小松帯刀(小松清廉)とは?死因や子孫、西郷隆盛との関係について解説!

坂本龍馬が長崎に亀山社中を設立するときの後ろ楯となり、薩長同盟、薩土同盟、討幕の密勅などでは常に薩摩藩の表の顔となり、幕末の薩摩藩の支柱として活躍した薩摩藩家老・小松清廉(こまつきよかど)こと小松帯刀(こまつたてわき)。小松帯刀の正式な姓名は平朝臣小松帯刀清廉(たいらのあそんこまつたてわききよかど)と言います。

日本史の教科書や歴史小説の中では脇役の一人でしかいない人物ですが、実は西郷隆盛や大久保利通の上司であり、薩摩藩を代表する政治家です。

悪性腫瘍のために34歳という若さでこの世を去りましたが、幕末維新の時代の流れのなかで大きな役割を果たした人物でした。

小松帯刀の熱くて短い人生を産まれたときから追いかけてみたいと思います。

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小松帯刀の生い立ち

1835年12月3日、現在の鹿児島県鹿児島市山下町にあった喜入(きいれ)領主・肝付兼善(きもつきかねよし)の屋敷で四男として生まれました。

13歳頃から向学心に目覚め、横山安容の門下で儒学を、八田知紀から歌道を学び、21歳の時、吉利領主・小松清猷(こまつきよもと)の養子となって家督を継ぎ、清猷の妹・近と結婚しました。

1858年に島津斉彬が没し、忠義が藩主になると小松清廉は当番頭兼奏者番に出世し、貨幣の鋳造や集成館の管理など徐々に藩政の中枢へと近づきます。

25歳の時に出張した長崎で軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学をわずか半年で修得し、鹿児島に戻って電気伝導による水雷の爆破実演を行います。

藩主・島津忠義の父親・島津久光が藩の実権を握ると、小松清廉は側役に抜擢されて藩政改革を任されるようになります。

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小松帯刀が成したこと

1862年島津久光の上洛に随行し、帰国後に小松清廉は薩摩藩家老職に就任して藩政の中心人物となります。

集成館を再興し蒸気船機械鉄工所を設置、諸藩や朝廷、幕府との交渉役、藩内の各セクションを統括して藩の近代化に尽力し、西洋の学問を教える「開成所」を設立と八面六臂の活躍を見せます。

京都で昵懇の間柄となった坂本龍馬の亀山社中設立を援助、長州藩士・井上馨、伊藤博文と長崎の商人トーマス・グラバーを引き合わせ、五代友厚のイギリス留学を後押し、英国公使パークスと島津久光を対面させるなど、イギリスと薩摩藩の友好にも大きな影響力を発揮しました。

薩土同盟や四候会議では諸藩との折衝役となり、討幕の密勅には藩の代表として署名、二条城では徳川慶喜に大政奉還の受諾と将軍辞任を迫り、摂政・二条斉敬には大政奉還上奏の受理を迫り、大政奉還による政権移譲の立役者の一人となりました。

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小松帯刀の死因

大政奉還成立後、鹿児島に戻り藩兵を率いて上洛しようとしますが、体調を崩してこれを断念します。

この後「足痛」をたびたび発症して温泉での治療を行い、オランダ人軍医・アントニウス・F・ボードウィンの診察を受けた記録も残っています。

「胸痛」「肺病」の発症の記録も残っていますが、ボードウィンは左下腹部に腫瘍があり切除不能であることも記しています。

これが直接的な原因かどうかは不明ですが、この翌年小松帯刀は大阪の地で人生の幕を閉じます。

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日本初の新婚旅行

司馬遼太郎の「龍馬が行く」の中で、龍馬が寺田屋事件で負った傷の治療と療養のために鹿児島を訪れたときに妻のおりょう(お龍)とともに霧島温泉に逗留し、霧島神宮参拝や高千穂登山を行ったことを日本最初の新婚旅行として書き綴っています。

しかし実際は龍馬が鹿児島を訪れた1866年より10年前の1856年に小松帯刀は新婚時代の妻・近とともに霧島温泉に逗留した記録が残っており、こちらが事実上の日本初の新婚旅行ではないかとの説が現在では有力になっています。

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西郷隆盛との関係

西郷隆盛が最初に小松帯刀に会うとわかったとき、西郷は小松の度量を試そうと遥かに上役になる小松を部屋で横になったまま出迎えようとしました。

それを知らない小松は部屋に横たわる西郷の様子を見て「西郷が横になって寝ておる。枕を持ってきてあげなさい」と従者に伝えたと言います。

これを聞いた西郷は小松の度量の大きさに心服し、この先小松に対しては絶対の信頼を置いたと言います。

話が出来すぎているため真偽のほどは不明ですが、残されている資料に書かれている西郷隆盛の小松帯刀に対する態度をみるとあながち嘘とは言い切れないものを感じます。

また、薩摩藩の実質的なトップであった島津久光と非常に折り合いが悪かった西郷隆盛との間を何度も取り持ったのが小松帯刀で、その意味でも西郷隆盛は小松帯刀には一生涯、頭が上がらなかったのだと思います。

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小松帯刀の子孫

1922年、小松帯刀の孫に当たる小松重春(こまつしげはる)が鉄道大臣・大木遠吉(おおきえんきち)から省線(現在のJR)品川駅の立売営業権を許可され品川駅構内で駅弁販売、立ち食いそば店、居酒屋などを展開する株式会社常盤軒(ときわけん)を設立しています。

 

さいごに

坂本龍馬が考えていた明治新政府の構想では西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允よりも上位の席次が用意されており、イギリスの外交官、後に駐日イギリス公使となったアーネスト・サトウをして「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」といわしめた逸材は、1870年8月16日、大阪で死去しました。

死期を悟っていた小松帯刀は死の半年前にはすでに遺言書を作成していたと言われています。

最後まで折り目正しく、人々を困らすことなく綺麗にこの世を去った、いかにも小松帯刀らしい晩節だったようです。

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