柴田勝家とは?家紋や城、妻のお市や子孫について解説!

柴田勝家は織田信長の家臣の中でも「勇猛果敢」で有名な武将です。

丹羽長秀、滝川一益、明智光秀とともに「織田四天王」と称されます。

今回は猛将・柴田勝家の生涯と、勝家にまつわる城や家紋など、さらには勝家の子孫や妻・お市の方といった勝家を取り巻く人々について、その魅力たっぷりにお伝えします。

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柴田勝家の生い立ち

柴田勝家の柴田氏は、勝家自身から名が知られるようになったため、勝家の幼年期や父母についてなど、出自についてははっきりしません。生まれ年は1520年代で諸説あり、父は土佐守・上社城主の柴田勝義、さらに勝義の父である柴田勝重などの説があります。

勝家は若いころから織田家に仕えていますが、初めから信長の家臣だったわけではなく、むしろ敵対勢力でした。

勝家が仕えていたのは信長の父である織田信秀で、信秀の死後は信長の弟である織田信勝に仕えています。「うつけ者」と言われた信長に対して信勝は優等生タイプでしたので、自然と「信勝を織田家の当主にしよう」という意見が現れ始めました。

そして勝家は主である信勝を支持し、信長との戦に臨みます(稲生の戦)。

初め優勢だった勝家の軍ですが、信長の本陣は切り崩せず、逆転され敗走・降伏することになってしまいます。

信長に牙をむいて敗れるという破滅的な状況でしたが、この時は信長・信勝両者の母である土田御前の尽力もあり許されていました。

この時に直に戦って信長の器を知ったのか、勝家の心は信長に傾き始めます。そして信勝が信長に対し二度目の謀反を企てた時、勝家はその計画を信長に密告。その情報をもとに信長は信勝を暗殺しました。

そしてここから勝家は信長に仕えるようになりました。

 

信長に仕える

しかし、この後しばらくの間勝家には活躍の機会は与えられません。

1558年の尾張統一戦となる浮野の戦、1560年の今川義元との桶狭間の戦、1567年の美濃・斎藤氏との稲葉山城の戦でも勝家の名前を見ることはできません。

信長にしてみれば勝家はついこの間まで敵であった、しかも主を裏切る形で自分のもとに来た男です。そう簡単には登用できるものではなかったと推測できます。

しかし、この後信長の京都上洛をきっかけとして勝家の活躍が始まりました。

 

勝家の本領発揮

勝家は織田軍の先鋒大将の一人として起用されます。先鋒大将はまさに勝家のためにあるような役どころで、勇猛果敢で戦での突破力のある武将が担います。

「かかれ柴田に退き佐久間 米五郎左に木綿藤吉」という言葉があります。

かかれ柴田とは戦での突進力に長けた柴田勝家という意味で、1568年の六角義治との観音寺城の戦、1569年の三好三人衆との本圀寺の変でもその力を発揮し、活躍しました。

 

「瓶割り柴田」のエピソード

1570年の野洲河原の戦いでは有名な「瓶割り柴田」のエピソードがあります。

勝家の守る長光寺城で交戦中、相手方の六角義賢に城への水源を止められてしまいました。勝家はこのまま弱ってしまう前に打って出て決死の戦いをしようと、残り少ない水瓶を割ってしまいます。

こうして勝家は味方の士気を高めるとともに、敵に水が豊富だと誤解させ、動揺した六角勢を打ち破ったのです。

 

長島一向一揆鎮圧戦

1571年には長島一向一揆鎮圧戦で苦戦し、退却する際に自ら殿を務めるなど危険な役割も買って出ています。また同年に比叡山焼き討ちにも参戦しています。

1573年には朝倉義景との一乗谷城の戦に先鋒として参戦、また浅井長政との小谷城の戦にも参戦しましたが、この時の先鋒は秀吉でした。

その後1574年の一向一揆の鎮圧や1575年の長篠の戦に参戦し、同年越前国の一向一揆鎮圧にも出陣しました。

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上杉謙信との戦い

越前国の一向一揆平定後、勝家は越前国49万石と北ノ庄城を与えられ、北陸方面軍司令官に任命され、信長から加賀国より北の攻略を任されます。

1577年、越後国の上杉謙信が加賀・能登方面に侵攻してきます。

この時攻められていた七尾城へ派遣された救援軍には、勝家をはじめとして滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉などの重臣が顔を揃えていました。

しかし軍議で勝家と秀吉が衝突し、秀吉は軍から離れて帰ってしまい、救援軍自体は到着前に七尾城が謙信に攻め落とされたため、撤退しています。

このあたりから織田家の重臣たちの間に不穏な空気が流れ始めます。

しかし、翌1578年、謙信が死去すると上杉氏は急激に弱体化していき、このことを追い風にして、1580年ごろに勝家は加賀・能登を平定します。

この状況に加え、当時の織田家で最大勢力であった佐久間信盛が功績不足から追放され、勝家は名実ともに織田家の中で筆頭家老となりました。

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本能寺の変

1582年、明智光秀が信長に対し謀反を起こします。本能寺の変です。

当時勝家は越中攻めの最中で、本能寺の変は勝家が魚津城を攻め落とした前日に起こっており、やがて勝家の元にも信長の死が伝えられます。

すぐにでも戻りたい勝家でしたが、上杉軍の妨害にあって動けず、明智光秀討伐の出陣はおよそ10日~2週間経ってからになってしまったのです。

ようやく動けるようになった勝家でしたが、この時すでに光秀は秀吉に討たれていました(山崎の戦)

光秀を秀吉が討ったことで、織田家内での秀吉の発言力が増し、勝家は立場において秀吉に追い抜かれる形となってしまったのです。

秀吉はここで光秀を討つことが今後にどう影響するかがわかっていたのでしょう。この後行われた織田家の今後を決める会議(清州会議)でも、最後に通ったのは秀吉の意見でした。

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清州会議

信長とその子である信忠を本能寺で一度に失ってしまった織田家の時期当主には、秀吉の推すまだ幼い三法師(信長の孫・後の織田秀信)が据えられます。また領地においても丹波・山城など、畿内の重要地点は秀吉が得ました。

勝家はこの後、浅井長政の未亡人となっていた信長の妹・お市の方を娶ります。これは先の清州会議の結果に不満を持つ勝家を秀吉が宥めるために仲介したと言われています。ただ勝家が初婚だったことから、昔から勝家はお市の方に思いを寄せていた、とも言われています。

こうして旧織田家の力を弱め、自らが天下を取る方に向かった秀吉と、旧織田家との関係を強くし、守っていく方に向かった勝家という図式が出来上がります。

そしてこの翌年1583年、ついに勝家と秀吉は激突します。賤ケ岳の戦です。

 

勝家の最期

この戦では当時の織田家における立場や、裏工作のうまさにおいて秀吉が勝り、実戦においても血気盛んな佐久間盛政の暴走や、前田利家の突然の撤退など、勝家軍は統率が取れていませんでした。こうしてこの戦に勝家は敗れ、北ノ庄城に撤退します。

敗戦後、勝家は味方に対し、共に散らずに生き延びるよう勧めます。また賤ケ岳の戦で先に撤退した前田利家のことも責めることなく、秀吉と上手くやっていくように、という旨を伝えています。このあたりのエピソードは柴田勝家の温情厚い部分としてよく語られるものです。

そしてこの後勝家は北ノ庄城で抗戦を続けますが、いよいよ追い詰められます。残った家臣は百名足らず。ここでも勝家は家臣に生き延びるよう促します。

さらに正室であるお市の方にも同じように生き延びるよう勧めますが、お市の方も家臣たちも皆これを拒絶し、勝家とともに果てる道を選ぶのです。

こうして勝家はその生涯を閉じました。

勝家の辞世の句はこちらです。

夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 
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柴田勝家の家紋

勝家の家紋は「二つ雁金紋(ふたつかりがねもん)」というもので、二羽の雁が縦に二つ並んだものです。見た目は少しかわいらしい印象を受けます。

雁という鳥は別名「ガン」ともいい、「願」と音を同じくするところから願いが叶うという意味があります。また雁は群れで飛ぶことから、絆の意味を表します。

なお勝家の二つ雁金紋は少し変わっていて、上の雁が口を開けています。これについてははっきりしませんが、仏像などにみられる「阿吽」を表すと言われています。

また、当時の武家の多くは複数の家紋を用いており、勝家にももうひとつあります。

それが「五瓜に唐花紋(ごかにとうかもん・ごかにからはなもん)」です。

京都八坂神社などでも使用される紋で、鳥の巣をモチーフとしています。鳥の巣には子孫繁栄の意味が込められており、めでたい紋とされます。なお、この紋は主君である織田信長も用いていたものです。

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柴田勝家の城

勝家の居城として有名なのは下社城、長光寺城、北ノ庄城の3つです。それぞれご紹介していきます。

 

下社城(愛知県名古屋市)

勝家が生まれたのがこの城とされています。勝家が越前国北ノ庄城を与えられたのを機に廃城となりました。現在は明徳寺というお寺になっており、城址の碑が建てられています。

 

長光寺城(滋賀県近江八幡市)

信長上洛の後勝家が配置された城で、観音寺城の支城のひとつです。「瓶割り柴田」のエピソードでも知られる山城です。

現在この周辺は「瓶割山」という名で呼ばれ、城跡を散策するハイキングコースもあります。曲輪、堀切、石垣などの遺構も見られます。

 

北ノ庄城(福井県福井市)

越前国を与えられた勝家が築城した城で、勝家が最期を迎えた場所でもあります。

賤ケ岳の戦でほぼ全焼したため、柴田氏の遺構を見ることはできませんが、その後の築城・改修を経て、現在は福井城として2017年「続日本100名城」にも選定されています。

 

勝家の妻・お市

お市は一般に信長の13歳離れた妹であるとされますが、その生まれや幼年期の記録はなく、一説には信長の従妹であったともされます。「戦国一の美女」と称される美貌の持ち主で、聡明であったとも言われています。

初めは浅井長政に嫁ぎ、秀吉の側室となる茶々(後の淀殿)、京極高次の正室となる初、徳川秀忠の継室となる江の三人の娘を授かります。

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夫・長政との夫婦生活は円満であったとされますが、その長政は信長に敗れ、お市は3人の娘とともに織田家に引き取られることになりました。

そして清州会議の後、勝家と結婚します。しかしその翌年に賤ケ岳の戦が起こり、勝家とともに北ノ庄城にて生涯を閉じています。

お市の辞世の句はこちらです。

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れをさそふ ほととぎすかな

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生存説もある?

なお、お市の方には生存説があります。

北ノ庄城から落ち延び、織田家ゆかりの森田家から浅井家残党の浅井治郎左衛門に匿われ、1599年まで生きたとするもので、浅井治郎左衛門はお市ののど仏を保管したとされます。

 

勝家の子孫

結婚生活自体が一年にも満たないので当然ですが、勝家と正室であるお市の間には子どもがいません。柴田勝里と柴田勝忠の二人は実子とされますが、いわゆる庶子です。

この二人はともに賤ケ岳の戦の後に秀吉によって処刑されていますので、実際に勝家の血を引く者はいません。勝里と勝忠以外の勝家の子供は養子であり、男子は5人。柴田家の名は、勝政の子である柴田勝重が江戸幕府の旗本として残していくことになります。

勝家の孫にあたる勝重ですが、賤ケ岳敗戦の際はまだ幼く、勝家から愛用の兜を与えられて逃がされています。その後母方の祖父である日根野高吉のもとに逃れて育てられ、1599年には徳川家康に仕え、その翌年関ケ原の戦で初陣を飾ります。

現在柴田家の末裔とされるのは、九州柳川柴田氏系の柴田勝次郎さんで、有名な勝家の肖像画を所有されています。

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柴田勝敏

あまり出自がはっきりせず、勝家の養子とされていますが、実子という説もあります。賤ケ岳の戦の後、秀吉によって処刑されています。

 

柴田勝政

勝家の甥にあたりますが、勝家に気に入られ養子となっています。賤ケ岳の戦で戦死したとされています。

 

柴田勝豊

勝豊も勝家の甥にあたりますが養子となっています。清州会議後に長浜城主となりますが、賤ケ岳の戦前に秀吉に攻められ降伏し、さらに賤ケ岳の戦直前に病死しています。

 

柴田勝春

勝春も勝家の甥にあたりますが、勝春については資料がほとんどなく、消息不明となっています。一説には九州に落ち延びたともありますが、定かではありません。

 

佐久間勝之

織田家家臣である佐久間盛次の四男として生まれました。後には佐々成政の娘を娶って婿養子となり、柴田家を離れています。最終的には信濃長沼藩主となっています。

 

さいごに

いかがでしたでしょうか。

勇猛かつ情に厚い柴田勝家、その魅力を感じていただけたら幸いです。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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