西郷隆盛の最後とは?亡くなった場所と最後の言葉

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維新の三傑」と呼ばれ、倒幕という歴史的な偉業を成し遂げている西郷隆盛。

そんな英雄の最後が気になるという人は多いのではないでしょうか。

この記事では、西郷隆盛が最後を迎えるまでの経緯と、実際に亡くなった場所や、彼の最後の言葉などについて書いていきたいと思います。

敗色が濃厚となっていく西南戦争の終盤

明治維新によって誕生した新政府が、これまでの特権階級である士族と対立することによって起きた西南戦争。それは西郷隆盛の最後の舞台であり、当初から厳しい戦いを強いられました。

難攻不落の熊本城に旧式の武装で攻め込むも、陥落させることができません。その後も田原坂や吉次峠などで奮戦しますが、圧倒的な兵力や物資の前に敗走を続けます。

そして1877年8月15日、延岡北方の和田越(わだごえ)における決戦で大敗を喫し、西郷が率いる薩軍の敗北が決定的になりました。

西郷は正式に軍を解散して、生き残った将兵たちとともに、ある場所へ向かいます。彼らは、そこで最後の決戦を行う覚悟を決めていたのです。

 

最後の地は鹿児島県の城山

西郷ら薩軍将兵たちが最後に向かった場所は、故郷の鹿児島でした。正確に言うと、鹿児島県鹿児島市城山町です。

当時、鹿児島はすでに官軍の占領下にありましたが、駐屯していた軍はわずかだったため、ほとんど無傷で城山を占領することができました。

しかし、手持ちの武器は小銃150丁程度と非常に少なく、大砲の砲弾もわずかばかりしか残っていませんでした。また、戦闘要員も300人ほどだったため、とても官軍とまともに戦える状態ではありませんでした。

西郷は城山の頂上付近に西郷軍の本営を置き、そこから東に下った岩崎谷に洞窟を掘り、そこで幹部らとともに最後の5日間を過ごします。今では、その場所は西郷洞窟と呼ばれています。

 

西郷隆盛を生かすために、政府と交渉しようとしていた?

城山で最後の決戦に備えている間、薩摩軍の中で西郷隆盛の助命を求めて、政府と交渉しようとする動きがあったようです。

最初から西郷自身にその気はなかったと思われますが、幹部の二人が軍使として官軍側に面談を求めます。しかし、二人は官軍に捉えられ、西郷を助命するという希望は絶たれてしまいました。

そして西郷は「此城を枕として決戦可致候」という檄文を全軍に送り、命を捨てる覚悟を固めるよう伝えます。

政府軍側の山県有朋からは、総攻撃の前に自決を求める書状が届きましたが、西郷は「回答の要なし」として、それを無視しました。最後まで戦うという決意が伝わりますね。

書状が届いたこの夜、西郷は最後の宴を開きました。花火を打ち上げたり、舞を踊ったり、まるで祝宴のような宴が催されたと言います。

 

西郷隆盛の最後の言葉

午前3時50分ごろ、官軍の総攻撃が始まり、砲撃の音が鳴り響きました。

わずか1時間ほどで、西郷軍の本営があった城山の頂上は制圧され、西郷達がいる洞窟に官軍が迫ります。西郷達は洞窟から逃れて岩崎谷口の坂道を下っていきますが、そこにはすでに官軍の兵士が待ち受けていました。

そして官軍が放った銃弾が、西郷の肩と太ももに当たり、その場で膝を落としてしまいます。

西郷もここまでと覚悟を決めたのでしょう。傍らにいた側近の別府晋介に向かって、最後の言葉を言います。

「晋どん、もうここいらでよか…」

別府は西郷の言葉に「はい」と頷き、「ごめんやったもんせー」と叫びながら、西郷は別府の介錯を受けて、その人生の幕をおろしました。

1877年9月24日、享年49歳で偉大な人生に幕を閉じたのでした。

 

亡くなった後の西郷隆盛への処遇

最終的に、西郷隆盛は政府に対して楯突く形となって終わりを迎えてしまいましたが、敵である新政府軍の指揮官だった大久保利通は、西郷隆盛の死を知ると号泣したと伝えられています。

また、明治天皇は西郷隆盛について「惜しい人物を亡くした」と言い、西南戦争終結直後の宮中の歌会で「西郷隆盛」という題を出しています。この度の過ちで、西郷隆盛の偉大な功績を見過ごすことがあってはならないという意向を伝えられたとのことでした。

そして西郷隆盛の死後十数年を経て、彼の名誉は回復することになります。

西郷隆盛が成し遂げた維新の功として、息子の西郷寅太郎が侯爵の地位を授かったことが、その証です。

 

さいごに

今回の記事では、西郷隆盛の最後について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。

普通の敵対関係とは異なり、敵からも惜しまれながら死んでいった西郷隆盛の人徳の大きさが垣間見えましたね。

西郷の死後、彼の名誉がしっかりと回復されたことを見ると、歴史的観点において彼に対する正しい評価が下されて良かったと思います。