上杉謙信とは?女性説や名言・城・刀、武田信玄との関係や最強説について解説!

「毘沙門天の化身」「越後の龍」「軍神」の異名を持ち、戦場で敵対した武将を恐れさせた越後の戦国大名・上杉謙信(うえすぎけんしん)。

越後守護代・長尾為景(ながおためかげ)の四男(三男との説もあり)に生まれながら、類い稀なる軍略の才と「義」を重んじる秩序正しい行動で、豪族や国衆の信頼を集めて家督を相続する事となり、越後の盟主となったのちは武田信玄(たけだしんげん)、北条氏康(ほうじょううじやす)、織田信長(おだのふなが)や周辺領主と激闘を繰り返しました。

崩れ行く秩序を維持することに奔走し、敵にも味方にも義を通す、戦国最強と言われた軍略家・上杉謙信ですが、女性説があったり生涯独身を貫いたりと私生活は謎に包まれており、使用した刀や居城など謙信の生涯とそれにまつわる逸話や事象を紹介していきたいとおもいます。

もちろん最大のライバル武田信玄との関係についても触れていきます。

生い立ち

享禄3年1月21日(1530年2月18日)長尾為景の四男として春日山城で誕生、幼名は虎千代(とらちよ)、母は長尾房景(ながおふさかげ)の娘で虎御前と言われています。

謙信が生まれた当時の越後は長尾三家(上田、三条、古志)が守護代の地位を奪い合い、越後守護上杉家、関東管領上杉家、越後各地の豪族を巻き込んでの内乱状態でした。

三条長尾家である父・為景はその中でも越後守護代として権勢をふるい大きな力を持っていました。

兄・晴景(はるかげ)が守護代を継ぎ為景が隠居すると、父に嫌われていた謙信は林泉寺(りんせんじ・曹洞宗)に入門させられ、住職の天室光育(てんしつこういく)から教育を受けます。

6歳時の謙信はこのころから武勇の遊戯を好んで行い、城郭の模型で遊んでいたと言われています。

 

初陣で勝利

天文11年(1542年)12月に為景が死去、葬儀の時に敵対する勢力が春日山城攻撃を目論んだため、謙信は元服前にもかかわらず甲冑を着け、剣を持って父の棺を護送し周囲を驚かせました。

翌年に元服し長尾景虎(ながおかげとら)と名乗った謙信は兄の命令で栃尾城に入城します。

守護代である三条長尾家に対抗する勢力は、気弱で才覚の乏しい晴景を侮り、各地で反旗を翻し、謙信の栃尾城にも攻め寄せました。

謙信勢は少ない兵力であったものの、敵の本陣に急襲をかけて敵を壊滅させ、初陣にして完璧な勝利を飾りました。

 

越後を統一

天文14年(1545年)10月、上杉の家臣・黒田秀忠(くろだひでただ)が謀叛を起こし春日山城を攻め、謙信の兄・景康(かげやす)らが討たれます。

謙信は黒滝城に立て籠った黒田秀忠を攻め降伏させますが、翌年に再び謀叛を起こします。

謙信は再びこれを攻め、追い詰めて討ち取り、黒田氏を滅亡させます。

晴景が守護代になって以降、豪族の反乱が多発し、それを押さえることの出来ない実力に苛立った中条藤資(なかじょうふじすけ)、高梨政頼(たかなしまさより)ら国人領主は守護代に謙信を擁立しようと画策、晴景を擁護する上田長尾家の長尾政景(ながおまさかげ)、黒川清実(くろかわきよざね)らと激しく対立しました。

守護職・上杉定実(うえすぎさだざね)の仲裁によって謙信が晴景の養子になることによって長尾家の家督と守護代の地位を継ぐことになります。

上杉定実が後継者を残さずに死去すると、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)によって謙信は越後国主に認められますが、晴景擁護派だった長尾政景が板戸城で反乱を起こします。

謙信はこれを素早く鎮圧し、姉の婿でもある政景を味方につけると1551年、22歳で越後の統一を果たします。

 

宿敵・武田信玄との死闘、川中島の合戦

天文21年(1552年)相模国小田原を本拠とする北条氏康(ほうじょううじやす)が関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の居城である上野国平井城を攻めたため、上杉憲政は城を捨てて越後に逃亡し、謙信に保護を求めます。

これによって謙信は関東の雄である北条氏と敵対することになりました。

また同じ頃、信濃守護・小笠原長時(おがさわらながとき)も甲斐国・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を本拠とする武田晴信(たけだはるのぶのちの武田信玄)に攻められ、領地を捨て謙信を頼って越後にやって来ます。

謙信は室町幕府の秩序を維持することをここに誓い、管領や守護の復権のために立ち上がり、武田信玄との対決を決意します。

謙信は天文22年(1553年)4月、信濃の村上義清(むらかみよしきよ)が武田に攻められた事に端を発した第一次川中島の合戦から天文24年(1555年)の第二次、弘治3年(1557年)2月の第三次、永禄4年(1561年)8月の武田の重臣・武田信繁(たけだのぶしげ)・山本勘助(やまもとかんすけ)などを討ち取った、もっとも両軍の被害が大きかった第四次、永禄7年(1564年)4月の第五次と五回に及んで激突するも、決着がつくことはありませんでした。

関東管領を継承、繰り返される関東出兵

謙信は信濃に出兵し、武田信玄と戦いながら上野国へも出兵を繰り返して関東管領を復権させ、関東統治の秩序を取り戻そうとします。

しかし、北条氏康は武田信玄と同盟を結び、契約するなら信濃へ出兵すると上杉領を侵略し、謙信が関東に姿を現すと撤退すると言う狡猾な手段を使います。

謙信が上野国へ出兵し諸城を落とし、上杉領を回復し諸将に管領への帰順を申し付け、越後に帰国するとすぐに北条が工作の手を伸ばし、離反を誘発すると再び多くが上杉を裏切って敵対する状況が続きました。

永禄3年(1560年)5月、武田、北条、今川の甲相駿三国同盟のうちの今川義元が桶狭間で織田信長に討たれます。

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謙信は同盟が揺らいだ機を逃さず関東に出兵、上野国の諸城を陥落させ、この年は厩橋城で越年し、関東の諸将に北条討伐の檄を飛ばすと武蔵国へ侵攻、2ヶ月足らずで武蔵国の深谷城、忍城などの主要城を落とすと2月には鎌倉を攻め落とし、関東管領・上杉憲政を擁し佐竹、里見、大田、那須、里見などの関東有力城主を集めて総兵力10万で北条氏康の小田原城を囲みました。

しかし今回も武田信玄が川中島に兵を出し謙信の後方を牽制、一部武将の離脱なども相まって、謙信は小田原から兵を引き上げます。

これらの功績を買われた謙信は上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を譲られてこれを相続、関東管領・上杉政虎(うえすぎまさとら)と改名します。

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越中を制圧し仏門に帰依、謙信を名乗る

永禄4年(1561年)12月将軍・義輝から一字を賜って名を輝虎と改めますが、越後を取り巻く状況は好転していませんでした。

川中島で武田信玄と繰り返される戦闘、東上野の支配は確立したものの、降伏、離反を繰り返す関東諸将に手を焼き、関東平定は困難な状況が続くなか、謙信に越中の国人領主から支援要請が繰り返し届くようになります。

 

北条氏と同盟締結

永禄3年(1560年)頃から越中へも出兵するようになった輝虎はまさしく東奔西走となります。

ところが永禄11年(1568年)12月、北条氏康が甲相駿三国同盟を破棄して武田信玄と敵対、謙信に同盟締結を申し出てきました。

関東平定を狙う謙信には不服でしたが、度重なる関東出兵による越後国内の不満はピークに達しており、仕方なく謙信は北条氏との同盟を締結、東からの脅威を取り除くと織田信長とともに上洛を果した足利義昭(あしかがよしあき)から関東管領職を再任されます。

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越中を支配下に

謙信は越中の一向一揆の鎮圧と臣従、離反を繰り返した椎名康胤(しいなやすたね)を討伐するため、大挙越中へ出兵します。

北条氏康からの関東への援軍要請にも応じながら、越中での一向一揆との戦いを制して翌天正元年(1573年)には越中を支配下におさめました。

北条氏との同盟は元亀2年(1571年)10月に北条氏康が死去するまで続き、氏康の七男・三郎を養子とし景虎の名を与え、自身は不識庵謙信(ふしきあんけんしん)と名乗ります。

 

氏康、信玄亡きあと、天下に敵なし

天正元年(1573年)4月、宿敵・武田信玄が死去すると、謙信と戦場で互角に戦える大名は存在しなくなり、氏康のあとを継いだ氏政(うじまさ)は北条と上杉の同盟を解消し、信玄のあとを継いだ勝頼(かつより)と同盟を結びます。

しかしどちらも戦場では謙信と互角に戦う力量はなく、上杉の勢力範囲は越中を越え加賀、能登に及び、飛騨、信濃、上野から武蔵、下総まで広大な地域に拡大していました。

このころ中央では織田信長と足利義昭が対立、毛利氏に身を寄せた義昭は天正4年(1576年)織田信長討伐を宣言、謙信はこれに応えて一向一揆の指導者たる本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)と和睦、越中の一向一揆に邪魔される事なく上洛が可能となります。

天正4年(1576年)上洛を急ぐ謙信は能登に出陣し、瞬く間に諸城を落とし能登国の要衝・七尾城を囲みます。

しかし敵の抵抗も激しく天然の要害である七尾城は簡単には落ちず、謙信は一旦春日山城に引き返します。

翌年、再び能登に出陣した謙信は遂に七尾城を落としますが、七尾城からの救援要請を受けていた織田軍が能登に姿を見せ、遂に上杉対織田の天下を掛けた決戦となります。

織田軍の指揮官は柴田勝家でしたが、率いた3万の軍勢は手取川を渡河しようとしているところを8千の上杉勢に急襲され大打撃を受けて退却します。

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謙信の最期

織田軍を撃退した謙信は天正5年(1577年)12月18日、春日山城に帰還し23日には越後だけでなく制圧した全地域に向けて大動員令を発し、翌天正6年(1578年)3月15日に遠征を開始すると発表しました。

ところが遠征開始の6日前の3月9日、便所にたった謙信は脳溢血(のういっけつ)で倒れて昏睡状態となり、その4日後に3月13日に意識を回復する事なく永眠しました。

謙信が後継者も定めず急死したことによって越後上杉家は混乱に陥り、結果的に織田信長の天下統一に協力することとなってしまいました。

謙信の遺骸は鎧をつけ太刀を帯びた姿で大きな甕(かめ)に納められて漆を流し込んで密封し、現在は山形県米沢市の上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)に埋葬されています。

上杉謙信女性説

上杉謙信は生涯独身を貫いたため、実子がおらず四人の子供は全て養子でした。

このため謙信には女性説、男色説が現在でも噂されています。

女性説は小説家の八切止夫(やぎりとめお)が昭和43年(1968年)に発表した仮説がもとになっています。

スペイン国王フェリペ2世に提出された日本についての報告書の中に会津の上杉はその叔母が開発した佐渡金山のために黄金をたくさん所有していると言う記述があります。

この書面を見た八切止夫は上杉が景勝の事で叔母と言うのが謙信ではないかと推測、これによって上杉謙信女性説を唱えました。

しかし、謙信が20代の頃には直江景綱の長女や近衛前久の妹との恋愛話も伝えられており、女性に興味がなかった訳ではなさそうです。

上洛した時には遊郭に通ったとの話も言い伝えられており、女性説や男色説は後世の創作との見解が有力になっています。

正室を迎えなかったのは毘沙門天信仰の妻帯禁制を忠実に守ったためとも言われていますが、真相は謙信のみが知るといったところでしょうか。

 

上杉謙信の刀・鎧・兜

備前刀「無銘一文字(山鳥毛)」といわれ、現在は岡山県立博物館に寄託されています。

現在では五億円の価値があるとも言われており、さすがに聖将といわれるだけの事はあります。

上杉神社に所蔵されている鎧は黒小札紫糸威之具足、兜は飯綱明神前立鉄錆地張兜だと言われています。

全体的に美しい黒色の具足を紫色の紐で組んでおり、戦場では威圧感のある落ち着いた風貌を醸し出したと思われます。

 

戦国最強伝説

上杉謙信の居城は現在の新潟県上越市にあった春日山城で、謙信が長尾の家督を継いでからはこの城に攻め込まれた事はなく、常に敵の領土へ攻め込む姿勢を崩しませんでした。

特に野戦では無類の強さを見せ、ライバル関係にあった北条氏康、武田信玄は謙信と戦う時に野戦を選択することはなく、晩年には謙信が姿を見せると戦場から撤退する事もしばしば見られています。

信玄は謙信の事を「その国の太守謙信、おおかた太刀においては日本無双の名大将にて御入り候故、信玄入道時々刻々愚拙へ物語にて候き」すなわち越後の太守・上杉謙信は日本無双の名大将と甲斐の僧侶に告げています。

また北条氏康も「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ人物だ。謙信だけは請け合ったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と重臣たちの前で語ったと伝えられています。

 

名言

今川領からの塩の流入を止められた武田信玄が困っているときに、越後でとれた塩を甲斐の国に送り、「敵に塩を送る」ということわざの起源ともなった上杉謙信の義理と人情の人生ですが、最後に彼の戦に対する名言を紹介して上杉謙信の紹介を終わりにしたいと思います。

名言
依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す。
意味
私は私利私欲で合戦はしない。ただ、道理(筋道)がかなっているならば誰にでも力を貸す。