本能寺の変で有名な織田信長ですが、この信長に謀反したことで滅ぼされてしまった大名がいます。それが摂津一国の大領だった荒木村重です。
一体なぜ彼は突如として、信長を裏切ったのでしょうか。その理由を探ると、大河ドラマにもなっている「黒田官兵衛」が関係していることが分かります。
今回は荒木村重が何故謀反を起こしたのか、その理由とともに、彼の妻である「だし」についてや、現代の子孫など、荒木村重の秘密に迫りたいと思います。
荒木村重の生い立ち
1536年、池田勝正の家臣で、荒木義村の子として、荒木村重は生まれました。
1569年頃まで、摂津の大名は三好三人衆と争っており、荒木村重も例外ではありませんでした。
しかし翌1570年、荒木村重は、主君であった池田勝正を追放し、弟の知正を擁立することで、池田家の実権を握ることに成功します。
そして今まで対抗していた三好三人衆と手を組み、織田家と戦うことを選択しました。
信長との出会い
しかし1573年になると、荒木村重は三好三人衆を見限り、織田信長と会うことを決めました。
当時様々な作戦を展開していた信長にとって、摂津方面を治めることはとても重要な問題で、そんな中での荒木村重との出会いはまさに絶好のタイミングといえます。
信長と出会った翌年、荒木村重は伊丹城の主となり、そんなを有岡城と改めました。また織田信長に従い、摂津国の貴族たちを次々と平定し、数多くの戦に参戦しました。
1575年の高屋城の戦いや、1576年の天王寺の戦いなど、たくさんの戦で活躍、勝利を収めた荒木村重は、伊丹・花隅・尼崎など合計37万石の領地を手に入れており、明智・羽柴・柴田などに次ぐ、当時の織田家の中でも有数の存在となっていました。
信長への裏切り
1578年、荒木村重は本願寺顕如と親しかったことなどから豊臣秀吉に推薦され、石山城へ本願寺との和睦交渉の使者として入りました。
しかしこの交渉は失敗に終わります。
それどころか本願寺に兵糧を求められた荒木村重は、家臣へ兵糧を本願寺へ届けるよう命令を下します。
そして1578年10月、荒木村重は信長に反旗を翻して、居城である有岡城に籠城しました。
これに驚いた信長は説得するため、家臣を有岡城に向かわせましたが、荒木村重はこの説得におじることはありませんでした。
荒木村重に幽閉された黒田官兵衛
このとき荒木村重の説得に向かった人物の中に、黒田官兵衛という男がいました。
当時摂津地方を治めていた荒木村重が反旗を翻したことは、信長側にとっても大きな衝撃でしたが、この黒田官兵衛にとってもとても大きな出来事でした。なぜなら自身の主君である小野政職までもがその謀反に便乗しようとしていたからです。
単独で説得に乗り込んだ黒田官兵衛でしたが、その交渉は失敗、あらに自身も約10か月間、牢屋に捕らえられれてしまうことになります。
黒田官兵衛が説得から戻ってこないことから、信長は黒田官兵衛も裏切ったのではないかとして、息子の長政を処刑するように秀吉に命じました。
長政を処刑することができずにいた秀吉を見た竹中半兵衛は、ひっそりと長政をかくまい続けました。
黒田官兵衛の救出
黒田官兵衛が捕らえられてから10か月後、家臣である栗山善助や母里太兵衛らによって、ついに黒田官兵衛は救出されます。
長い間牢に入れられていたことで、黒田官兵衛は足腰が不自由になっていました。
そして処刑を命じられていた長政も命を落とすことなく、黒田官兵衛と揃って姫路城に帰還しました。
その後、本能寺の変で織田信長が討ち取られると、天下を取るチャンスとして積極的に豊臣秀吉の手助けを行い、豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献します。
最終的に黒田官兵衛は、いち大名から九州の中津城・12万石を手にするまでに出世しました。
荒木村重の敗戦
有岡城に籠城して1年、とうとう荒木村重は降伏し、織田信長に敗れました。
最後まで残っていた荒木村重の家臣たちも、信長を裏切たとして処刑されますが、村重本人は処刑されることはなく、命を落とすことはありませんでした。
本能寺の変で信長が死ぬと、荒木村重は「村重」という名前を捨て、出家はしないものの剃髪し、僧のような見た目となりました。
1582年、荒木村重は堺にもどって、茶人「道薫」として復帰、あの千利休とも交流があったと言われています。
荒木村重の妻
荒木村重には「だし」という妻がいました。
このだしは「今楊貴妃」と呼ばれるほどの美人だったといわれています。
荒木村重が信長を裏切った戦い「有岡城の戦い」で村重とともに有岡城に籠りましたが、1年後に降伏、妻であるだしは信長に捕らわれることとなります。
信長は尼崎城などを明け渡せば、妻は助けると条件を出しましたが、荒木村重はこれを断ります。
その結果、村重の家臣とともに妻・だしも、処刑されてしまいました。
荒木村重の子孫
荒木村重の子孫は「浮世絵の祖」ともいわれている「岩佐又兵衛」という人物です。
猥雑・卑俗・狂乱・混沌を独特な画風で表現しました。
また又兵衛の名を改め、岩佐勝以と名乗ると、国宝である「洛中洛外図屏風」を制作したことでも知られています。