アーネスト・サトウとは?子孫などを解説!俵屋・写真家にも同姓同名の人物がいる?

※当サイトは広告を含む場合がございます

幕末期、長く日本に滞在したイギリスの外交官アーネスト・サトウは、もっとも日本を愛した外国人と言っても過言ではありません。20年を超える滞在期間の中で、日本の言語をはじめ、歴史や慣習等を研究したことはよく知られています。

外国人でありながら、日本を大きく変えることになる幕末に起こった2度の実戦に参加して砲弾をくぐり、攘夷を唱える兵士たちからはつけ狙われ、白刃から身を守るということも経験したアーネスト・サトウ。彼の生涯とは、どんな一生だったのでしょうか。

彼が残したアーネスト・サトウ日記、子孫、また、同じアーネスト・サトウなる名前をもつ写真家、俵屋等、彼に関わるものについて、解明したいと思います。

アーネスト・サトウの生涯

サー・アーネスト・メイソン・サトウ。英語で表記すれば、Sir Ernest Mason Satowです。

サトウと聞けば、日本名だと思いがちですが、実は、父親のスラヴ系の希少姓になります。親日家であった彼は、サトウを佐藤、または薩道とし、名を愛之助と名乗りました。

 

生い立ち

1843年6月30日、イギリスのロンドンにて誕生します。父親のハンス・ダビッド・クリストファーとマーガレット・マソンの間には11人もの子どもがありますが、アーネストは3番目の子どもとして誕生しています。

少年のころから成績優秀なアーネストは、両親の大きな期待を胸に愛情いっぱいに育ちます。

が、ある日、兄弟の一人が図書館で借りてきた絵草紙風の本に描かれていた「その国では、空がいつも青く、太陽が絶え間なくかがやいている」の一節が目に止まり、日本という国に興味を抱き、憧れるようになります。

 

夢見る日本へ

彼が18歳の時、チャンスはやってきます。イギリス外務省が通訳生の募集を行ったのです。

アーネスト・サトウは見事合格し、夢であった日本での駐在を命じられます。夢だった日本、横浜へたどり着いたのは、1862年9月8日。生麦事件の起こるわずか6日前です。

生麦事件、薩英戦争、長州征伐、戊辰戦争と尊王攘夷、倒幕運動が絡み合いながら、明治維新への扉が開きます。

 

通訳官として初めての任務

ちなみに、アーネストが初めて行った通訳官としての任務は、小笠原長行がイギリスの外交官であるニールへ送った手紙の翻訳になります。

生麦事件の賠償問題にはアーネストもニール大佐とともに交渉にあたっておりますが、その頃のアーネストはまだ日本に来日したばかりで、日本語を十分に理解できておらず、彼の活躍の場はありませんでした。

 

交渉決裂、薩英戦争へ

生麦事件の賠償問題を再び薩摩藩と交渉するため、アーネストはニール大佐、医師のウィルアムトとともに鹿児島に向かいますが、薩摩藩との交渉は決裂し、薩英戦争が勃発します。

薩摩藩は砲台、鹿児島城の一部を焼失させる等の被害を受けますが、イギリス側は艦長や副長の戦死、戦艦の大破等、薩摩藩よりも大きな被害を被むります。その薩英戦争の和解案として、薩摩藩は軍艦購入の斡旋を条件に、イギリス側に扶助料を支払うことを提案しています。

 

名を広めるアーネスト

薩英戦争の処理後、イギリスに戻るべきか悩んだアーネストですが、日本に留まることを決意します。

その後のアーネストは、下関戦争ではキューパー提督付きの通訳として、また、前田村砲台の破壊に同行した際は、長州藩との講和交渉の席において、高杉晋作らに対し、通訳官として任務を果たしています。

この頃には、日本語が堪能なイギリス人として、アーネストは広く知られた存在となっています。

日本語を勉強するためだったのか、伊藤博文、井上馨らと頻繁に文通を行っており、その際の末尾には、薩道愛之助、もしくは薩道懇之助としたためていたとのことです。

 

通訳官の最高位へ昇進

1868年、アーネストは、通訳官としての最高位である日本語書記官に昇進します。

それからのアーネストは、徳川慶喜に始まり、西郷隆盛、後藤象二郎、山内容堂、桂小五郎、後藤象二郎、伊藤博文、王政復古の大号令の後は、東久世通禧、三条実美、岩倉具視、勝海舟、天皇と、倒幕、明治維新に大きな功績を残す日本人と会談を行っています。まさに、縦横無尽の働きだったのではないでしょうか。

通訳官から書記官へと出世したアーネストは、オールコック公使、パークス公使の秘書としての活動を終えた後、1869年2月24日、イギリスへ戻ります。

再び日本の地を踏んだのは、翌年1870年11月です。

 

武田兼と事実婚

1875年二度目の帰国となるまでに通訳としての職務を果たす傍ら、武田兼と事実婚となる結婚をしています。

後に触れますが、彼女との間には、3人の子どもが誕生しています。

この時期のアーネストは関東一円ほか、甲州、日光、伊勢神宮、厳島神社、箱根等へ、代理公使アダムズ、大隈重信たちと旅行を楽しんでいます。

ちなみに、東京都千代田区一番町にある駐日英国大使館の有名な桜並木は、アーネストが植樹を行い、東京都に寄付したものになります。

アーネスト・サトウの子孫について

三度目の来日は1877年1月。鹿児島への視察を命じられますが、西郷隆盛とは多くを語らず別れているとのこと。説得できる状態ではなかったのでしょう。

西郷隆盛が亡くなり、明治時代がやや落ち着き始めた1873年には長女を、1880年には長男・栄太郎が、1883年には次男・武田久吉が誕生しています。

アーネストは、武田兼とは入籍していませんので、法的には独身になります。

 

長男・栄太郎の生涯

長男・栄太郎は、ケンブリッジ大学入学を目指しイギリスへ向かいますが、結核にかかっていることが判明し、ケンブリッジ大学進学を諦めます。

その後、アメリカ合衆国コロラド州ラサルへ療養を兼ねて移住し、現地の女性と結婚します。

サトウダイコン農家Alfred T. Satowとして暮らしますが、1926年、45歳という短い人生を閉じています。

 

次男・武田久吉の生涯

次男の武田久吉は、東京外国語学校で学んだ後、1910年イギリスに渡り、植物学の研究を始め、植物学の博士号を取得します。

北海道大学、京都大学で教鞭をとった後、日本山岳会を創立します。

日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任し、1972年6月7日、89歳で死去しています。

 

もう一人のアーネスト・サトウがいた?

実は、アーネスト・サトウという名前をもつ人物がもう一人います。

京都にある俵屋という老舗旅館の11代目おかみ・佐藤年さんの夫がアーネスト・サトウという名前で同姓同名です。

こちらの本名は、佐藤善夫さん。日本人のお父さまとアメリカ人のお母さまから生まれたハーフになります。

アメリカで、翻訳家、フォトジャーナリストとして活躍した後、日本に戻ります。

1968年、京都市立美術大学に映像教室を設立し、1973年、京都市立芸術大学美術学部教授に就任。その後、1980年、京都市立芸術大学大学院教授に就任し、1987年に退任した後、1990年、63歳で亡くなられています。

俵屋さんは、老舗旅館としての有名ですが、その旅館で利用できるSavon de Tawarayaが若い女性を中心に大人気です。

箱のロゴデザインは、アーネスト・サトウさん。宿泊された際、ぜひ、その石けんの泡立ち、200種類以上の天然香料をブレンドした香りに酔いしれてみてください。

宿泊する予定がない方は、ショップギャラリー遊形にて、人気の石けんほか、タオル、寝具、雑貨等を購入することができます。