毛利輝元とは?関ヶ原や無能という評価、子孫などについて解説!

あの有名な関が原の戦いで西軍の総大将を任されるものの出陣することもなく、ただその戦いを傍観していた武将がいることをご存知でしょうか。

その大将こそが毛利輝元です。

現代ではよく無能と評価されるこの毛利輝元ですが、果たして本当に無能だったのでしょうか。

その生涯や子孫に関して、解説していきたいと思います。

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毛利輝元の生い立ち

1553年1月、毛利隆元の嫡男として毛利輝元は誕生しました。毛利輝元の母親は、内藤興盛の娘で、正室である尾崎局です。また祖父はあの有名な毛利元就です。

この毛利輝元、父である毛利隆元が戦死したため、若干11歳の若さにして毛利家の家督を任されました。

このように苦労せずして家督になったことから、「苦労知らずの3代目」とも呼ばれ秘密事項もすぐに口外してしまうなど、少し困った武将でありました。

このころはまだ若かったため、実際の指揮は祖父である毛利元就が執り行う「二頭政治体制」が続きます。そして月山富山城の戦いで、輝元は初陣を飾りました。

 

織田信長との対立

1571年、元就の死去後は、叔父である吉川元春の指導を受けながら、自ら指揮を執り、毛利家の勢力を拡大していきました。

そして1574年には、足利義昭から推薦を受け、朝廷から右馬頭に任命され、室町幕府の相伴衆にもなっています。

元就が生きている間は、織田家とも良好な関係を築き、吉川元春と小早川隆景も織田信長と友好的な関係にありました。

しかしながら、元就が亡くなった後、織田家が毛利家を攻めはじめ、石山本願寺が兵を挙げた際に、弾薬や食料を石山本願寺に支援したことをきっかけに、織田信長と対立するようなりました。そして次第に毛利家は追い込まれていきます。

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石田三成の関ヶ原の戦い

そんな毛利輝元ですが、1600年の石田三成の関が原の戦いでは、輝元をより上の立場から指示できる人がいないとして、西陣の総大将に任命されました。それは徳川家康に次ぐ、実力者としての扱いでした。

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総大将として大阪城に入った毛利輝元ですが、実際に関ヶ原の本陣に出陣することはなく、自身は大阪城に籠ったまま一族の毛利秀元と吉川広家を合戦に向かわせました。

また九州に対しては、大友吉統を派遣しています。

しかし自身は傍観するにとどまり、吉川広家の働きのおかげで、最後まで刀を交えることはなかったのです。

そして関ヶ原の合戦に敗れると、毛利輝元は自ら大阪城を敵陣へ明け渡してしまいました。

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大阪冬の陣

1614年の大阪冬の陣では、病を押して軍勢を率い、徳川勢につきました。そして輝元は従兄弟の内藤元盛を大阪城へ派遣します。

一方でこの時輝元は、豊臣方へ軍資金を提供していたとも言われています。

このように輝元は、徳川家・豊臣家どちらが戦いに勝っても、自分自身に有利に働くように裏工作を行っていたのです。

そして翌年1615年の大阪夏の陣では、内藤元盛を自害に追い込むなどして、毛利家の存続に貢献しました。

 

無能と呼ばれる所以

なぜ毛利輝元は無能と呼ばれるのでしょうか。

前述の通り、毛利輝元は関が原の合戦で西軍の総大将を任されたものの、自身は出陣することはありませんでした。

それどころか十分な兵力をもち、難攻不落と呼ばれた大阪城で戦いの様子を傍観し続けました。

そして戦いに敗れたことがわかると、すぐに敵陣に大阪城を明け渡してしまうのです。結果として毛利家の領地は120万石から37満秀忠席前大幅に削減されてしまいます。

もし関ヶ原の戦いの際、少しでも戦う意思を見せていれば、無能と呼ばれることはなかったのかもしれません。しかし輝元は全く戦うことはありませんでした。

こうした部分が、毛利輝元が無能と呼ばれる理由と考えられます。

 

現代の評価

関ヶ原の戦いで、全く戦う素振りを見せないどころか、敗戦が決まるとさっさと大阪城を敵陣に譲り、無能と評価されることとなった毛利輝元。

では果たして毛利輝元は本当に無能なのでしょうか。

毛利輝元は実は無能ではなく、有能だったのでは、という声も現代では聞こえています。

関ヶ原の合戦のあと、毛利輝元は家督を息子に譲り、出家しました。

しかし、実はこの時も実質的な権力を握っており、削減された石高で家来たちを養っていく必要があったのです。

こうした状況下でも、輝元は徹底した倹約と新田開発に努め、その結果10万石以上も石高を上げることに成功しています。

最終的に長州藩の石高は50万石を超え、当時の江戸幕府を驚かせました。

このように輝元は、戦いを率いることは苦手でしたが、領地を治め、経営する能力には長けており、現代ではこうした部分を再評価する声も挙がっています。

 

毛利輝元の子孫とは?

現代では再評価の声も挙がっている毛利輝元。では、毛利家は現代も存続しているのでしょうか。

実は現在、誰もが知っている超有名なミュージシャンが毛利家の子孫なのです。

その方とは、なんと俳優としても活躍している吉川晃司さんです。

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