柴田勝家とともに、「織田家の双璧」と呼ばれた人物がいます。それが織田家の宿老でもある丹羽長秀です。
本能寺の変のあと豊臣秀吉側につき、柴田勝家を滅ぼし、織田信長ともに天下統一を目指した丹羽長秀とはどんな人物だったのでしょうか。
丹羽家の家紋の意味、子孫や家系図、織田信長の関係とともに解説します。
丹羽長秀の生い立ち
1535年、丹羽長政の子として、丹羽長秀は尾張の国に誕生しました。幼名は万千代といいます。
詳しい年代は分かっていませんが、いつからか丹羽家は尾張国に住み、尾張守護である斯波氏に仕えていました。
しかし織田家の勢いが増すと、丹羽家は次第に織田家の家臣となっていきます。
織田信長との関係
1550年、16歳となった丹羽長秀は元服し、当時17歳の織田信長の家臣として加わりました。
一説によると、織田信長の初めての敗戦である「横山の合戦」で織田信長に人質という形で家臣に加わったのではないかという見方もあります。
長秀と信長は年齢が近いこともあり、信長が本能寺の変で討ち取られるまで、その関係は良好だったといわれています。
1561年には織田信長より、美濃攻めの部隊長を任され堂洞砦を攻め込むなど、織田家の中で頭角を表しました。
さらに長秀は多数の戦いに打ち勝ち、安土城の普請奉行を務めるなど、数多くの功績を上げました。
そんな丹羽長秀の特徴としては、たくさんの戦いに勝利してきた功だけでなく、織田信長を政治的・民事的な面でも支えるなど高い能力を発揮し、活躍していた点が挙げられます。
丹羽家の最盛期
本能寺の変で織田信長が亡くなった後、信長を倒した明智光秀を打ち取ったのが、長秀の家臣でもあった豊臣秀吉でした。
信長の後継者を決める「清州会議」で、長秀は信長の長男である「三法師」を秀吉とともに推薦しました。
このとき柴田勝家は信長の三男「信孝」を推薦していたので、事実上、豊臣秀吉側につきました。
そして長秀は豊臣秀吉とともに、柴田勝家を滅ぼし、その功績から近江国・越前・加賀などの土地を与えられ、123万石の大名まで出世し、北の庄内城を居城としました。
死因は自害?
しかし豊臣秀吉は織田家を邪険に扱い、秀吉自身の天下取りのことばかりを考え始めます。
長秀はそんな秀吉の指示には従わず、しだいに反抗的な態度を取るようになります。
秀吉に利用されていたことを知った長秀は病に侵され、秀吉への恨みを募らせながら、最後は自らの腹を切り自害しました。
その際、自らの病巣を手で取り出し、秀吉に送り付けたともいわれています。
丹羽家のその後
15歳という若さで長秀の後を継いだ長重ですが、秀吉は大名丹羽家に恨みを抱き続けていたので、言いがかりをつけては領地を奪い、一時は123万石あった領地は、4万石まで減らされることとなりました。
小田原遠征で勝利し、12万5千石まで領地を増やすことに成功した長重でしたが、その後参戦した関ヶ原の戦いでは、敗戦。ついに領地を全て奪われてしまいました。
領地を奪われてから3年後、徳川家康の許しを得ることで大名に復帰した長重は、大阪の陣でその活躍を認められ出世し、最終的に12万石まで領地を拡大し、棚倉城や白川小峰城を築城するまでになりました。
丹羽家の家紋
丹羽長秀の家紋ですが、バツ印のような日本の直線を交差させたとても不思議な形をしています。家紋の名前は「丹羽直違文」と書いて「にわすじかいもん」と読みます。
家紋の由来についてははっきりとしていない部分が多く、現在のところ2つの説があります。
一つ目の説
一つ目の説が「戦場で刀を拭ったところ、血がバツ印の形で残った」というものです。
丹羽長秀が敵の首を獲ったあと、血まみれになった刀を布で拭いました。
その後もう1人の敵の首を獲り、同じように刀を布で拭った結果、布に血がバツ印の形で付いたというものです。
二つ目の説
二つ目の説が「戦が終わった後、旗が2本残りその様子をバツ印に見立てた」というものです。
戦の後、16枚の短尺が落ちてなくなったが、2本だけ残り、その印象的な形を家紋として表したともいわれています。
その他の家紋
また丹羽家では上記の「丹羽直違分」をメインの家紋として使用していましたが、その他にも「檜(ひおうぎ)」「産盛木瓜(みつもりもっこう)」「三葉笹(さんようがさ)」といった家紋を使用していたことが知られています。
丹羽長秀の子孫
豊臣秀吉への恨みから割腹自殺し、自らの腹の中を秀吉に送り付けたともいわれている丹羽長秀ですが、実はその子孫はスポーツ界で有名な方です。
それが、2015年サッカー日本代表にも選出され、ディフェンダーとしてチームを支えた丹羽大樹選手です。
また兄の丹羽圭介さんは、プロキックボクサーとしても有名な方です。