順を追って解説していきます。

 

武断派と文治派の対立

先述したように、豊臣秀吉の晩年から豊臣家家臣が武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政ら)と文治派(石田三成、小西行長ら)に分裂し対立するようになりました。

一般的に、武断派の武将は武功を立てて出世した武将で強硬派、文治派は政務を担った武将で穏健派、というイメージがありますが、それに加えて武断派の武将は地方分権派であり、文治派の武将は中央集権派であったという特徴も言えます。

そしてこの地方分権にする(大名たちに自治させるか)のか中央集権にする(関白である秀吉に一括させて治めるか)のか、という政治上の課題は豊臣政権が残した課題のようなものでした。

その課題を、関白である秀吉の死後家臣たちが一身に背負ったと言って良いでしょう。

秀吉の死後は前田利家が間を取り持っていましたが1599年(慶長4年)に前田利家が病死すると両者の関係は修復不可能なまでに険悪になります。

同年閏3月3日に武断派の武将たちが石田三成の屋敷を襲撃するという事件が起き、加藤清正もこの襲撃に加わっています。

 

徳川家康の企み?

襲撃の情報は漏れていたため石田三成は無傷で伏見城に逃れていましたが、清正ら武断派の武将たちはその身柄を引き渡すよう要求し、両者の間には緊張がさらに高まっていました。

しかしこのとき、病死した前田利家に代わって武断派と文治派の間を取り持ったのは徳川家康でした。

家康は武断派の要求である蔚山城の戦いの査定のやり直しを求めた上に石田三成を奉行の座から退かせて隠居させ、その代わり三成の身柄を武断派の武将たちに引き渡すことは拒否しました。

この仲介によって家康の評価は上がり、徳川家康はこのように武断派と文治派の対立をうまく利用して豊臣家家臣の中で主導権を握るようになっていきました。

そのことに不満を持つ豊臣家家臣らが西軍として集まり、関ヶ原の戦いへと発展していくのです。

 

清正は西軍?東軍?

加藤清正はあくまでも豊臣家家臣として、また肥後領主としてのアイデンティティを強く持っていた武将であると考えられています。

ですので意外にも関ヶ原の戦いにも大坂の陣にも彼は参戦しておらず、関ヶ原の戦い当時は徳川家康と疎遠だったと資料にも残っています。

その理由として、清正が島津家の内乱である庄内の乱の首謀者・伊集院忠真をひそかに支援していたことが挙げられます。

当時内乱の収集にあたっていた家康からするとこの清正の行動はショッキングな裏切り行為でしたので、関ヶ原の戦い当時、清正は事実上の謹慎を命じられていました。

そのため名目上西軍の総大将であった毛利輝元などが清正の元に説得工作に赴いたため、さすがにそれを見過ごせないと感じた家康が東軍に加わることを許しました。

しかし家康は清正の上洛までは許可しなかったため、加藤清正は九州で同じく東軍に与していた黒田如水(官兵衛)と協力して小西行長や立花宗茂など九州における西軍勢と戦って次々と勝利しました。

 

関ヶ原の戦い後について

戦後は旧小西領を引継ぎ、清正は52万石の大名となりました。

そして関ヶ原の戦いの後、徳川の世となってからは多くの大名が手の平を返したように豊臣家から離れていく中、加藤清正や福島正則は依然として豊臣家に忠義を尽くし、秀吉の跡継ぎである秀頼を支えていたと言われています。

慶長15年(1610年)に徳川家の普請に協力し、翌年の慶長16年(1611年)には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持ちました。

一説によればこの会見を拒んだ場合、家康は本格的に豊臣家を滅ぼすつもりであったと言われています。

このときの清正は家康の十男・徳川頼宣の護衛役であり、徳川氏の家臣として会見に臨みましたが、清正は万が一に備えて懐に短刀を隠し持ち、ずっと秀頼の側に付き添っていたといいます。

そしてこの会見の2か月後に清正は謎の死を遂げました。

加藤清正と石田三成とは政治的に対立こそしたものの、ひたむきに豊臣家家臣として生きたという点では両者共通していたと言えるでしょう。

 

死因について

病死とされている加藤清正の死因については諸説ありますが、今なお謎に包まれています。

各説については以下の通りです。

  • 心労による体調不良説(過労死という説も)
  • 徳川氏による毒殺説(徳川氏がお土産に持たせた菓子に微量の毒を盛っていたという説も)
  • 朝鮮出兵の際、遊女を経由して梅毒にかかっていた

二条城での会談を終え、熊本に帰る船の中で口がきけなくなるほど具合が悪くなり、その後回復することはありませんでした。そのため辞世の句はありません。

熊本城について

熊本城とは

熊本城とは、1469年–1487年頃に加藤清正が築城したといわれている城で、日本三大名城の一つともいわれており国の重要文化財としても指定されている珠玉の名城です。

元々熊本城がある茶臼山一帯には千葉城という城と隈本城という二つの城があり、清正がこの2城を取り込んで現在の城址の原型が作られました。

1600年(慶長5年)頃には天守が完成、1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めました。これが現在の熊本城です。

 

熊本城は何がすごい? ①戦いのために作られた城

熊本城は徹底的に籠城戦に備えた城だといわれています。

朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かし、城内の建物の土壁に干瓢を塗篭めたり、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたりしました。

また朝鮮出兵における蔚山城籠城戦では特に水で苦労したことから、城内に120箇所の井戸を掘り、特殊な構造の井戸で水量が大変豊かだったと言われています。

それから200年後の明治10年(1877年)、西南戦争が起こった際官軍の守る熊本城を攻め落とすことができなかった西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言ったそうです。

 

熊本城は何がすごい?② 芸術的な建造物

熊本城は「清正流」といわれる大胆ながら精巧で美しい石垣が有名です。

大小の天守閣をはじめ、49の櫓、18の櫓門、29の城門を備えた平山城があり、熊本城をしっかり見ようとすると一日かかると言われるほど見どころが多く、美しい城です。

 

現代の熊本城

平成28年(2016年)4月、熊本では2度の大きな地震に見舞われたため熊本城も大きな被害を受けました。天守の瓦やしゃちほこなどは落ち、熊本城の特徴の櫓は崩壊するなど、計13件の重要文化財全てに被害を受けました。

現在は「見せる復興」として、天災である地震の脅威をリアルに見せながら復興が進んでいます。

また熊本城に対して一定額以上の寄付を行った人を「一口城主」として認定し、天守内に寄付者名の書かれた札がかけられるシステムは「復興城主」制度として復活し、現在は熊本城近くの観光施設「桜の馬場 城彩苑」内に専用のスクリーンを設け、1万円以上の寄付者名が城主として映し出されたり、清正の「蛇の目紋」や「桔梗紋」が書かれた城主証がもらえたりします。

 

家紋について

加藤清正は「蛇の目(弦巻)紋」という家紋と「桔梗紋」という2つの家紋を使用したと言われています。

 

蛇の目紋について

名前の通りヘビの目に似ていることがその由来とされる紋で、主に甲冑に使用されたいたと言われています。

シンプルなデザインに力強さを感じることができる家紋で、弦巻紋という別名が表すように弓の弦を巻く為に用いられた道具をイメージしてるとも言われており、武家らしさを表すことが出来る家紋です。

また古来から日本の人々は蛇に対して神秘的なイメージを抱いており、「蛇の目」ということでお守りのような意味もあったと言われています。

また加藤清正は日蓮宗を非常に熱心に信仰しており、その日蓮宗の開祖である日蓮もこの蛇の目の家紋を使用していたと言われています。

 

桔梗紋について

もともとこの桔梗紋は、秀吉の古参の家臣である尾藤知宣が用いていたものだったのですが、尾藤知宣は九州征伐で失態を犯し、所領を没収されてしまいました。

その後、加藤清正が肥後半国を与えられた事を機にこの桔梗紋を主に祝い事や家具などで用いたとされています。

清正は尾藤知宣の家臣も300人ほど引き継いだため、大名になった清正が自身の家臣団の基礎固めのために使用したともいわれています。

またこの桔梗紋は明智光秀も使用した家紋と言われており、鎌倉時代から続く武家の名門、土岐氏とその一門が用いたものとして知られています。

一説によると加藤清正の先祖も明智光秀の先祖と同じく土岐氏の流れを汲んでいるとも言われています。

そのため清正が自らの出自を意識して桔梗紋を用いた、という説もあります。

清正の井戸について

「清正の井戸」というのは東京都渋谷区にある明治神宮にあり、加藤清正が掘ったといわれる特殊な構造の井戸がパワースポットとして話題になりました。

築城に関して優れた才能を発揮し、「土木の神様」として崇められている清正にあやかり、「清正の井戸」へ行くと幸運が訪れる、画像を写真に収めて待ち受け画面にすると幸運になる、などどいわれる反面、時間帯や参拝の作法を守ってお参りをしないと逆効果である、という声もあがるようになりました。

加藤清正の信念を持った生涯を、そして清正が生きた戦国の世では様々な命のやり取りがあったことを忘れずに訪れるようにしたいものです。

 

名言について

輝かしい武功を挙げた清正らしい名言が残っています。

名言①
衣類は木綿・紬(つむぎ)などを用いよ。衣類に金銀を費やすのは、けしからんことだ。平素から身分相応に武具を嗜み、人を扶持し、軍用のときには、金銀を惜しみなく使うと良いだろう。
名言②
乱舞は一切停止する。太刀や刀をとれば人を斬ろうという心が起こるのが、武士として当り前のことであるから、武芸のほかにやたらに刀を抜いて乱舞するような者に対しては、切腹を申しつける。
名言③
上の者も下の者も勤番や普請の際に、身体をよく動かして手足を汚すことをしかねる者があったとしたら、臆病者と認め、成敗も加えようぞ。

 

子孫について

加藤清正の子孫は、本家筋は断絶しており、分家に当たる子孫の方々は山形県を中心に広くいらっしゃるようです。

清正の跡を継いだ三男の加藤忠広の息子・加藤光広は悪ふざけで大名たちのサインや花押付の本格的な謀反の書状を作って遊んでいたため、それが幕府の知るところとなって加藤家は御家取り潰しになりました。

そのため加藤忠広は出羽国(山形県鶴岡市)に一万石の所領を与えられ、改易の原因を作った加藤光広は蟄居の後に病死しました。

山形県に移ってから忠広は男女の子供をもうけ、娘の婿は加藤与治左衛門という有名な庄屋として江戸時代に大変栄えますが時代の流れとともに没落します。

この家が女性科学者である加藤セチさんまで続きますが、加藤セチさんのご子息は戦争で亡くなってしまったため本家の血筋は絶えてしまいました。

しかし分家の方々は今も山形県にいらっしゃるということです。