黒田官兵衛(如水・孝高)とは?家紋・名言・子孫、逸話や死因について解説!

黒田官兵衛は戦国時代から江戸時代まで生きた武将で、「三英傑」と言われた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のいずれにも重宝された人物です。

頭が良く知謀で英傑たちの活躍を支える、組織の優れた参謀でした。

そんな官兵衛は激動の時代でどのように活躍したのでしょうか。死因や子孫、名言や逸話、家紋にも触れながら解説をしていきます。

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名前が多い?

黒田官兵衛は本名を黒田孝高といいます。

「官兵衛」は秀吉がつくった役職の名前です。後に出家して黒田如水(じょすい)と名乗ったり、小寺家という家に仕えていたときは小寺孝高と名乗っていたりしました。

キリシタンでもあったため、シメオンという洗礼名もあります。

本稿では黒田官兵衛、或いは官兵衛で統一したいと思います。

 

黒田家は目薬屋?

黒田官兵衛は天文15年11月29日(1546年12月22日)に播磨国(兵庫県姫路市)で生まれました。

黒田家は元々室町幕府に仕える近江(滋賀県)の名門でしたが、あるときに将軍の怒りに触れて備前国(岡山県)に流れました。

官兵衛の祖父の代に播磨へと移り、生活費に困った官兵衛の父黒田重隆は「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬の製造販売で生計を立てます。

目薬で得た利益で低金利の金融業を営み、その利益で田畑を買うなどしてとても豊かな経済力を得たということです。

実際に目薬の販売をしていたのかは疑わしいという説もありますが、手段はともかく重隆が富を築いたことは事実でしょう。

 

小寺家での活躍

幼少期

財を築いた才能を買われ、官兵衛の父・重隆は小寺家へ仕官することになります。小寺家は播磨で権力を持つ赤松家の分家でした。

官兵衛は7歳ころから寺で読み書きを習い、勤勉で運動神経もよく、文武両道であったと記録に残っています。

官兵衛の母親は主君・小寺政職の養女で、教養のある女性だったため、母親の影響で官兵衛も連歌や和歌を書くことが好きでした。将来はその道を究めたいと思っていたようです。

 

元服後

官兵衛が13歳のころ母親が亡くなりました。

官兵衛はより一層歌道にのめりこみますが、そんな彼を近所のお坊さんが「時代は乱世であり、今は兵書を読んだり武芸に励むべきです」と説得したという記録があります。

官兵衛は父と同じく小寺家へ仕官する道を選びました。永禄5年(1562年)、官兵衛16歳で初陣を飾り、父とともに出陣しました。

 

黒田家総帥として身を固める

永禄8年(1565年)、官兵衛が20歳になった頃から父・重隆より家督や家老職を継ぎ、小寺家の実務を担当し始めました。

永禄11年(1558年)に結婚し、志方城(兵庫県加古川市)城主・櫛橋伊定の娘である光方(てるのかた)を正室に迎えます。

光方は光姫(てるひめ)とも呼ばれており、連歌会で使っていた雅号から幸圓(こうえん)と呼ばれることもあります。

官兵衛は、生涯側室を作らず光方だけを妻としました。

同年12月3日、官兵衛23歳、光方16歳の時に嫡男長政が誕生します。

 

青山・土器山の戦い

青山の戦い

官兵衛が仕えている小寺家は、赤松家という名門一族の別家でした。

あるときその赤松家の主家で後継者を巡って争いが起きます。

赤松政村(後に晴政に改名)とその息子義祐が対立し、永禄元年(1558年)に義祐は父親である政村から赤松家家督の座を奪い取ります。

小寺家は義祐側につき、追い出された政村側は龍野赤松家家督・赤松政秀を頼りました。

龍野赤松家は当時の播磨で一番権力を持っていました。

家督の赤松政秀は自分の娘を将軍足利義昭の侍女として送っており、更に織田信長との繋がりもあったのです。よって赤松政秀に加えて信長も政村側につきました。

このお家騒動から永禄12年(1559年)小寺家VS赤松、信長軍の青山の戦いが勃発します。

赤松、信長軍は総勢3000人ほどで、官兵衛が指揮する小寺軍は300人ほどだったといいます。

黒田官兵衛は奇襲により、赤松、信長軍を撤退させました。10倍も数が多い敵軍に勝利したのです。

 

土器山(かわらけやま)の戦い

しかし4ヶ月後、今度は官兵衛の軍が赤松軍の奇襲を受けます。

赤松軍3000人、官兵衛の軍は援軍を入れて400人程度でした。

この戦いには逸話が残っています。

黒田家家臣の母里武兵衛は7箇所も傷を負ってしまったため、「こんなに重傷なのにまだ戦えだなんて、死ねということですか?」と官兵衛に訴えます。

官兵衛は「簡単に言うと、そういうことです」と答えて出陣させました。

結果、夜襲にて赤松軍に勝ちました。

左記の武兵衛は華々しく戦果をあげつつ戦死、母里氏からは24人もの死者が出て、母里氏を継ぐ人が居なくなってしまいました。

官兵衛は功績者である母里氏が絶えるのを惜しみ、曽我一信と母里氏の女性とを結婚させて母里姓を名乗らせます。

この二人の間に生まれたのが、豊臣秀吉の朝鮮出兵で活躍し、民謡の「黒田節」でもうたわれた母里友信でした。

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織田信長への臣従

その頃、織田信長は赤松家を通じて播磨の支配をはじめており、当時播磨国内で信長に従っていないのは小寺家だけでした。

更に西側には毛利氏という脅威があったため、小寺家は織田か毛利かのどちらかについた方が良いのではないかと考えるようになりました。

小寺政職は官兵衛ら家臣を集め、どちらの武将につくかで会議をします。

官兵衛がこれからは信長の時代になると説いたので織田氏につくことが決まりましたが、信長の元に会談に行く人がなかなか決まりませんでした。

結局誰も行きたがらなかったので、官兵衛は自分が行くと言いました。それに喜んだ政職が官兵衛に小寺姓を与えたといいます。

 

信長に気に入られる

天正3年(1575年)、信長に会いに岐阜へ行きます。

その時、官兵衛と信長の間をとりついだのが羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)でした。

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官兵衛は受け答えもスマートで信長にとても気に入られたため、「へし切り長谷部」と言う名刀を預かったと言い伝えられています。

この逸話は後世の創作であると言われていますが、それにしても、24歳のときに3000人の兵に300人で勝った官兵衛の能力というのは、信長にとっては名刀に替えても欲しいものだったのでしょう。

その後、官兵衛は天正5年(1577年)の英賀合戦で毛利氏に勝利、その鮮やかな勝ち方に信長から感謝状が送られています。

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秀吉の登場

その頃小寺家と信長の間を取り次いでいたのは荒木村重という武将でしたが、天正4年(1576年)頃毛利氏との本格的な戦いに備え、信長の腹心であった羽柴秀吉が播磨に派遣されることになりました。

この頃の逸話として、官兵衛と秀吉との手紙が黒田家に残っています。

秀吉クラスの武将になると右筆(ゆうひつ)という書記役がオフィシャルな手紙を書くのですが、秀吉は自分で手紙を書きました。

また、公的な文書で使われる漢字の文体ではなく、平仮名を使った話し言葉で黒田家に文を送ったのです。内容はこのようなものでした。

「お手紙を受け取りました。これからは何でもお互いが直接やりとりをしていきたいなと思っています。孝高(官兵衛)どのに関しては、僕の弟の小一郎(羽柴秀長)と同然でありますから、どうぞ安心してください。(後略)」

秀吉は最初のやり取りこそ礼儀正しく形式通りに文を送りましたが、その次からは私的で心がこもった手紙を送り、官兵衛といかにも親しいかのように演出して黒田家の信頼を得ました。

 

毛利氏との闘い

織田軍VS毛利軍の構図、織田軍における信長→秀吉→官兵衛という指揮系統ともに整います。

毛利軍には吉川元春や小早川隆景という強い武将がおり、なかなか一筋縄ではいきません。さらに織田軍には裏切る者も出たので、難しい戦況になりました。

面倒なことに小寺家と信長を結んでいた荒木村重も信長を裏切り、村重は小寺家も道連れにして離反しようと動いていました。

 

最大のピンチ

天正6年(1578年)、官兵衛は荒木村重説得のため一人で有岡城(兵庫県伊丹市)に出向きます。

そこで官兵衛は生け捕りにされて幽閉されてしまい、それから一年ほど牢に入れられ、自力で歩けなくなるほど弱ってしまいました。

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竹中半兵衛との関係

いつまでたっても官兵衛が帰ってこないので、信長は官兵衛も一緒に裏切ったのではないかと考えはじめ、官兵衛の息子・長政の殺害を命じました。

しかし竹中半兵衛という武将が官兵衛の裏切りはあり得ないと考え、それを阻止しました。

竹中半兵衛は本名を竹中重治といい、官兵衛と同じく半兵衛は役職名です。

二人は「両兵衛」と呼ばれ、どちらも秀吉軍の頭脳派として活躍しました。

竹中半兵衛は信長に偽の首を見せて長政を殺したと嘘の報告をし、実際は自分の領地で長政を保護しました。

総大将である信長の命令は絶対であり、この嘘がバレてしまったら確実に殺されます。半兵衛は命をかけて長政を守りました。

 

官兵衛の生還

天正7年(1579年)、織田軍は有岡城を包囲して官兵衛を助け出しました。

信じられないことに有岡城城主の荒木村重は家族や家来を見捨て、一人で毛利氏の元へ逃げていました。見捨てられた罪のない使用人や女子供たちは信長軍によって惨殺されたといいます。

劣悪な環境で幽閉されていた官兵衛は救出時ひどい皮膚病にかかり、頭に大きな瘡(かさ)ができていました。膝も曲がって歩けなくなっていたと記録にあります。

このときすでに竹中半兵衛は結核で亡くなっており、官兵衛が恩人に会えることは二度とありませんでした。

一方で、竹中半兵衛との一連の美談は創作であると言われています。信長が長政の処刑を命じたという記録はどこにもなく、むしろ信長も黒田家も官兵衛不在ながら非常に冷静だった、ということが資料によってわかっているからです。

しかしながら創作エピソードから人柄などが想像できるものもあるため、興味深いものは記載していきたいと思います。

 

小寺から黒田へ。小寺氏の滅亡

村重の企みで小寺政職は毛利側に寝返っており、官兵衛が説得しても聞き入れてもらえませんでした。

政職は信長に攻め入れられて備後国鞆(広島県)に逃げ、その地で亡くなりました。

息子の氏職は黒田家に保護され、天正10年(1582年)に亡くなってしまったため、小寺家は事実上消滅し、その子孫は代々黒田家に仕えたといいます。

このころに官兵衛は秀吉直々の家臣となり、小寺から黒田に名前を戻しています。

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奇策① 兵糧攻めー鳥取城の戦いー

毛利軍との戦いにおいて、官兵衛の戦術の中でも有名なものが2つあります。1つ目は兵糧攻めです。

敵軍を城に籠らせて米などの食べ物を消費させ、飢えによって降伏させる作戦のことを言い、相手を自滅させる作戦のため、自軍の兵士にダメージがないという長所があります。

官兵衛が捕まっている間にも、秀吉が三木城という城を攻めるときに実践していました。

 

兵糧攻めを開始

黒田官兵衛は鳥取城で兵糧攻めを行います。

天正8年(1580年)頃、毛利川の吉川経家が鳥取城に入城して城を守っていました。

城主の経家が手ごわい上に、鳥取城はとても攻めづらい城でしたので、自滅を狙って兵糧攻めをすることにしました。

官兵衛は高値で周辺の米を買い占め、川や海を見張らせて食糧が送られてくることを徹底的に阻止し、更に援軍の侵入ルートも遮断するという徹底ぶりでした。

とどめには鳥取城下の領民に攻撃を仕掛けます。

元々鳥取城には一か月ほどの蓄えしかなかったうえに、領民の保護のため2000人近くを城に入れざるをえない状況になりました。

食料はあっという間に尽き、城の中の人たちは牛や馬などの家畜を食べ、(当時の日本に肉食の習慣はありません)、猫やネズミ、死んだ人間まで食べるようになります。

最終的には生きている人間を食べるために殺し合うという事態にまでなったので、吉川経家は降伏しました。

秀吉は「経家どのは(優秀で使えそうだから)助けましょう、家臣たちの命で許しますよ」という取引を持ちかけますが経家は応じず、その家臣たちと共に切腹して城主としての責任を負いました。

この戦いの決着を見ることなく官兵衛は次の戦地へと進軍します。

 

奇策② 水攻めー備中高松城の戦いー

もう1つは水攻めです。文字通り洪水を起こして城ごと攻撃するというスケールの大きい作戦です。

天正10年(1582年)6月、秀吉軍は備中高松城(岡山県)を攻めますが沼に囲まれた城のため、大軍で押しかけることができません。

官兵衛は、逆にこの地の利を生かして水攻めをしようと秀吉に提案します。

全長4キロ、高さ8メートルという巨大な堤防をつくって近くの川の流れをせき止めようと考えました。

秀吉が地元の農民らに破格の給料を出して堤防を作らせたので二週間足らずで完成したといいます。

ちなみにその堤防は現在も一部残っており、岡山県の蛙ヶ鼻築堤跡でみることできます。

梅雨の時期であったこともあり、水攻めは大成功で城は沈没寸前、この戦いでようやく毛利氏も負けを認め始めました。

しかし京都では大事件が起きて、毛利氏どころではなくなってしまうのです。

 

本能寺の変

天生10年(1582年)6月2日に起きた「本能寺の変」は戦国時代最大のミステリーとされ、様々な視点から研究が進められているにもかかわらず、未だになぜあの事件が起きたのかはっきりとわかっていません。

現代ですらよく分からないのですから、リアルタイムでそれを見聞きした人にとっては「織田軍ナンバー2の明智光秀が織田信長を殺害した」ということがどれほど信じがたく、混乱を招いた事件だったかが想像できると思います。

本能寺の変翌日の夜、秀吉のもとに使者が大急ぎで信長の死を知らせに来ました。

もし毛利側がそのことを知ってしまったらどう出てくるのかわかりません。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利家と講和し、急いで京都に戻ることにします。

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黒田官兵衛による進言

悲嘆に暮れている秀吉に対し、官兵衛がかけた言葉が次のようなものだったと言われています。

「光秀どのが裏切ったことによって、秀吉さまの天下の道が開けました」

悲しみの底にいる秀吉に対して、官兵衛は光秀が裏切ってくれたおかげで天下を目指せる(裏切者の明智光秀を倒すという大義名分のもとに天下を目指せる)と軽やかに言うのでした。

この発言以降、秀吉は官兵衛を死ぬまで警戒します。官兵衛の醒めた本性と意外な野心を知って怖くなったのでしょう。

あるいは秀吉が自分の本心を見透かされた、と思って心を閉ざすことにしたのかも知れません。何れにしても出過ぎた発言であったことは間違いないでしょう。

 

中国大返し、山崎合戦

秀吉軍は6月6日に高松を出発し、13日には山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智軍と戦闘を開始、この山崎合戦に勝利して秀吉は天下を手にします。

この間200km近く武装したまま移動したというこの逸話(中国大返し)は秀吉側の情報操作説が有力です。

実際は秀吉側で光秀の謀叛を予測しており、早く戻ってこられるように準備していたともいわれています。

 

秀吉の時代へ

清洲会議から賤が岳の戦い

同年の清洲会議で、信長の跡を継ぐのは信長の孫である3歳の三法師(平信秀)がふさわしいと決まりました。

それによって織田家で最大の力を持っていた柴田勝家と秀吉との力関係が逆転します。

結局両家とも譲らず、天正11年(1583年)賤が岳の戦いが勃発しました。

この戦いに秀吉が勝利し、諸大名が秀吉に味方するようになります。

賤が岳の戦いに関しては黒田官兵衛が参戦していたという説もありますが、官兵衛はその間もう一つの大切な人な仕事をしていました。

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毛利氏との講和、そして将軍の帰京

その頃、官兵衛は本能寺の変でうやむやになっていた毛利との戦後交渉に当たっていました。

講和はなかなかスムーズにいきませんでしたが、意外な所から助け舟が出ます。室町幕府将軍・足利義昭でした。

義昭は織田信長に利用された挙げ句、用済みになると京都から追い出され、広島県にいながら京都に帰る機会を伺っていました。

信長亡き今秀吉は義昭の帰京に同意し、義昭は毛利家との講和に便宜をはかってくれることになります。

将軍との交渉役は官兵衛が担当しますが、この時義昭は官兵衛の誠実な対応を大変喜び、名馬と名刀を贈っています。

余談ですが、その後義昭は将軍職を辞退し、秀吉は上司の信長とは対照的に元将軍を大事に扱いました。室町幕府最後の将軍は大大名として扱われ61歳まで長生きしました。

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秀吉との微妙な関係

秀吉の疑心暗鬼

この後官兵衛は四国遠征や九州遠征などで活躍しますが、本稿では割愛し、秀吉とのギクシャクした関係について簡単にご紹介したいと思います。

黒田官兵衛が最終的に手に入れた所領は、九州豊前(福岡県)の僅か12万石でした。

これに関してはこのような逸話があります。

秀吉とそのお付きの者たちが世間話をしていた時に、「次に天下を取るのは誰でしょうか」という話題になり、秀吉は「徳川家康か黒田官兵衛」だと答えます。

お付きの者は、「黒田官兵衛は12万石しかない地方の大名じゃないですか」と返しますが、秀吉は「(官兵衛に)もし100万石与えればたちまち天下を取るであろう」と言ったそうです。

 

キリシタン大名

官兵衛は敬虔なキリシタンでもありました。洗礼名をドン・シメオンと言います。

それまでキリスト教は黙認されていましたが、秀吉は天正15年(1587年)に「バテレン追放令」という禁教令を出しました。

理由は神父が九州の領民へキリスト教の改宗を強制した、ポルトガル人が日本人を奴隷として海外に売ったという事実からきており、この禁教令は国を守る為の政策でした。

しかし官兵衛は信仰を貫きました。

同じく信仰を貫いた高山右近は国外追放となりましたが、秀吉は官兵衛を処分することが出来ませんでした。

キリスト教を巡って秀吉は度々官兵衛を非難しており、歴史の表舞台に出ないところで二人の対立は露わになったのです。

それでも秀吉は官兵衛を朝鮮出兵でも重用し、領地を取り上げることもしませんでした。

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黒田如水へ

官兵衛は自分を警戒している秀吉の本音を見抜いていたのと、朝鮮での戦いで不手際があったこともあり、家督は息子の長政に譲って出家・隠居しました。

出家名の如水(じょすい)は、「水のような」という意味で、「何を言われても、心は水のように澄んでいます」という官兵衛の気持ちを伝えています。

黒田家にはもう一つストレスがありました。

豊臣家家臣の石田三成とは黒田父子揃ってウマが合わなかったようです。この頃は三成の讒言や企みにより秀吉と官兵衛の仲は更に悪くなっていました。

出家名は豊臣家への静かなメッセージでもあったのです。

 

もう一つの関ヶ原の戦い

慶長8年(1598年)、豊臣秀吉の死をきっかけに家臣たちは分裂していき、石田三成側と徳川家康側に分かれて争います。

2年後の関ヶ原の戦いでは官兵衛の息子である黒田長政の計略もあって東軍が勝利、徳川家康が新たな天下を築きます。

その後、官兵衛は加藤清正らと力を合わせて九州を平定しました。

平定後領地を福岡藩と名乗りましたが、福岡の名付け親は黒田官兵衛だったのです。

九州でポスト家康のキーマンになろうとしているのではないかと当初は家康も警戒していたようですが、官兵衛は「もう私は歳をとり、病気がちでもありますので、ゆっくりさせてください」と言ってそれは認めなかったそうです。

その真意は誰もわかっていません。

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晩年

官兵衛の晩年は、子供の頃なりたかった歌人の道を歩むようになります。細川忠興の父で当事連歌の大家であった細川幽斎と交流もあったようです。

また、武将たちの間で流行っていた茶も究めるようになりました。

若い頃は「武将同士が不用心に刀も持たず同室にいるのが怖い」といって嫌っていたようですが、晩年は嗜むようになります。

慶長9年(1604年)4月19日、黒田官兵衛は亡くなりました。享年59歳。

葬儀は博多で行われ、キリスト教式で行われました。

家臣の殉死などを固く禁じたそうで、死に際してこのような遺言を残しています。

「世の中に切腹ほどつまらないものはない。主人と一緒に死んだとところで、死後共に過ごせるわけもないのに。むしろ立派な家臣を出来るだけ残して、大事な我が子にやりたい。くれぐれも私の後を追うことのないように」

 

死因について

黒田官兵衛の死因については不明な点もあります。

資料によると病死とありますが、どのような病気だったのかはわかっていません。

以下の点から一説には梅毒という説もあります。

  • 有岡城の事件後、官兵衛の頭に大きな瘡があった(梅毒による「ゴム腫」の症状)
  • 有岡城の事件後、官兵衛には歩行障害があった(梅毒性脊髄炎の症状)
  • 死の直前に人が変わったように臣下や息子にひどく当たった(梅毒の第4ステージ、脳や神経への症状)

という記述があるためです。

また梅毒が大陸より持ち込まれたのは1512年と鉄砲の伝来よりも早く、当時の大変な流行病だったため可能性も否定できません。加藤清正らも梅毒によって亡くなっています。

 

梅毒説は否定?

しかしこの可能性も最近は否定されています。

  • 頭の瘡→有岡城幽閉時、非常に不衛生な環境でノミやシラミがいた。
  • 歩行障害→幽閉時の栄養失調、心理的ストレスによる。
  • 死の直前の攻撃的な言動→官兵衛のある作戦であった(後述します。)

という説が有力です。

結果死因ははっきりと特定できていないようです。

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家紋について

①藤巴

黒田官兵衛が使用していた家紋は2種類あります。

その一つ目が、元々黒田重隆官兵衛親子が仕えていた小寺家から賜った家紋です。

小寺家は「橘藤巴」という美しい家紋を使っていましたが、黒田家は家臣としての遠慮から簡略デザインの「藤巴」としました。

 

②黒餅

一転してシンプルなデザインになります。

黒餅は、「こくもち」→「石持ち、穀持ち」という語呂合わせで縁起が良いとされ、当時の大名が好んで使用しました。

官兵衛がこの家紋を使用するようになったのは有岡城の幽閉から救出された後です。

小寺家が織田信長を裏切ったので、小寺家からもらった家紋は使えなくなってしまいました。

そこで官兵衛は幽閉されていた時に自分を信じて息子の命も守ってくれた竹中官兵衛の家紋を使うことにしました。

官兵衛はこの家紋を大層大事に使ったと言われています。

 

その他の逸話について

黒田官兵衛についての資料はよく残っているため、逸話も沢山残されています。

いくつかの逸話はもう紹介しましたが、官兵衛が部下の扱いについて優れていたという逸話を2つ挙げたいと思います。

 

逸話① 官兵衛はケチ?

官兵衛は作戦や人員に対しては予算を惜しまない一方で、自分が使う手道具などは粗末な安物を使っていました。そして使ってすぐに破格の安さで部下に売りました。

部下は「そんな値段で売るなら、拝領(贈り物)としてお申し付けになれば良いのに」と言いました。官兵衛は「あなたなら人から物をもらうのと、自分で買うのとどちらが嬉しいですか」と聞き返しました。

部下は「物をもらうことは嬉しいですが、自分で買えた時ほどではありません。」と答え、官兵衛は続けてこう言いました。

「そうでしょう。物を貰えた人は嬉しくても貰えなかった人は恨みますし、何も功績ない人にあげても意味がないですし…そうしてしまえば本当の褒美のとき贈り物の価値が下がってしまいますからね。だから安く売り下げることにしました。あなた方もこの値段で買えると思えばラッキーでしょう。」

 

急に人が変わった?

死の直前、官兵衛は家臣や長政に対してとても当たりが強くなりました。

息子の長政が「近頃のお父さんはどうしたのですか、みんなびっくりしていますよ」と諌めると、官兵衛は「お前(長政)のためだよ」と返しました。

つまり、自分(官兵衛)に不満を集め、長政が優しくすることによって家臣たちもスムーズに世代交代が出来るという考えだったようです。

 

名言

そのほかにも官兵衛は沢山の名言を残しています。今読んでも非常に興味深い内容ですので、いくつか紹介したいと思います。

 

名言①

まず自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせていれば、叱ったり脅したりしなくても、自然に威は備わるものだ。 

【意味】まず自分の行いを正しくして、部下には公平に接すること。そうすればわざわざ叱ったり脅したりしなくても上司としてふさわしい姿になる。

 

名言②

天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり

【意味】「人」間は沢山いるけれど、「人」材は少ないなぁ。

 

名言③

神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下の罰おそるべし。そのゆえは神の罰は祈りてもまぬるべし。主君の罰は詫言して謝すべし。ただ臣下百姓にうとまれては必ず国を失う。ゆえに祈りても詫言してもその罰はまぬかれがたし。ゆえに神の罰、主君の罰より臣下万民の罰はもっとも恐れるべし 

【意味】神の罰や主人への罰は謝れば良いけど、臣下や領民に恨まれては許してもらえず、国を失うことになる。だから下の立場の者から恨みを買うことはないようにしなければ。

 

名言④

その職にふさわしくない者はすぐに処分したりするが、よく考えてみると、その役を十分に務めてくれるだろうと見たのはその主だ。目利き違いなのだから、主の罪は臣下よりもなお重い

【意味】上司の人選ミスは、仕事のミスをした部下の失敗よりも重い

このような発言をしている上で、官兵衛は「上司の弱点を指摘してはいけない」ということも言っています。

 

子孫について

黒田官兵衛の嫡男・黒田長政も名将として非常に有名です。

事細かに自分の戦果を記した官兵衛とは違い、長政は自分の武功を語ることを良しとしなかったそうです。

よって官兵衛ほど記録は残っていませんが、関ヶ原の戦いでは長政の戦略が徳川側東軍の勝利を招きました。

官兵衛は参謀として活躍したタイプですが、長政は最前線で戦うタイプの武将だったと言います。また長政は竹中半兵衛が使用していた兜を使っていたようです。

 

その後〜現代まで

その後はお家騒動などもあり、黒田官兵衛直系の子孫は5代で絶えました。

しかし家督は現在も受け継がれており、現在は16代目の黒田長高さんが生存されています。

港区の不動産を主に扱う如水興産株式会社という会社を経営されているようです。

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