桐野利秋とは?子孫や西郷どんでの役、香水や墓について解説!

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西郷隆盛の盟友と言えば大久保利通ですが、西郷隆盛の右腕として活躍したのは中村半次郎こと桐野利秋になります。彼の人生とは、どのような生涯だったのでしょうか。また、西郷どんでは誰が演じるのか、彼の子孫、墓の場所についても、解説したいと思います。

桐野利秋の生涯 

人斬り半次郎と呼ばれた中村半次郎が生まれたのは、1838年12月。中村与右衛門の3番目の子どもとして誕生します。

10歳のころ、父・与右衛門が徳之島に流罪に処せられ、家禄没収となった後は、長男・与左衛門邦秋を助け、サツマイモ栽培、紙漉き等の手伝いをして家計を支えます。

長男・与左衛門邦秋が病死した後、家族を養っていくため、島津久光の上洛時の護衛となり、その任務に就きます。その当時の家老小松帯刀、西郷隆盛等の藩の重臣らに可愛がられました。

 

西郷隆盛の片腕として

西郷隆盛から初めて指示を受けたのは、かの有名な池田屋事件の後になります。京都三条木屋町にあった池田屋旅館に潜伏していた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派の志士たちを、新選組が襲撃した池田屋事件後の長州藩士の動きを調べるよう、命じられています。

当時、尊皇攘夷派だった西郷隆盛に出会い、彼に傾倒した半次郎は、この頃から、西郷隆盛の右腕となり、彼の指示される通りその任務を果たしていくこととなります。

 

戊辰戦争から明治維新

1868年、戊辰戦争勃発。城下一番小隊隊長に抜擢された半次郎は、駿府、小田原を占領した後、西郷隆盛の命で輪王寺宮公現法親王に面会し、撤退させます。

その後、西郷隆盛の山岡鉄舟、勝海舟との会談の席に同席した後、西郷隆盛の命を受け、上野に陣取っていた彰義隊との戦いに参戦します。ですが、湯屋からの帰りに、鈴木隼人ら3人の刺客に襲撃され、一人を撃退しますが、左手中指と薬指を失うケガを負ってしまいます。

その後、大総督府直属の軍監に任命され、藤原口に派遣された彼は、会津若松城攻略のための軍議に出席、栃原への進撃を開始します。関山の戦い、若松南部の戦いを終えた後、若松城へ進出。会津藩が降伏した際には官軍を代表し、城の受け取り役を仰せつかります。

この時の半次郎の対応に感動した松平容保が、後に人を介して宝刀を贈ったことは有名です。

 

明治維新から西南戦争

1868年、明治維新。半次郎は、名を桐野利秋と改めます。

鹿児島常備隊の第一大隊隊長に任命された後、兵部省陸軍少将、鎮西鎮台の司令長官、陸軍裁判所所長等を歴任しますが、1873年、明治六年の政変で西郷隆盛が薩摩に戻る際、辞表を提出し、薩摩に戻ります。

西郷隆盛発案の青少年たちのための私学校が創設された際は、監督として、また、吉野開墾社の指導を受け持ち、率先して事業に取り組みます。

1877年2月、西南戦争勃発。四番大隊指揮長を任命された利秋は、熊本鎮台偵察隊と衝突した別府晋介の部隊を助け正面軍を指揮しますが、堅城で知られる熊本城は安易には落とせませんでした。

3月1日、戦いは、激戦を繰り広げた田原坂へと場所を変えます。小競り合いを繰り返しますが、20日、最大の兵力を投入した政府軍は、豪雨の中でも、砲撃の手を休ませません。

断続的に続く雨のせいで応戦が遅れがちになる薩摩軍は、徐々に後退せざるを得なくなります。

ちなみに、この田原坂の戦いでは、薩摩軍の篠原国幹が戦死するほか、官軍側でも495名を超える人が戦死しています。

 

最後の戦い

9月24日、利秋や村田新八ら40名ほどの戦士たちは、西郷隆盛が立てこもっていた洞窟の前に並び、岩崎口に進撃を開始します。その際、西郷隆盛ら数名が被弾し、ケガを負います。

頃合いを感じた西郷隆盛は、利秋の従妹である別府晋介に介錯を頼み、自刃します。それを見守っていた利秋は、再び、岩崎口に突撃しますが、額を撃ち抜かれて戦死します。享年40歳でした。

西郷どんでの桐野年秋 

西郷どんでは、幼少期の中村半次郎が登場しています。演じているのは、中村瑠輝人(なかむらるきとさん)さん。

大人になった桐野利秋を誰が演じるのか未だ不明ですが、ネット上ではこの役はぜひとも、平岳大さんにやって欲しいとのリクエストがあるそうです。もう少し若ければ、榎木孝明さんでしょうか。

最初に登場するシーンは、やはり、西郷隆盛から上田藩士の赤松小三郎の暗殺を命じられる場面でしょうか。

中村瑠輝人さんが目力のある半次郎を演じられておりますので、その威圧感を残す顔立ちをもった俳優が演じてほしいということで、インパクトある登場シーンを待っている視聴者も少なくありません。

 

桐野年秋と香水 

桐野利秋と香水。似つかわしくないような気がしないでもありませんが、実は、桐野利秋という人は大変な洒落者でした。

陸軍少将時代、金無垢の懐中時計、フランス製の軍服を身に着け、フランス製の香水を身にまとっておりました。

最後の合戦となった西南戦争でも、彼は愛用の香水をつけて臨んでいたらしく、戦死した遺体からはほのかに香水の香りが漂っていたそう。この話は、あまりにも有名な話ですね。

ちなみに、彼のお墓は、南洲墓地にあります。鹿児島県の観光スポットとなっておりますが、建設されたのは1977年。西南戦争で戦死した2023名の兵士たちが埋葬されています。

勝海舟が亡き盟友たちのために「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」と詠んだ歌碑が建てられています。

 

桐野利秋の子孫 

桐野利秋の子孫と言っても、彼は結婚せず生涯独身として亡くなっておりますので、直系の子孫はおりません。

ですが、利秋の弟・山ノ内半左衛門種国、伊東才蔵に嫁いだ妹がおります。

有名な子孫は、芸人ソラシドというコンビで活躍する本坊元児さん。中村半次郎の妹がお嫁さんに来た家系とおっしゃっているそうですから、彼は、伊東才蔵の子孫になるのではないでしょうか。

それから、もう一人、孫・桐野富美子さんがいらっしゃいます。