豊臣秀吉の妻・茶々(淀殿)と寧々とは?性格や関係性などその生涯を解説!

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豊臣秀吉には寧々(ねね)という長く連れ添った正室の他に、沢山の側室がいました。

その中でも茶々(ちゃちゃ、淀殿)という女性が秀吉の人生やその死後の豊臣家に大きな影響を与えたと言われています。

二人はどのような女性だったのでしょうか?性格や二人の関係性なども含め、茶々(淀殿)と寧々の順に解説していきます。

茶々(淀殿)について

織田信長の妹・お市の娘

茶々はおよそ永禄12年頃(1569年)に近江(滋賀県小谷市)で生まれ、父は浅井長政、母は織田信長の妹である市の長女として生まれました。

お市は3人の娘を生んでおり、幼い頃はとても仲の良い3姉妹でしたが長女の茶々をはじめ、次女の初や三女の江も戦国の時代に翻弄されることになります。

母親のお市は37歳の頃でも22、23歳に間違われたというほど可憐な美女でしたが、淀殿は肖像画にも残されているように父の浅井長政の容姿をそのまま引き継いだようで、抜群の美人だとは言えなかったようです。

 

豊臣秀吉は敵だった?

天正元年(1572年)に父・長政が同盟を組んでいた織田信長と敵対し、姉川の戦いで父と祖父は自害、兄の万福丸は秀吉によって切腹させられました。

父の死後は信長の叔父や伯父など、織田家に保護されていたようです。

天正10年(1582年)に本能寺の変で織田信長が死去すると、茶々の母であるお市は織田家家臣の柴田勝家と再婚しますが、柴田勝家はまたもや羽柴秀吉と敵対し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家とお市が自害しました。

秀吉は茶々の両親の死に深く関わっており、茶々にとっては親の敵とも言えるような存在だったのです。

 

秀吉の側室になる

茶々は天正16年(1588年)、およそ22歳の頃、秀吉の側室となります。

戦国時の世であった当時、戦いに勝った側が負けた側の家臣や妻子の面倒を見るということは一般的でよくあることでした。

よって、茶々のように親を殺した相手の養女や側室になったりすることは珍しくなかったのです。

当時世継ぎがいなかった秀吉にとって、茶々が持つ織田家の血筋というのは手駒として是が非でも欲しいものでした。また茶々にしても、長女として自分が浅井家の菩提を弔わなければいけないという一縷の望みにかけた気持ちがあって秀吉との関係を受け入れたのではないかと言われています。

実際、秀吉との子を産んだ後その褒美として亡き父・浅井長政の17回忌と亡き母・市の7回忌の追善供養を秀吉に願い、茶々が内内にひっそりと行いました。

この役目は秀吉の政略によって他家に嫁いでいった妹たちにはもうできないことでした。

茶々は親の敵の子を産むことによって、亡き両親の供養につとめたのです。

 

淀殿と呼ばれる

天正17年(1589年)に茶々は秀吉との間に鶴松という男児を出産します。

豊臣秀吉は無類の女好きであったと様々な資料に残されており、資料に残っているだけでも14人ほどの側室がおり、他にも数え切れないほど女性と関係を持ったとされています。

しかし子供が出来たのはこの茶々との間だけであり、さらにこの頃の秀吉の年齢は50歳を超えていました。

そのため、茶々が懐妊した子の父親は秀吉ではないのではという噂話は当時からあったようで、妊娠中の茶々は人々の好奇の目に晒されることも多かったようです。

そのため茶々が落ち着いた環境で出産できるようにと、秀吉は山城淀城という城を建設しました。

その為この頃から茶々は淀殿と呼ばれるようになります。

鶴松の死と秀頼の誕生

世継ぎのいなかった秀吉にとって男児・鶴松の誕生は願ってもみない幸運でしたが、残念なことに鶴松はわずか3歳で病死してしまいます。

このとき秀吉はおよそ55歳頃で、後継ぎのことをそろそろ固めないといけない年齢になっていましたので、急いで甥の豊臣秀次に関白の職を譲りました。

しかし文禄2年(1593年)秀吉57歳の時茶々との間に二人目の男児(豊臣秀頼、幼名は拾丸)が誕生したため、秀吉は家督争いが起きないよう、秀次→秀頼の順に関白職を譲るように画策し始めました。

 

秀次事件

しかし二年後の文禄4年(1595年)に秀吉は甥の秀次の関白職を剥奪したうえ、強制的に出家させた上に蟄居を命じ、最終的には切腹させ家臣や妻子に至るまで処刑してしまいます。

残っている資料には「秀次が謀反を企てたため」とありますが、他にも様々な諸説があるため、この秀次に切腹させた事件は戦国史のミステリーの一つとされています。

この頃になると秀吉の実母・大政所(なか)や実弟・秀長も亡くなっており、豊臣家を把握できる人物もいなくなっていました。

この事件によって庶民的で仲の良かった豊臣家は崩壊し、歯車が狂い始めたと考えられます。

 

関ヶ原の戦い

文禄7年(1598年)8月18日、豊臣秀吉が死去すると正室の寧々(北政所)は落飾して高台院と名乗りますが、茶々は秀頼の後見人として豊臣家にとどまり、政治的な実権をにぎるようになりました。

秀吉の死後、豊臣家を大事にするべきという石田三成と独自に権力を持ち始める徳川家康が対立、翌年1599年に前田利家が死去すると、徳川家の権勢が一気に強くなりました。

茶々は豊臣家としてあくまで中立の立場をとっていましたが、徳川家康は茶々から届いた石田三成挙兵の手紙を証拠として「秀頼様の為」という大義名分を掲げて挙兵、慶長5年(1600年)年9月15日に関ヶ原の戦いとなります。

結果、徳川軍の勝利で石田三成は処刑、徳川家康は茶々ら豊臣家に関しては石田三成ら西軍との関わりはなかったと信じている、と使者を通して述べており、このことに関して茶々は家康に感謝する手紙を書いたといいます。

 

徳川家康との対立

しかしその後、茶々と家康は対立するようになります。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康は恩賞を自分の分配で決め、豊臣家の領地は大阪の65万石のみとなってしまいました。

慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて徳川幕府を開くと、家康は茶々の子である徳川秀頼に臣下の礼をとるように求めましたが、これを茶々が拒否し、「そうするくらいなら親子ともども切腹する」という旨の手紙まで家康に送っています。

徳川幕府2代目将軍が世襲により徳川秀忠に決まったことも茶々の怒りを買ったと言われています。

 

大坂の陣・豊臣家の滅亡

幕府側の交渉役だった片桐且元と、茶々の侍女である大蔵卿局の言葉の取り違いから、慶長19年(1614年)11月3日、大坂の陣という戦いが勃発します。

茶々は自ら豊臣家恩顧の大名を招集しますが加勢は得られず、一度徳川家と講和するも二度目の戦い(夏の陣)で敗北し、慶長20年(1615年)6月4日に秀頼とともに茶々も切腹して亡くなりました。

享年50歳頃だったと言われています。

 

茶々の性格について

茶々の性格についてはフィクションでは勝ち気であったり、幼くして二度も落城を経験しているため陰があるように描かれがちですが、本当はどのような女性だったのでしょうか。

茶々がそのように描かれるようになった理由としては、以下の点が挙げられます。

  • 家康に対して「秀頼が徳川家に臣従するくらいなら切腹する」と啖呵を切っている手紙が残っている
  • 大坂の陣で対立した徳川家の資料には、茶々(淀殿)に対して悪意のある記載があり、それが後世に伝わっている

しかし実際の茶々は、先述の通り亡き父や母の菩提を弔うために両親の敵に嫁ぐなど慈悲深い女性だったのではないかと言われています。

二人目の秀頼を生んだ後は、両親だけではなく市の二人目の夫であり茶々にとっては養父である柴田勝家の菩提も弔っていたと言われています。

平和な時代であれば、心優しく信心深い良家のお姫様として一生を終えていたのではないかと考えらるでしょう。

寧々について

幼少期

寧々の生まれ年については諸説ありますが、秀吉のおよそ10歳下くらいだと言われているため、おそらく1547年前後に生まれたと推測できます。

秀吉や織田信長らと同じ尾張国(愛知県)の出身で父・杉原(木下)定利と母・朝日殿との次女として生まれ、のちに浅野長勝の養女となりました。

名前については「寧々」に「お」をつけて「おね」と読んでいたという資料もありますが、はっきりしていないようなので本稿では「寧々(ねね)」で統一します。

 

秀吉との結婚

秀吉と寧々の二人が結婚したのは永禄4年(1561年)8月で、当時は珍しかった恋愛結婚だと言われています。

当時、織田信長の家臣として仕えていた秀吉と寧々は同じ長屋におり、10歳ほども年下の寧々に秀吉が一目惚れしたようです。

秀吉は生まれは農民や足軽の出身だといわれており、寧々の実母である朝日殿はこの身分違いの結婚に強く反対したようですが、周りの説得もあって結婚することができました。

秀吉の身分が低いことや、反対されたということにに対する遠慮もあり、とても質素な結婚式だったと言います。

 

「木下」の由来は寧々?

秀吉は元々苗字を名乗ることができない身分でしたが、1565年の資料より「木下藤吉郎秀吉」と名乗っていることが分かっており、この「木下」という苗字の由来が寧々の実父からきているのではないかという説があります。

寧々と結婚して「木下」という名字を名乗ることが出来るようになったのが一番最初の出世だとも言われています。

 

結婚生活について

恋愛結婚だったということもあって二人の夫婦仲はよかったそうですが、秀吉の浮気癖には寧々も困っていたようです。

初めて城を持つころには城下の女性たちと浮気もひどくなり、秀吉の天狗な態度も目に余ったので上司である信長に手紙を書いて相談するほどでした。

信長は、自身の右筆(書記)に代筆させ、ねねにこのような返事を送っています。

「秀吉という奴ははげねずみ(信長が秀吉につけたあだ名)の分際で、本来であればこんなにいい奥さんは釣り合わないのに、その自覚がない程のおバカだから仕方ないのです。それにしてもあなた(寧々)は本当に素敵な女性で、この間久しぶりに見かけたときはどんどん美しくなっていて驚きました。ですから、つまらない女性にやきもちなどをやいて自分の格を下げることのないようにして下さい。ともかく奴の浮気の話は私(信長)もよく知っておくことにしますからこの手紙は秀吉に見せてやりなさい。」

信長が部下の妻に対してこのように丁寧な対応をすることは異例だったようです。

この手紙を読んだ秀吉は生きた心地がしなかったでしょうが、それでも秀吉の浮気が懲りることはありませんでした。

子供について

秀吉と寧々の間には子供はできませんでした。

ですので、当時豊臣家に住み込みで仕官していた福島正則や加藤清正らをわが子のように大事に育てていたといいます。

福島正則や加藤清正も寧々への恩は深く、関ヶ原の戦いの後も寧々のことを大事に扱いました。

 

関白・秀吉を支える存在

天正13年(1585年)に秀吉が関白になると寧々は北政所(きたまんどころ)の名称を許され、朝廷と秀吉の交渉を引き受けるようになりました。

更に争いに敗れて人質となった妻子の監督も担当したといいます。

大変よい働きをしたため、最終的には朝廷から女性として異例の従一位という位まで出世しました。

 

秀吉の死後

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなると、秀吉と側室・淀殿の子供である秀頼の後見人として、秀頼の世話をする役割を負いました。

秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫(徳川秀忠)との婚礼を済ませると落飾し、京都に高台寺を建てて、自分の生母や亡き秀吉の供養に専念するようになります。

それによって朝廷から院号を賜り寧々は「高台院」と称されるようになりました。

元和元年(1615年)大坂の陣で豊臣家は滅びますが、寧々と徳川家は良好な関係を築いたそうです。

寛永元年(16241年)10月17日、高台院屋敷内で寧々は静かに死去しました。享年は67歳や77歳、83歳だったとも言われています。

 

寧々の性格について

寧々の性格についてですが、残されている数々の資料を見る限り、とても良い性格の女性だったのではないかと言われています。

例えば、以下のような逸話が残っています。

  • 織田信長が家臣の妻である寧々にわざわざ励ましの手紙を送っていることから、合理主義の信長も思わず気にかけるような魅力的な人間性が推測できる
  • 秀吉と領民の間を取り持って、領民が言いづらいことを寧々が秀吉に頼んだりしたことがわかっている
  • 秀吉が対立していたポルトガル人の宣教師たちとも便宜をはかっていた

また夫である秀吉と側室・淀殿との子を甲斐甲斐しく世話したり、敵対していた徳川秀忠と友好的な関係でいたということは時代が時代だったとはいえ、なかなか出来ないことだと思われます。

寧々の存在があったからこそ、秀吉は異例ともいえる出世をしたのかも知れません。

 

寧々と茶々の関係について

本来秀吉の正室は寧々でしたが、秀頼という世継ぎを産んだ茶々も次第にもう1人の正室という扱いを受けるようになりました。

寧々と茶々の二人は対立していたという説が長い間言われていましたが、最近は協力関係にあったという説が有力なようです。

寧々が側室たちと一緒にお祭りに遊びに行っていたことや、秀頼を妊娠していた茶々の安産祈願を寧々が一緒に行っていたという資料が残っているため、二人の仲は良かったのではないかと言われています。

寧々と茶々の居城が分かれ始めてから秀次の事件などが起こっている為、正室二人の連携が豊臣家の要で、寧々らの住まいが分かれ、疎遠になっていったことと、姑の大政所(なか)の死も重なり、豊臣家の連携も次第に取れなくなっていったという説もあるほどです。

庶民出身ということもあり、家族とのかかわりも深かったと言われている秀吉ですが、妻や母たちの内助の功なしにはそれが成り立たなったということが秀次事件の悲劇に表れています。