関ヶ原の戦いとは?場所や西軍大将、布陣や裏切りについて解説!

「天下分け目の関ケ原の戦い」と言われ、事実この戦いに勝利した徳川家康(とくがわいえやす)に権力が集中し、徳川政権へと時代が移行していったのは歴史の事実となっています。

関ケ原の戦いは序盤、西軍大将・石田三成(いしだみつなり)率いる西軍有利で進んでいたはずですが、裏切りや撤退などが起こり、蓋を開ければ、大将・徳川家康率いる東軍の勝利で終わりました。

では、関ケ原の戦いはどうして起こってしまったのでしょうか。また、場所や布陣そして戦況とその後はどうなったのでしょうか。

今回は関ケ原の戦いに焦点を当てて、詳しく解説してみたいと思います。

関ヶ原の戦いとは

関ケ原の戦いは、天下分け目の戦いと言われ、天下を収めていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)死後に、豊臣臣下の内部抗争と分裂によって行われた戦です。

この戦いにより、事実上勝者である徳川家康が次の政権を作り上げ豊臣家は滅んでいくこととなりました。このことから、天下分け目と言われるのです。

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起こった時代背景と原因

この関ケ原の戦いの原因は何といっても、この時代を牽引していたカリスマ・豊臣秀吉が幼い秀頼(ひでより)を遺して死んだことです。

豊臣秀吉は自分が死んだ後、幼い秀頼に天下を譲るべく「五奉行」と「五大老」からなる盤石な体制を敷いていました。

しかしこの体制は薄氷の上での体制で、五奉行の筆頭である石田三成をはじめとした五奉行は文知派と呼ばれ、戦の前線に立たない官僚、武断派と呼ばれる当時なら朝鮮出兵組の武将などからは相当嫌われていたのです。

 

徳川家康は武断派に慕われていた?

この武断派に慕われていたのが、数々の武功を持つ大老の一人である徳川家康で、豊臣秀吉死後秀頼の後見として踏ん張っていた前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、天下を収めるには最後とばかりに、五大老の一人でありながら徳川家康はあらゆる策を講じて前田家をはじめとする他の五大老や、石田三成などに揺さぶりをかけていくのです。

こうした揺さぶりに我慢できなくなった豊臣命の五奉行筆頭・石田三成と、最後の天下人になりたいと行動している徳川家康とが小競合いを繰り返し、最終的に刃を交えて戦うしか結論が出ない所まで拗れ、豊臣恩顧の文知派と、豊臣家臣であるが徳川押しの武断派が結局薄氷を踏んで激突してしまうというのが、関ケ原の戦いまでの一連の流れとなります。

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場所

関ケ原の戦いの場所は、読んで字のごとく「関ケ原」で岐阜県不破郡関ケ原町になります。ただし、東西合わせて15万もの大軍が激突しただけあり広大な範囲です。

現在も歴史民俗資料館があり、関ケ原古戦場跡として、決戦地、開催地などいくつもの石碑が存在し、笹尾山には石田三成の旗が並び、桃配山には徳川家康の旗が並び歴史ファンが足しげく訪れる場所となっています。

 

西軍大将は石田三成

西軍の大将は石田三成です。

三成自身はどちらかというと内政に優れた人物ですが、彼の側近・島左近(しまさこん)は非常に優秀な戦略家でした。

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布陣

西軍の布陣

決戦前日には大垣城入りしていた西軍は意識的に布いたのではないですが、古くからある理想的な陣形・鶴翼の陣(かくよくのじん)を取りました。

この鶴翼の陣は鳥が大きく翼を広げたような形で、ただ横一列に並ぶのではなく、両翼の先がせり出し敵が攻撃してきたらせり出した部分で包囲攻撃できるので、防御能力に優れた布陣になります。

 

東軍の布陣

逆に東軍は西軍の陣に対して配置したもので「これ!」という陣形ではありません。

しかし、結果的に小早川秀秋が寝返りその前面に布いていた武将達が寝返った事で片翼が無くなり、陣形不全を起こし最終的には東軍に包囲される形となりました。

 

戦いの内容

前哨戦は杭瀬川の戦い

まずは関ケ原の戦いの決戦前日、西軍の思惑よりも早く到着した徳川家康に対して西軍の中で動揺が走り、士気を高め結束力をあげるためにも西軍大将・石田三成の家老・島左近(しまさこん)が攻撃をしかけたのです。

この攻撃は局地戦となり西軍が圧勝、西軍内の動揺も収まり兵は奮い立ちました。

 

関ヶ原の戦い本戦

前哨戦が終わると東軍・西軍ともに睨み合いが続き、そのまま夜が明け戦闘は未明から開始されました。

兵力は西軍が多かった、互角だったなどさまざまですが、西軍は毛利軍などのようにまったく動かない軍もあったので、兵力では実質東軍が優勢だったと言われています。

まずは、東軍の福島正則(ふくしままさのり)が仕掛け、西軍の宇喜多秀家(うきたひでいえ)の軍勢が戦闘に入りました。そこからは両軍入り乱れ、序盤は西軍有利に進んでいたようです。

しかし西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)が裏切り、その前面に陣取っていた武将達も裏切って大谷吉継(おおたによしつぐ)軍を全滅させると、戦況の流れはアッという間に変り西軍は総崩れとなり、正午過ぎには勝敗が決していたと言います。

結果は、東軍・徳川家康が勝者となりました。

裏切り

関ケ原の戦いでは「裏切り」によって早期に戦いが決した側面があります。

この裏切り行為は東軍・西軍どちらもにもあり、特に西軍の武将の裏切りは致命的でした。

では、どの武将が裏切ったのか簡単に解説しながら紹介していきます。

 

西軍を裏切った武将

小早川秀秋

関ケ原の裏切りと言えばこの小早川秀秋が筆頭で、なかなか動かない小早川軍に対してしびれをきらした徳川家康が砲撃して一気に寝返ったことで有名です。

豊臣秀吉の親戚になりますが、元々徳川家康、石田三成双方から懐柔されていて諸所の理由で裏切ることは想定されており、大谷吉継の布陣はそのためでもありました。

 

脇坂安治(わきざかやすはる)

元々東軍につくつもりでいましたが、石田三成に妨害されて西軍に参加しており、裏切る事も徳川家康に伝わっていたことから戦後所領も安堵されています。

 

小川祐忠(おがわすけただ)、赤座直保(あかざなおやす)、朽木元綱(くつきもとつな)

上記の3名の武将は事前に徳川家康に寝返りを通達していたわけでも、事前に東軍に加担していた訳でもなく、戦況で小早川軍が寝返ったのに追随して裏切り、大谷吉継軍を壊滅に追い込んだ武将達です。

戦場での勝ち馬に乗るような裏切りを徳川家康は認めることなく、改易処分となりました。

 

増田長盛(ましたながもり)

自身の保身の為に徳川家康に西軍の情報を流していたとされていますが、その後謝罪して出家、家康からの大阪方との和睦の使者を頼まれても断り、大坂夏の陣では息子と豊臣方につき敗戦後責任を取り自害しました。

 

吉川広家(きっかわひろいえ)

安国寺恵瓊(あんこうじえけい)と不仲であったこともありますが、東軍の勝利を予見し、従兄弟の毛利輝元(もうりてるもと)が西軍の総大将であることから、独自で毛利家を守ることを考え黒田長政(くろだながまさ)に通じ動かないという選択を貫き結果的に毛利家を守りました。

 

東軍を裏切った武将

田丸直昌 (たまるなおまさ)

関ケ原の戦いの直前に西軍に味方するも、岩村城周辺が東軍に攻め込まれた後、東軍の勝利が確定すると降伏しました。

 

遠藤胤直(えんどう たねなお)

戦いの前には義父・遠藤慶隆(えんどうよしたか)と共に東軍に忠誠を尽くすことを約束していましたが、突如何の前触れもなく上ケ根城に籠城して西軍に味方し結局攻められて降伏しました。

 

真田昌幸(さなだまさゆき)

真田と言えば西軍のイメージがありますが、関ケ原の戦い前の会津討伐には、徳川連合軍として従軍していたので、東軍から西軍に鞍替えした武将として紹介します。

 

その後

関ヶ原の合戦の後、西軍の大将であった石田三成は斬首されましたが、西軍についた多くの武将のその後はどうだったのでしょうか。

合戦の勝者である東軍の大将である徳川家康には、負けた西軍の武将を裁く権利があったので徳川家康が処分を下しました。

島津の退き口として知られる撤退劇をやってのけた島津家、一家のみ本領安堵、秋田家、上杉家、佐竹家、毛利家の四家が減封、他、八十八家が改易となり、西軍の武将の力を完全に削いだのです。

結果、徳川家康は天下無二の存在となり、気が付けば豊臣家も65万石の大名になり、徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸に徳川幕府を開き以後260年以上の長期政権の礎を築いていくこととなりました。