井上馨とは?鹿鳴館や汚職、条約改正・欧化政策、子孫などについて解説!

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過激な尊王攘夷活動を行っていた井上馨はイギリスに留学し、日本と国力の差を感じ開国論に転じました。

その後、伊藤内閣において外相として条約改正に尽力し欧化政策として鹿鳴館を創立した人物です。

そんな井上馨の生涯や汚職事件、鹿鳴館の創立や条約改正・欧化政策、子孫について解説していきます。

井上馨の生い立ち

井上馨は天保6年(1836)11月28日、現在の山口市湯田温泉に位置する周防国吉敷郡湯田村の長州藩士で父・井上光亨と母・房子の次男として誕生しました。

嘉永4年(1851)15歳になった井上馨は、兄・井上光遠と共に藩校明倫館に入学します。

吉田松陰が開いていた松下村塾には入塾していません。

安政2年(1855年)長州藩士で志道氏の養嗣子となります。

同年10月、藩主・毛利敬親の参勤交代に従事した井上馨は江戸で伊藤博文に会い、岩屋玄蔵や江川英龍、斎藤弥九郎らから蘭学を学びました。

安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外において大老・井伊直弼が暗殺されるといった事件がおきます。

この暗殺事件があったため、長州藩も警護にあたらなければならなくなります。

そのため、井上馨は藩主・毛利敬親はら小姓と、聞多(ぶんた)という通称を与えられました。

同年、藩主・毛利敬親の一行とともに周防国に帰国すると、西洋軍事訓練に加わり、文久2年(1862年)に、藩主・敬親の養嗣子・毛利定広の小姓となり再び江戸へ向かいます。

 

尊皇攘夷活動を行う

江戸に向かった井上馨は文久2年(1862年)8月、藩の命令でジャーディン・マセソン商会から西洋船壬戌丸を購入しました。

しかし、この頃から井上馨は尊王攘夷運動に加わり同年11月に攘夷計画が漏れてしまったため毛利定広から数日間の謹慎処分を受けることとなります。

しかし、謹慎中にも関わらず尊王攘夷結社である御楯組の1人として高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文と共に、イギリス公使館焼討ちを行います。

 

開国派に転じる

このような過激な尊王攘夷活動を行っていた井上馨は、翌年の文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じ、長州藩にイギリスへの留学を悲願し、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助とともにイギリスへと向かいます。

井上馨を含めたこの5人は長州五傑と呼ばれました。

イギリスへ渡った5人でしたが、イギリスの国力を目の当たりにし、尊皇攘夷派でありましたが開国論に転じます。

 

下関戦争

その翌年、イギリス、フランス、オランダ、アメリカといった列強四国と長州藩の間で下関戦争が始まりました。

留学中であった井上馨と伊藤博文は急遽、日本に帰国し、イギリスの駐日総領事・オールコックに対し、長州藩主・毛利敬親の説得を行うことを約束します。

しかし、藩主・毛利敬親に止戦を要求するも長州藩は依然、強硬論が中心であったため拒まれ、その結果、下関戦争において長州藩は惨敗となりました。

第一次長州征伐

元治元年(1864年)、幕府が長州藩に対し討伐命令を発します。

長州征伐は2回にわたって行われ、元治元年(1864年)に行われた長州征伐は第一次長州征伐といいます。

文久3年(1863)8月18日に京都から過激攘夷派を追放するといった八月十八日の政変が起き、京都から過激攘夷派は追放されたと思われていましたが、依然、過激攘夷派は身を潜めており、京都に残った過激攘夷派たちが池田屋事件、禁門の変を起こします。

これに対し、江戸幕府は長州討伐の勅命を7月23日に発しました。

この戦いにおいて井上馨は戦争放棄による積極外交と、攻撃への備えを掲げる武備恭順を主張したため、同じ長州藩の中でも保守派であった俗論党に襲われ瀕死の重症を負いました。

瀕死の重傷を負った井上馨は兄・井上光遠に介錯を頼みましたが、母・房子が血だらけの井上馨を抱きかかえたため、兄・井上光遠は思いとどまったとされています。

このエピソードは「母の力」と題して、後に第五期国定国語教科書に紹介されることとなりました。

 

第二次長州征伐

回復した井上馨でしたが、俗論党から謹慎処分を受けていました。

しかし、高杉晋作らとともに同年12月、長府功山寺で決起し長州藩の藩論を開国攘夷に統一させます。

慶応元年(1865年)4月、井上馨は高杉普作と伊藤博文と結託し、長州藩の支藩長府藩の領土であった下関を異国に向けて開港させようとします。

この際、下関を領地交換で長州藩領にしようと企んでいたことが攘夷浪士に非難されることなりました。

身の危険を感じた井上馨は別府へと逃げ、しばらく療養生活を送りました。

翌月の5月になると長州藩に戻り、7月から8月にかけて外国商人・トーマス・ブレーク・グラバーから銃器を購入します。

翌年の慶応2年(1866年)1月、薩摩藩と長州藩が坂本龍馬の仲介のもと薩長同盟を結び、6月から始まった第二次長州征伐において勝利を飾りました。

 

明治政府の樹立

明治天皇の名により天皇親政を宣言した王政復古後、明治政府が樹立すると参与兼外国事務掛に任じられ九州鎮撫総督澤宣嘉の参謀となり長崎へ向かいました。

明治元年(1868年)6月には長崎府判事に就任し、また長崎製鉄所御用掛にもなりました。

翌年の6月には大阪へ赴任となり、7月に造幣局知事へ異動となります。

その後、明治2年から明治3年(1870)にかけて発生した長州での奇兵隊脱隊騒動を鎮圧するなど功績を残しました。

この間、兄・井上光遠が亡くなったため井上家の家督を継ぎ兄の次男・勝之助を養子として引き取り、明治3年(1870)には新田俊純の娘・武子と結婚します。

 

江藤新平らと衝突

明治維新後、木戸孝允に引き立てられ大蔵省に入り、伊藤博文とともに行動をします。

明治4年(1871年)7月には副大臣相当職の大蔵大輔に昇進し、事実上、大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほど権力を手に入れました。

しかし、大蔵省は民部省と合併した組織であったため、財政に力をいれていた井上馨は、予算問題の革命に対する多額の予算を要求する各省、また学制頒布を掲げる文部卿・大木喬任、西洋的な三権分立の導入を進める江藤新平と衝突となります。

この時、大蔵卿・大久保利通は岩倉使節団に加わり外遊を行っていました。

これに対し、このような事態を憂いた井上馨は大久保利通の洋行に反対しましたが、西郷隆盛が大久保利通の代行となるということで納得しました。

 

辞職に追い込まれる

田畑永代売買禁止令や地租改正が未だ実施されておらず財政は窮乏となり、急遽、緊縮財政の方針と予算制度確立を図りましたが、予算を削られた司法卿・江藤新平が井上馨に反発し明治6年(1873年)、予算問題や尾去沢銅山汚職事件を江藤新平に追及され辞職となりました。

その後、岩倉視察団が日本に帰国すると武力をもって朝鮮を開国しようとする主張する征韓論の論争や、それに発展した明治六年の政変によって西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野し内務省が創設されます。

 

政界への復帰

政界から引いた井上馨は現在の三井物産の前身である先収会社を設立するなど行っていましたが、伊藤博文の強い要望もあり政界に復帰します。

明治8年(1875年)に大阪会議を行い、また同年発生した日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である江華島事件の処理を行うため翌年に正使・黒田清隆とともに福使として渡米し、同年2月に日朝修好条規を締結しました。

その後、家族を連れイギリス、ドイツ、フランスなどを外遊していましたが、西南戦争の勃発、大久保利通の暗殺などがあったため明治11年(1878年)7月に帰国しました。

 

済物浦条約と漢城条約の締結

大久保利通暗殺後、伊藤博文によって参議兼工部卿に就任し、翌年には外務卿へ転任となり、明治14年(1881年)になると国家構想を巡って伊藤博文と大隈重信が対立していた際、伊藤博文を擁護し、大隈重信を追放しました。

その後、明治15年(1882年)日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱である壬午軍乱が起こると、朝鮮と済物浦条約を締結し、明治17年(1884年)12月に朝鮮で独立党のクーデターである甲申事変が起こると、その後朝鮮との間で講和を目的とした漢城条約を結びます。

この間、井上馨は日本における欧化政策の推進のため外国との社交場である鹿鳴館、帝国ホテルの建設を行っていました。

欧化政策として鹿鳴館を創設

井上馨は明治15年(1882年)鹿鳴館の建設を開始します。

当時の日本は不平等条約改正交渉が外交問題となっていました。

その中でも特に外国人に対する治外法権の撤廃が重要視されていました。

しかし、日本に住む外国人たちはこれまで日本国内において数々の残虐な磔刑や打ち首を目にしており、そのため、治外法権撤廃に強硬に反対しており不平等条約改正交渉はなかなか進めることができませんでした。

そこで井上馨は欧化政策として、日本が文明国であるということを諸国に知らせるため外国使節の接待ができる欧米風の社交施設の建設を行います。

この施設こそが鹿鳴館でした。

 

鹿鳴館時代

明治16年(1883)に完成した鹿鳴館は、国賓の接待がけではなく、舞踏会や天長節の祝賀、皇族や上流婦人の慈善バザーなども行われていました。

このように欧化主義を広めようとた活動は明治20年(1887)まで続けられ、この間を鹿鳴館時代と呼びます。

しかし、西洋文化を取り入れた所で、西洋人から見れば様にならないものばかりであたっとされ、西洋人は日本人を滑稽と記し、嘲笑していたとされています。

欧化政策に反対していた国粋主義者たちは鹿鳴館で行われている行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」と非難し、鹿鳴館は後の明治20年(1887年)に井上馨が外務大臣を辞職するに伴って欧化主義を広めようとした鹿鳴館時代は衰退となりました。

 

改正の反対

明治18年(1885年)伊藤博文が内閣総理大臣に就任すると井上馨は初代外務大臣に就任となり、引き続き、条約改正に力を注ぎます。

井上馨は、日本が関税を引き揚げて税収増加を図る、日本の行政規則を条件付きで外国人に及ぼすこと、外国人には土地所有権、営業権、内地雑居権を与えるなどの改正案を説いていました。

しかし明治20年(1887年)にこの改正案が広まると、改正案の1つであった裁判に外国人判事を任用するなどの内容に対し、反対運動が起き、また閣僚も反対についたため、同年7月に改正交渉延期を発表、9月には外務大臣を辞職します。

 

総理臨時代理を務める

明治21年(1888年)伊藤博文が大日本帝国憲法を作成するため内閣総理大臣を辞任すると黒田清隆が次期内閣総理大臣となりました。

黒田内閣において農商務大臣に復帰するも、政府寄りの政党を創立させるため計画していた自治党計画が翌月の2月に反対され挫折し、5月末から病気を理由に閣議を欠席するとそのまま引き籠るようになり、10月に辞任しました。

明治25年(1892年)8月8日に再び伊藤博文が内閣総理大臣に就任すると内務大臣に就任し、11月27日から翌年の昭和26年(1893年)2月6日までの間、伊藤博文が交通事故で負傷したため、総理臨時代理を務めました。

 

朝鮮公使

明治27年(1894年)7月に日清戦争が勃発すると戦時中の10月15日に内務大臣を辞任し、朝鮮公使に転任し終戦の明治28年(1895年)8月まで務めました。

朝鮮において、金弘集内閣を成立させるなど改革に力を注ぎましたが、終戦後の三国干渉では成果をあげられないまま日本に帰国します。

その後、後任であった朝鮮公使・三浦梧楼が親露派・閔妃を殺害するといった乙未事変が起き三浦梧楼が解任されると特派大使に任命され、次期朝鮮公使・小村壽太郎を支えるため10月に渡米し翌月に帰国します。

 

戦費調達に奔走

明治34年(1901年)第4次伊藤内閣の崩壊後、大命降下を受けて組閣作業を行いました。

この時、右腕であった渋沢栄一を勧めるも拒否されたため組閣作業から抜けます。

その後、井上馨は後輩の桂太郎を内閣総理大臣に推薦すると、見事当選し第1次桂内閣を成立させました。

桂政権において井上馨は日露戦争勃発まで、戦争反対を掲げていましたが、明治37年(1904年)に日露戦争が始まると戦費調達に奔走します。

戦費調達のために国債を集めて、足りない分は外債を募集し日本銀行副総裁・高橋是清を通して見事、ユダヤ人投資家のジェイコブ・シフから多額の外債を獲得することができました。

 

井上馨の最期

明治42年(1909年)伊藤博文暗殺後は西園寺公望や松方正義などと共に大老となります。

大正3年(1914年)元老会議において、次期内閣総理大臣に大隈重信を推薦し第2次大隈内閣を誕生させるも、大正4年(1915年)7月に体調が悪化し9月1日に79歳で亡くなりました。

井上馨の子孫

井上馨は生涯において2度の結婚をしています。

 

前妻・志道慎平の次女

名前は判明していませんが、志道慎平の次女と結婚していました。

しかし、文久3年(1863)に離婚します。

2人の間には志道芳子が誕生していますが、離婚後、志道氏へ引き取られました。

 

後妻・武子

新田俊純の娘です。

武子は1度離婚しており、井上馨とは再婚となります。

2人の間には2人の娘と、5人の養子がいました。

 

井上勝之助

井上馨と武子に迎えられた養子です。

井上馨の兄・井上光遠の次男として誕生しましたが、父が亡くなったため井上馨の養子として迎えられました。

外交官となった人物です。

 

井上千代子

井上馨と武子の間に誕生した娘です。

井上馨の後輩にあたり首相となった桂太郎の息子・三郎を婿養子に迎えました。

その息子・井上光貞は東大名誉教授となった人物です。

 

井上聞子

井上馨と武子の養子となった子です。

藤田四郎と結婚しました。

 

井上末子

井上馨と武子の養子となった子です。

井上勝之助の妻となりました。

 

井上龍子

井上馨と武子の養子となった子です。

山田顕義の妻となりました。

 

井上光子

井上馨と武子の養子となった子です。

都筑馨六の妻となりました。

 

井上可那子

井上馨と武子の養子となった子です。

桂太郎の3番目の妻となりました。

 

最後に

井上馨はもともと尊王攘夷派でしたが幕末において開国派に変わり開国活動を行い、明治に入ると外交や戦争の資金調達、不平等条約の改正、欧化政策として鹿鳴館の建設などを行った人物でした。

欧化政策の1つとして異国文化を取り入れるため鹿鳴館を建設し舞踏会などを開催しましたが、西洋人や国粋主義者からは非難され、鹿鳴館外交は外交として失敗に終わりました。

しかし、庶民の生活において近代化の前進となる役割となることができました。