小早川隆景とは?逸話や家紋、名言や子孫について解説!

小早川隆景とは戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

毛利元就の三男として誕生した小早川隆景は、世継ぎがいなかった竹原小早川家の当主・小早川興景の後継者となり天文13年11月(1543年)、12歳で竹原小早川家の当主となりました。

後に沼田小早川家も継承すると、両家を統合します。

同母兄・吉川元春と共に毛利家を支えた小早川隆景の経歴や逸話、家紋や名言・子孫について解説していきます。

小早川隆景の生い立ち

小早川隆景は天文2年(1533年)安芸国の戦国大名・毛利元就とその正室・妙玖の三男として誕生しました。

兄に毛利隆元、吉川元春がいたとされています。

小早川隆景が7歳になった天文10年(1540年)3月、竹原小早川家の当主・小早川興景が銀山城の攻略の最中、病によって亡くなりました。

竹原小早川家の当主・小早川興景には子供がおらず、竹原小早川家の家臣たちは父・毛利元就に対し、世継ぎとして三男の小早川隆景を迎えたいと求めたとされています。

そのため小早川隆景は大内義隆の勧めもあり、元服すると偏諱を賜い「隆景」と名乗り、天文13年(1543年)11月、12歳で竹原小早川家の第14代当主となりました。

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竹原小早川家、沼田小早川家と当主となる

天文16年(1547年)小早川隆景は、大内義隆が行った備後神辺城攻めに従軍し、初陣を飾ります。(神辺合戦)

一方で小早川氏の本家である沼田小早川家の当主となった小早川繁平(小早川正平の長男)はこの時まだ2歳と非常に幼く、また病弱で盲目であったため政務を行うことができず、当主として小早川隆景を擁立する隆景派と小早川繁平を擁立する繁平派に家中は分裂することとなりました。

そのため天文19年(1550年)になると父・毛利元就と大内義隆は乃美隆興・景興父子が中心となった隆景擁立派を支持し、対立していた尼子氏と内通していたという疑いで小早川繁平を捕らえ、出家に追い込みます。

さらに小早川繁平の妹を小早川隆景の妻とさせ、沼田小早川家を乗っ取る形で家督を小早川隆景に継がせました。

こうして竹原小早川家、沼田小早川家の家督を継いだ小早川隆景はその後、両小早川家を統合します。

しかし、小早川隆景と妻となった小早川繁平の妹との間に子供は恵まれなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶える結果となりました。

水軍を率いて活躍

小早川隆景は天文21年(1552年)に沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し新高山城を本拠地としました。

その後、小早川家は毛利一門に取り入れられることとなり、毛利家の直轄である水軍として活躍を果たすこととなります。

弘治元年(1555年)に起きた厳島の戦いにおいて、小早川隆景が率いた小早川水軍は陶晴賢率いる大内水軍を破るなどの功績を残し、毛利軍を勝利に導きました。

この時、家臣・乃美宗勝を通じて瀬戸内海で活動を行っていた村上水軍を味方につけるなど調略でも功を挙げました。

弘治3年(1557年)には父・毛利元就とともに周防・長門を攻略し、大内氏を滅ぼします。(防長経略)

 

毛利氏を支える

防長経略が行われた年、父・毛利元就が隠居したため、兄・毛利隆元が家督を継ぎます。

小早川隆景は兄・吉川元春とともに毛利氏の中核として毛利氏を支えました。

その後、永禄6年(1563年)家督を継いでいた兄・毛利隆元が亡くなると、甥・毛利輝元が家督を継ぐこととなり、小早川隆景は水軍の情報網を活かし政務・外交面を、兄・吉川元春は軍事面を担当し甥・毛利輝元の補佐を務めました。

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児島の制圧

永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)にかけて行われた月山富田城の戦いでは宿敵であった尼子氏を滅ぼし、翌年には伊予国に出兵し大洲城を攻略、伊予宇都宮氏最後の当主である宇都宮豊綱を降伏させます。(毛利氏の伊予出兵)

元亀2年(1571年)には浦上宗景、村上武吉らと交戦し、4月に児島(現在の岡山県倉敷市児島本荘)にある村上軍の本太城を陥落させ、粟屋就方を送り込みましたが、5月の児島の戦いで浦上宗景とその増援である三好氏配下の篠原長房の攻撃を受け、粟屋就方は惨敗となり児島の制圧は失敗に終わりました。

そのような中、父・毛利毛利が危篤状態となると撤退を余儀なくされ、児島周辺から一旦、兵を撤退させることとなります。

父・毛利元就が亡くなると、ますます、小早川隆景と兄・吉川元春は甥・毛利輝元の補佐役としてその存在は大きくなりました。

信長包囲網の一角として

天正2年(1574年)織田信長の勢力が毛利氏まで迫ってくるようになります。

天正3年(1575年)には毛利氏方であった三村元親が織田方に通じていたため、小早川隆景は三村氏を討伐します。

豊後国の大友宗麟が織田信長と通じ毛利氏を攻めてくると、水軍を率いて大友軍と交戦しました。

天正4年(1576年)鞆町(現在の広島県福山市)に落ち延び、織田信長と対立していた室町幕府15代将軍・足利義昭から強く誘われた毛利氏は織田氏と断交を決意し、小早川隆は山陽、兄・吉川元春は山陰を担当し反織田信長勢力である信長包囲網の一角として織田氏と戦うこととなりました。

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信長包囲網の崩壊

天正4年(1576年)毛利氏と織田氏との間で行われたた第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍、村上水軍を主力とした毛利水軍が織田方の九鬼水軍を破るも、2年後に行われた第二次木津川口の戦いでは九鬼水軍に破れ制海権を失う結果となります。

同年、織田信長を討つため上洛を目指していたとされる反織田派であった上杉謙信が天正5年(1577年)3月13日に亡くなると、天正8年(1580年)には石山本願寺が織田信長が講和をし、大阪から撤退したため信長包囲網は崩壊となりました。

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反織田方の勢力の弱まり

織田方で中国方面軍司令官であった豊臣秀吉の攻撃を受け毛利氏は押される形となります

天正7年(1579年)には宇喜多直家が織田方に寝返り、天正8年(1580年)には約2年もの間、織田方に抗戦していた別所長治が自害、さらに天正9年(1581年)には反織田方であった鳥取城が籠城の末自害します。

 

本能寺の変

天正10年(1582年)清水宗治が籠る備中高松城が織田方に包囲されます。

そのため小早川隆景は甥・毛利輝元、兄・吉川元春とともに救援に向かいました。(備中高松城の戦い)

しかし、すでに豊臣秀吉の軍が迫っており、また織田信長の本軍が小早川隆景らに迫っていたため、小早川隆景は織田方に勝見込みは薄いと判断し安国寺恵瓊を通じて豊臣秀吉と和睦交渉を行います。

同年6月に本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉は織田信長を討った明智光秀討伐のために、本能寺の変で織田信長が亡くなったということを伝えず毛利氏と和睦を結び畿内へと引き返しました。(中国大返し)

その後、小早川隆景らが本能寺の変が起きたことを知ったのは豊臣秀吉が撤退した日の翌日であったとされています。

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豊臣秀吉に仕える

織田信長亡き後、織田家の後継者を巡り豊臣秀吉、柴田勝家が衝突した賤ヶ岳の戦いでは小早川隆景は中立を保ちましたが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗北すると、豊臣秀吉に仕えるようになります。

その後、豊臣秀吉の政策に積極的に協力した小早川隆景は、天正13年(1585年)の四国攻めに参加し伊予国の金子元宅を討つなどの功績を残します。

天正14年(1586年)から始まった九州征伐にも参加し、功績が認められ戦後に豊臣秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1,300石が与えられました。

その後も天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)に文禄の役にも参加し、文禄の役では碧蹄館の戦いにおいて立花宗茂と共に明軍本隊を撃退しました。

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養子にまつわる逸話

小早川隆景には養子にまつわる逸話が残されています。

文禄3年(1594年)8月下旬、小早川隆景は豊臣秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えます。

豊臣秀吉の家臣・黒田官兵衛は子供のいない小早川隆景を心配し、豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を小早川隆景の養子にするように小早川隆景に勧めました。

豊臣秀吉の甥を断るわけにもいかなかったため、小早川隆景は豊臣秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えましたが、秀吉の義理の甥に家督を譲るとなると、毛利氏は豊臣氏に乗っ取られてしまうと考えました。

毛利氏が豊臣氏に乗っ取られることを避けたい小早川隆景は子供のいない甥・毛利輝元に弟・穂井田元清の次男である毛利秀元を養子に迎えさえ、毛利秀元を毛利氏の跡継ぎであると紹介したうえで豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えたのでした。

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最期

文禄4年(1595年)小早川隆景は、徳川家康や前田利家ら共に、五大老に任じられます。

その後、養子に迎えた羽柴秀俊を小早川秀秋に改名させ、家督を譲り小早川隆景は慶長2年(1597年)6月12日、65歳で亡くなりました。

 

家紋

小早川隆景が使用していた家紋は「左三つ巴」とされています。

小早川隆景の他に蒲生氏郷、福島正則などが使用していました。

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子孫

小早川隆景の跡を継いだ羽柴秀俊(小早川秀秋)は小早川隆景亡き後に勃発した関ヶ原の戦いにおいて東軍に寝返り、徳川方を勝利に導きました。

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しかし、関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年(1602年)10月18日に21歳という若さで亡くなり、また子供はいなかったため、お家断絶となり以降、大名家としての小早川家は存在を消すこととなります。

大名家として小早川家は戦国時代以降、姿を消すこととなりましが、明治時代に毛利元徳の子・四郎によって小早川家は再興されました。

そのため今でも小早川家は続いているとされ、元プロ野球選手の小早川毅彦は小早川氏の子孫とされています。