別府晋介とは?最期や西郷隆盛との関係、子孫や家系図について解説!

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西郷隆盛の最期に、大きな役目を果たした別府晋助。

中村半次郎こと桐野利秋とは従妹の関係ですが、その顔、雰囲気はまるで兄弟かのような、桐野利秋に似た風貌をもっております。

晋助は、どのような最期を遂げたのでしょうか。

彼の残した実績ほか、子孫、家系図について、ひも解いてみたいと思います。

別府晋介の生涯とは

晋助誕生

1847年、別府晋助は別府十郎の第2子として誕生します。母方の従妹である桐野利秋は1838年生まれなので、晋助よりも9歳上になります。

晋助が幕末の舞台に登場するのは、1868年に起こった戊辰戦争からになります。

川村純義率いる城下四番小隊の分隊長に任命され、白河城、棚倉・二本松の戦いに参戦しました。

 

新政府発足

明治2年、鹿児島常備隊が創設され、晋介は大隊中の小隊長に任命されます。

明治4年、明治維新最大の功績と言われる廃藩置県に備え、西郷隆盛が鹿児島から兵を率いて上京した際、西郷隆盛に従い、御親兵への編入を経て、近衛陸軍大尉に任命されました。

 

満州・朝鮮へ

明治5年、征韓論を進める西郷隆盛に命じられ、満州・朝鮮に向かいます。2か月かけて、朝鮮内地を偵察した後、帰国。

桐野利秋に「鶏林八道(韓国)を蹂躙するは、我二三箇中隊にして足れり」と叫んだとの記述が残っています。

明治6年、征韓論で大久保利通らと意見が食い違った西郷隆盛は、鹿児島へと引き上げ、もちろん、別府晋助・桐野利秋らも辞職願を提出し、すぐさま鹿児島へと戻って、私学校創設に尽力します。

 

西南戦争勃発

明治10年2月20日。晋助は独立大隊を組織して連合指揮長となって先発北上した際、川尻にて熊本鎮台偵察部隊と遭遇し、戦いを始めます。これが、西南戦争の始まりです。

熊本城を包囲した晋助は、篠原国幹、村田新八とともに、背面軍を指揮します。

山鹿、田原が陥落し、晋助は鹿児島へ戻り、新兵を募り、新兵1500名あまりを率いて、再度北上しますが、萩原堤の戦いで足に重傷を負い、ひとまず人吉に退きます。

鹿児島に戻り、温泉で傷を癒した後、振武隊、行進隊等を指揮しますが、新政府軍の勢いに押され、後退します。

8月17日。西郷隆盛に従い鹿児島に再び戻りますが、傷は癒えておらず、山駕籠に乗っての移動となっています。

 

別府晋介の最期 

別府晋助が亡くなったのは、1877年9月24日。西南戦争終焉の日です。

西郷隆盛、桐野利秋、別府晋助らの最期の場所は、鹿児島県鹿児島市城山町

西郷隆盛が亡くなる前に暮らしていたとされる西郷洞窟から歩いて数分の距離にあります。

村田新八と木留に進出していた晋助は、激戦となった田原が陥落したことを知り、一度鹿児島に戻り、1500名という新兵を率いて北上します。しかし、萩原堤の戦いの途中、足に深い傷を負い、再び鹿児島に戻り、温泉療養にて傷を癒しました。

その後、振武隊、行進隊を指揮し、薩摩・大隅・日向で戦いますが、政府軍の攻撃に歯が立たず、後退します。

 

追い詰められた西郷ら一行

いよいよ情勢が危なくなった9月24日、西郷洞窟前に集まった40数名は岩崎口へ進撃しますが、西郷隆盛は腰部と太腿に銃弾を受け、負傷します。

午前7時、自決を覚悟した西郷隆盛の声かけに応じた晋助は、西郷隆盛の介錯をし(切腹の際に、首を落とす手伝いをすること)、政府軍の攻撃の中へと消えていきます。享年31歳でした。

ちなみに、晋助の墓は、彼が人生をかけて慕った西郷隆盛の墓の右隣にあります。左側には桐野利秋。西郷隆盛はもっとも信頼したであろう2人に守られ、鹿児島の地に眠っています。

西郷隆盛との関係 

別府晋助と西郷隆盛の関係は、テレビ東京「開運! 何でも鑑定団」での出来事が分かりやすいと思うので、紹介したいと思います。

金メダリストの石井慧さんの家に伝わっている手紙が紹介されたのですが、この手紙は西郷隆盛の自筆と認定さました。

その手紙は西郷隆盛が別府晋助に宛てたものになりますが、西郷隆盛が霧島温泉で狩猟しようと誘っている内容が書かれていたとのことです。

二人で温泉に足を運び、狩猟を行う。二人の間に信頼関係がないとできないことです。

このことから見ても、西郷隆盛が別府晋助に全幅の信頼をして、部下として、また、弟のような存在として可愛がっていたことが分かりますし、西郷隆盛が最期を迎える時、彼の介錯を頼んだことも想像に難くありません。

ちなみに、別府晋助は西郷隆盛の介錯を行った後、自分の側から離れない部下たちに向かい、早く逃げろと叫んだことが伝えられています。

西郷隆盛に似て、部下思いの優しい人柄だったのではないでしょうか。

 

子孫や家系図 

別府晋助には「てい」という妻がおり、娘が3人いたそうです。

また、現在でも末娘・あきのひ孫にあたる子孫の方が存命であり、その系譜は現代へと続いています。